第15話 巡るもの
崩れた岩壁の向こうには、人が通れるほどの穴が開いている。そこからギルドマスターが現れたのだ。俺はスライムになってから、初めてこの男を見た。
半獣人の少女は、咳き込みながら後ろへ下がった。口元にはまだ白い菌糸がまとわりついている。
「動けるか?」
「うん」
「なら下がっていろ 勇者と陰陽師の近くだ」
その声は落ち着いていた。だが、その奥には怒りが潜んでいる。エリンギとベニテングダケは、じっとギルドマスターを見ている。さっきまで半獣人の少女へ向いていた一つ目が、今は彼だけに向けられていた。
「また来たねー」
ベニテングダケが、どこか間延びした声で言った。ギルドマスターは答えなかった。ただ、半獣人の少女と俺、それから倒れている勇者と陰陽師の前に立つ。上半身の鎧には壁を突き破った時についた土埃が残っていたが、本人は気にもしていないようだった。
「うん 今日は忙しいね……」
「エリンギくん この人のマナも貰っちゃおうよ」
「うん そうだね じゃあ 君のマナも貰うね」
エリンギの一つ目が、ゆっくりと細くなる。次の瞬間、洞窟の空気が歪んだ。
エリンギから放たれた光が、ギルドマスターの体を包む。胞子が渦を巻き、足元の菌糸がざわざわと震える。嫌な感じだった。魔力を吸い出されるような、体の奥にあるものを無理やり引き抜かれるような感覚。さっき俺の体に菌糸が絡みついた時にも、似た感触があった。
勇者と陰陽師が倒れている理由も、おそらくこれなのだろう。だとすれば、まともに受けていい攻撃ではない。
「……ん?」
ベニテングダケが首を傾げた。エリンギも、同じように動きを止める。洞窟の中に、妙な沈黙が流れる。
「あれ?」
ギルドマスターは、無言で立ち続けていた。
「エリンギくん どうしたの?」
「吸ってるはずなのに マナが流れてこない…… 変なの 生きてるのに」
エリンギは不思議そうに呟いた。ベニテングダケも目を丸くしていた。ギルドマスターは、そこで初めて口を開く。
「悪いが マナとか魔力とか その手のものは持ち合わせていなくてな」
彼の言葉は説明になっていない。生物はみな魔分を持ち、体内に循環させている。スライムもゲジゲジもニワトリも人間も、食物連鎖の中で魔分をやり取りし、命を紡いできた。それが生物の営みであり、この世界の理だ。
「じゃあ なんで生きてるの?」
ベニテングダケが無邪気な子供のように尋ねると、ギルドマスターは肩をすくめた。
「さあな…… 元々この世界の人間じゃないからな」
エリンギは、じっとギルドマスターを見つめている。その一つ目が、ぎらりと光ったような気がした。
「この世界の人間じゃない……?」
「ああそうだ」
「つまり 僕たちが属する時空連続体とは異なる 事象の地平の『向こう側』から来たってこと?」
「まあ そうなるな」
俺には彼らが話していることがよく分からない。だが、ギルドマスターがかなり特殊な出自であることは想像できた。
「ふ~ん 調べたら面白いかも」
「うん 中がどうなってるか見てみたい」
ぞわりとした。ギルドマスターの表情がわずかに変わる。怒りというより、面倒なことになったと判断した顔だった。
次の瞬間、エリンギの体がぶれた。
さっきまでゆっくり近づいていた動きとは違う。エリンギの太い体がしなり、白い腕が槍のようにギルドマスターへ伸びる。速い。だが、ギルドマスターはそれを見切り、上体を傾けていた。白い腕が鎧のすぐ横を通り過ぎ、背後の岩壁に突き刺さる。岩が砕けた。
「……躱すね」
「慣れてるだけだ」
ギルドマスターは短く返した。彼は昔から、回避型タンクとしてパーティーを支えてきた。敵を挑発し、攻撃を引き付け、仲間を守る。それが彼の役割だった。
エリンギは太い体をしならせ、再び攻撃を仕掛けてくる。目にも留まらぬ動きだった。
「でも いつまで避けられるかな?」
