【第8話】止まれない男と、隙間を歩くタヌキ(前編A)
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森を抜けた先に広がっていたのは、なだらかな下り坂と、その向こうに輝く海だった。
絶好のロケーションだ。本来なら感動で胸を震わせる場面だろう。
だが今の俺は、それどころではなかった。
西の交易都市――港町ポルトマーレに行けば、森の外の情報が集まる。俺たちはそれを拾いに行く途中だった。
直也「……か、加湿器……誰か、加湿器をくれ……」
俺は砂漠で干からびたミミズのように、地面を這っていた。
第7話のラストでリィナが放った生活魔法『お掃除』は、あまりに完璧すぎた。
森の怪物どころか、空気中の湿気、肌の水分、ありとあらゆる「潤い」を根こそぎ拭き取ってしまったのだ。
喉が張り付き、瞬きをするたびに瞼がカサカサと音を立てる。
唇なんて、うっかり笑おうものならピシリと裂けてしまいそうだ。
リィナ「あわわ、直也さん!本当に干物みたいになってます!ごめんなさい、私、張り切りすぎて……!」
直也「……いいんだ……リィナちゃんは悪くない……悪いのは……この世界の『加減を知らない』仕様だ……」
俺は枯れ木のような指で、自分の頬に触れた。
指紋の感覚すらない。ツルツルのプラスチックを撫でているみたいだ。
隣ではゼピュロスが、脱水症状などどこ吹く風で、海風を浴びて気持ちよさそうにしている。
ゼピュロス「うわー!海だ海だー!マスター、早く行こうよ!水浴びすれば治るって!」
直也「……そこまで行く体力が……残ってない……」
俺が力尽きて倒れ込むと、リィナが決意に満ちた顔で杖を構えた。
リィナ「待ってください直也さん!お水はないですけど、保湿ならできます!森で採れた薬草ゼリーの魔法、えいっ!」
彼女の杖先から、プルプルとした緑色の半透明な塊が飛び出した。
それは俺の顔面に直撃し、渇ききった肌にじゅわっと染み渡る……はずだった。
ベチャッ。
ヌルヌルヌル……。
直也「……ん?」
染み渡らない。
染み込むどころか、俺の全身を分厚い粘膜のように覆い尽くしていく。
まるで巨大なナメクジに飲み込まれたような感触だ。
リィナ「あ、あれ?ちょっと粘度が高すぎましたか?これじゃあ、保湿というよりコーティングですね……」
直也「……リィナちゃん。これ、息ができないんだが?溺れる……陸にいて溺れる……!」
リィナ「ひゃあ!すみません!すぐに落とします!……えいっ、生活魔法『お掃除・ベタつき除去』!」
再び杖が光る。
俺の体を覆っていた不快なヌルヌルが、一瞬にして弾け飛んだ。
呼吸ができる。肌も潤っている。完璧だ。
……いや、完璧すぎた。
直也「ふぅ……助かった。ありがとうリィナちゃん。これでやっと立てる――」
俺は立ち上がろうとして、地面に足をついた。
その瞬間だった。
ズルッ!!
直也「へ?」
踏ん張りが利かない。
氷の上に油を撒いたなんてレベルじゃない。
靴底と地面の間に、物理的な接点が一切存在しないような、完全なる無抵抗。
俺の体は、重力に従ってスルスルと坂道を滑り始めた。
直也「うおっ!?な、なんだこれ!?止まらねぇ!?」
リィナ「あっ……! ごめんなさい! 直也さんの足が“つるつる”になってます!」
直也「つるつるって……それ、足の『引っかかり』が消えてるってことかよ!? そんなもん掃除できるのか!?」
俺の叫び声は、風に置き去りにされた。
坂道の傾斜はそれほどきつくない。だが、摩擦ゼロの世界において、角度はさほど重要ではない。
一度動き出したが最後、慣性の法則だけが俺の支配者となる。
俺は直立不動のまま、スーパースキーヤーも真っ青の速度で加速していく。
ゼピュロス「あははは!マスター、なにそれ面白ーい!私も乗せてー!」
直也「来るな!絶対に来るなよ!重量が増えたら加速するだろ!」
ドスッ!
俺の背中に、軽い衝撃と共に何かが張り付いた。
ゼピュロスだ。あろうことか、滑走する俺の背中に飛び乗ってきやがった。
ゼピュロス「出発進行ー!目指せ港町ー!」
直也「降りろバカ!俺は乗り物じゃねぇ!」
ゼピュロス「えー?でも風に乗るより乗り心地いいかも!ツルツルしてて気持ちいいー!」
直也「ツルツルなのは俺の足だ!背中は関係ねぇ! それに褒め言葉にもなってねぇよ!」
俺たちは人間ソリとなって、街道を猛スピードで滑走していた。
景色が後ろへすっ飛んでいく。
本来なら数十分かかるはずの道のりが、数秒で消化されていく。
ALMA『計測。現在の速度、時速60キロメートル。直也さんの靴底の摩擦係数、測定不能なレベルまで低下しています。このままでは港町の入り口で静止できません』
直也「解説してないでブレーキかけろよ!」
ALMA『不可能です。直也さんは現在、物理法則の例外処理として「滑る物体」として定義されています。外部からの強制停止以外に止まる術はありません』
直也「つまり激突しろってことか!?」
眼下には、目的地の港町「ポルトマーレ」が迫っていた。
白壁の家々が整然と並び、港には帆船が停泊している。
美しい街並みだ。
だが、滑り落ちていく俺の目には、その美しさがどこか不気味に映った。
直也(……なんだ、あの街?)
スピードのせいじゃない。
家々の屋根の角度が、定規で引いたように揃いすぎている。
通りを歩く人々の服の色合いが、まるでパレットから適当に選んだように均一だ。
そして何より、匂いがない。
これだけ海に近いのに、潮の香りも、魚の匂いも、生活の雑多な臭気も、一切漂ってこない。
直也「……まるで、出来立てのプラモデルみたいだな」
俺が呟いた直後、街の入り口にある検問所のようなゲートを通過した。
門番たちが立っていたが、俺たちの猛スピードに反応すらできなかった。
すれ違いざま、門番の槍先が俺の袖にかすった。袖口の糸が、ほんの一瞬だけ白く抜けた。
いや、違う。
彼らは全員、まったく同じタイミングで右手を上げ、まったく同じ角度で敬礼のようなポーズを取っていた。
俺たちが通り過ぎた後も、そのポーズのまま微動だにしないのが、視界の端に見えた。
ゼピュロス「わー!みんな歓迎してくれてるよマスター!」
直也「歓迎じゃねぇよ!ありゃただの『置物』だろ!」
だが、ツッコミを入れている余裕はもうなかった。
俺たちの目の前に、市場の入り口が見えてきたのだ。
野菜や果物を並べた露店が、道の両脇にずらりと並んでいる。
そして、そのど真ん中に、一軒だけ妙に派手な屋台が道を塞ぐように建っていた。
直也「ど、どけぇぇぇ!ブレーキが効かないんだぁぁぁ!」
俺は必死に叫んだが、屋台の主らしき小太りの影は、のんびりとあくびをしている。
???「へいらっしゃい、伝説の剣はいらんかねー……って、あ?」
直也「あ?じゃねぇ!逃げろぉぉぉ!!」
ドガァァァァン!!
派手な衝突音が響き渡り、木箱が空を舞った。
俺とゼピュロスは屋台の商品ごと突っ込み、ようやくその暴走を停止させた。
いや、停止させられた。
俺は瓦礫の山となった屋台の中で、目を回しながら空を仰いだ。
痛くない。リィナの保湿コーティングのおかげか、それとも摩擦ゼロで衝撃が逃げたのか。
だが、状況は最悪だ。
???「……おいおい、旦那。派手な登場じゃねぇか」
瓦礫の向こうから、低い声が聞こえた。
俺が瓦礫を押しのけて体を起こすと、そこには一匹の獣人が立っていた。
茶色い毛並み。目の周りの黒い模様。そして、小太りの腹に巻かれた法被。
どう見ても、二足歩行するタヌキだった。
直也「……タヌキ?」
タヌキ「タヌキじゃねぇよ、ポン太様だ。……ていうか旦那、俺っちの店を粉々にしておいて、第一声がそれか?」
彼は怒っているようだったが、その目はどこか笑っているようにも見えた。
そして何より奇妙だったのは、これだけの衝突事故が起きたのに、彼の体には傷ひとつなく、法被の裾すら乱れていないことだった。
俺たちが突っ込む寸前、彼はまるで煙のように「ふわり」と身をかわしたのだ。
俺の動体視力でも捉えきれない、不自然なほどの軽さで。
直也「……悪かったよ。弁償はする。ただ、俺も止まりたくても止まれなかったんだ」
ポン太「へぇ?止まれない男ねぇ。……ま、生きてるなら商売の話ができるな」
ポン太と名乗ったタヌキは、瓦礫の中から一本の古びた剣を拾い上げ、ニヤリと笑った。
ポン太「ちょうどいい。この『伝説の剣』、お買い上げってことでいいよな?旦那」
俺はこの時まだ知らなかった。
この胡散臭いタヌキとの出会いが、この整いすぎた街の「裏側」を暴くきっかけになることを。
そして、俺の摩擦ゼロ地獄が、まだ始まったばかりだということを。
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次回更新日は2月17日(火)前編Bパートになります。
お楽しみに!