エリンギは笑った。その笑顔は無邪気で、どこか狂気を感じさせるものだった。彼は次々と攻撃を仕掛けてくる。
ギルドマスターはそれを避け続けた。だが、その動きには余裕がない。
エリンギの攻撃を躱しきれずに、鎧の一部が欠けた。
「くっ……!」
ギルドマスターは顔をしかめる。だが、倒れない。踏みとどまり、腕を払ってエリンギの軌道を逸らす。強い。勇者のように派手ではない。魔王のような圧倒的な魔力もない。それでも、今この場では、誰よりも頼もしく見えた。
ギルドマスターはキノコ星人から目を離さずに言った。
「何か食べ物は持っているか」
「食べ物?」
半獣人の少女は、一瞬きょとんとした。この状況で食べ物。普通なら意味が分からない。だが、彼女はすぐに自分の荷物を見下ろした。
「……ある 魔王城でもらった弁当」
「魔王城だと……? まあいい 勇者に食わせろ 勇者なら もう一度動けるようになれば 状況を変えられる……」
エリンギが再び動いた。今度はギルドマスターではなく、弁当を取り出そうとする半獣人の少女を狙っている。
だが、ギルドマスターはそれを読んでいたように、彼女との間へ滑り込んだ。白い腕が銀色の鎧に叩きつけられる。鈍い音が響いた。
「っ……!」
ギルドマスターの顔が苦痛に歪む。エリンギは続けざまに拳を振り下ろす。腕を叩きつけ、足に蹴りを入れ、バランスを崩したところで胴を殴りつける。
「急げ」
「わ 分かった!」
半獣人の少女は慌てて荷物を開いた。布に包まれた弁当箱を取り出す。中には、魔王の唐揚げが入っていた。
「勇者さん 聞こえる?」
半獣人の少女が勇者のそばに膝をつく。勇者の目は閉じたままだった。だが、完全に意識を失っているわけではないらしい。呼びかけに反応するように、指先がわずかに動いた。唇も少しだけ開く。
「……力が……出ない……」
かすれた声だった。いつもの自信に満ちた勇者とはまるで違う。だが、生きている。まだ、こちらの声は届いている。
「ごめん 無理やりだけど 食べて」
半獣人の少女は唐揚げを一つ手に取り、勇者の口元へ近づけた。勇者はほとんど動けない。それでも、唐揚げが唇に触れると、わずかに口を開いた。最初は反応がないように見えた。だが、唐揚げが口に入ると、喉が小さく動く。ゆっくりと噛み、飲み込む。
次の瞬間、勇者の指先がぴくりと動いた。俺はそれを見逃さなかった。勇者の体の奥で、弱り切っていた魔力の流れが、少しずつ戻り始めている。完全ではない。だが、さっきまで空っぽに近かったものに、火が灯るような感覚があった。
魔分を蓄えたニワトリ。魔王城で食べた唐揚げは、ただの料理ではなかったのだ。採掘中に何度も見てきた食物連鎖。その先にあるものを、勇者は今、食べている。
「……力が」
勇者のまぶたが、かすかに開いた。
「力が 戻ってくる……」
半獣人の少女が目を丸くする。
「本当に効いた……」
俺も同じ気持ちだった。魔王が作った唐揚げ。こんなところで役に立つとは。
勇者は、ゆっくりと目を開いた。まだ顔色は悪い。呼吸も浅い。だが、さっきまでとは明らかに違う。体の奥で消えかけていた魔力が、少しずつ戻ってきている。
「……これは」
勇者がかすれた声で呟く。半獣人の少女は、もう一つ唐揚げを手に取った。
「まだ食べられる?」
勇者は一瞬だけ迷ったように見えたが、すぐに口を開いた。よほど空腹だったのだろう。二つ目の唐揚げを飲み込むと、勇者の体に力が戻った。腕が動き、肩が上がる。白い菌糸が体にまとわりついていたが、勇者はそれを乱暴に引き剥がした。
「……ありがとう 助かった」
勇者はそう呟くと、勢いよく立ち上がった。まだ足元がふらついている。それでも、その瞳には強い光が宿っていた。
「よく眠れたか 勇者殿」
ギルドマスターはキノコ星人から目を離さないまま、皮肉っぽく笑った。
「……面目ない 油断した 私はどうすればいい?」
この勇者が他人に意見を求めるのは意外だった。だが、それだけギルドマスターが信頼されているということだろう。彼は予め決めていたかのように答えを返す。
「炎魔法を使え キノコの弱点は 炎と相場が決まっているだろう」
「承知した」
勇者は力強く答え、剣を構えた。その刃の先に、赤い光が宿り始める。洞窟内の空気が熱を帯びる。白い胞子が、炎に怯えるように揺れた。勇者は剣を構えたまま、エリンギとベニテングダケを見据える。
「炎よ……」
その言葉を聞いた瞬間、俺は以前の採掘場で見た光景を思い出した。魔王へ向けて放たれた、あの炎。近くにいるだけで体の表面が乾きそうになる、圧倒的な熱。
「焼き尽くせ!」
赤い光が洞窟を満たした。白い胞子が一瞬で焼ける。岩壁に張りついていた菌糸が、ぱちぱちと音を立てて焦げ落ちていく。
「熱い」
「熱いの だめ」
さっきまで人間も魔族も菌床としてしか見ていなかったキノコ星人たちが、初めてはっきりと怯えていた。炎がさらに広がる。エリンギとベニテングダケの姿が、赤い光に呑み込まれた。
「ぎゃあああああああ!! こうかはばつぐんだ!!」
炎が収まると、洞窟の中は静かになっていた。さっきまで漂っていた白い胞子はかなり薄くなっている。地面を這っていた菌糸も、黒く焦げて動かない。完全に消えたのか、それともどこかに残っているのかは分からない。だが、少なくとも今この場で、俺たちを襲うものはいなくなっていた。
「……勝った……のか?」
俺も同じことを思った。勝った。たぶん、勝った。
勇者は剣を下ろした。まだ少し足元はふらついているが、目にはもう力が戻っている。
「助かった 礼を言う」
その言葉は、半獣人の少女に向けられていた。半獣人の少女は、少し困ったように弁当箱を見下ろす。
「ううん 私は何も…… 魔王に感謝しないとね」
「魔王? どういうことだ?」
半獣人の少女は少し考え込んだ。
「えっと……話すと長いんだけど」
確かに、話したらかなり長くなるだろう。彼女たちの様子を見て、ギルドマスターが短く息を吐いた。
「まずは外へ出よう」
「そうだね 帰ろう 青いの」
半獣人の少女は俺を抱き上げた。焦げた胞子の匂いが、まだ洞窟の中に残っている。それでも、さっきまでより空気はずっと軽かった。
◇ ◇ ◇
森を覆っていた白い胞子は、少しずつ薄くなっていた。エルフの少女は、木の根元に膝をつき、眠るように倒れていた小さな獣を見つめていた。さっきまでは呼吸も浅く、呼びかけても反応しなかった。だが今は、耳がぴくりと動いている。やがて、その獣はゆっくりと目を開けた。
「……起きた」
エルフの少女は、小さく息を吐いた。森の奥から、鳥の声が聞こえる。風が枝葉を揺らし、白く濁っていた空気が少しずつ流れていく。何が起きたのかは分からない。勇者が何かをしたのか。ギルドの誰かが動いたのか。
ただ、森は確かに元の姿へと戻りつつあった。木々の葉に積もっていた白い粉が、柔らかな風に少しずつ払われていく。地面に伏せていた小さな草が、重しを外されたようにゆっくりと身を起こす。眠るように静まり返っていた森の奥から、かすかな羽音が聞こえた。
エルフの少女は、まだ目を覚ましたばかりの小さな獣をそっと抱き上げた。
「よかった」
それ以上の言葉は出てこなかった。まだ完全に元通りになったわけではない。白い胞子はまだ岩陰や木の根元に残っているし、森の奥には眠ったままの獣もいるだろう。それでも、さっきまで森全体を覆っていた重たい眠りは、少しずつほどけ始めていた。
◇ ◇ ◇
テーブルの上には、夕食の皿が並んでいる。その中心には、魔王が作った唐揚げが置かれていた。
「……遅いわね 迎えに行った方が良かったかしら」
「その必要はありません 採掘班二名の生命反応は接近中です 間もなく到着するかと」
「そう それは良かった」
魔王はふわりと微笑んだ。




