【第7話】迷いの森に、道なんてあるわけない(中編B)
タイトル:
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霧の向こうから現れたのは、一頭の立派な雄鹿だった。
天を突くような見事な角。艶やかな毛並み。
森の主と呼ぶにふさわしい威厳を漂わせている……はずだった。
ドスッ。ドスッ。ドスッ。
鹿は、目の前の大木に向かって、一定のリズムで頭突きを繰り返していた。
いや、頭突きではない。
よく見れば、鹿は「木に向かって歩こうとしている」のだ。
足は地面を蹴り、前進しようと泥を搔いている。だが、木という障害物に阻まれて一歩も進めない。
それでも鹿は止まらない。避けることもしない。
ただひたすら、壊れた玩具のように、木に鼻先を押し付け、その場で足踏みを続けているのだ。
ドスッ。ドスッ。
その無機質な音だけが、静寂な森に響いている。
リィナ「……あの、直也さん。鹿さん、何をしているんでしょうか?木の精霊さんと力比べですか?」
直也「……いや、違う」
俺の背筋に、冷たいものが走る。
これは力比べなんて熱いものじゃない。もっと虚ろで、絶望的な光景だ。
直也(……思考がない。ただ、同じ動きを永遠に繰り返しているだけだ)
障害物に引っかかっているのに、それを認識すらしていない。
まるで、見えないレールの上を走らされている模型列車だ。レールの先に壁があっても、止まる機能そのものが最初からついていない。
瞳には光がなく、ガラス玉のように濁っている。生き物としての「意思」が、そこには一欠片も感じられない。
ゼピュロス「なにこれー?面白ーい!ねぇねぇ、通せんぼされてるの?」
ゼピュロスが近づき、鹿の目の前で手を振る。
だが、鹿は反応しない。瞬きひとつせず、虚空を見つめたまま、ひたすら木に突進し続けている。
ゼピュロス「むぅ、無視された!失礼な鹿だなぁ」
リィナ「かわいそうな鹿さん……。きっと、迷子になってパニックになっているんですね。私が助けてあげます!」
リィナは慈愛に満ちた表情で鹿に歩み寄ると、その体を優しく抱きかかえた。
リィナ「ほら、こっちですよ。広い道はあっちです」
彼女は鹿の体を九十度回転させ、障害物のない方向へ向けた。
すると。
鹿は何事もなかったかのように、スタスタと歩き出した。
礼を言うわけでもない。振り返るわけでもない。
ただ、「進行方向に壁がなくなった」という事実だけを受け入れ、機械的に直進を再開したのだ。
その動きはあまりに滑らかで、そしてあまりに不気味だった。
リィナ「よかったです!元気に帰っていきました!」
直也「……リィナちゃん。あれは、本当に『生きている』ように見えたか?」
リィナ「え?はい、温かかったですよ?」
直也「そうか……なら、いいんだけどな」
俺は口をつぐんだ。彼女の純粋さを、俺の臆測で濁す必要はない。
だが、ALMAの報告は冷徹だった。
ALMA『解析報告。対象生物から、明確な「自意識」および「感情」の波形を検知できませんでした。あらかじめ設定された単純な行動律のみで駆動する、自動人形に近い存在と推測されます』
直也(やっぱりか。ここは、背景だけじゃなく、配置されてる住人まで『張りぼて』なのかよ)
俺たちは再び歩き出したが、森の異常さは加速度的に増していった。
次に遭遇したのは、鳥だった。
鮮やかな青い羽を持つ小鳥が、空中に浮かんでいる。
ホバリングではない。
翼を広げ、羽ばたく動作をしているのに、その場所から一ミリも動いていないのだ。
まるで、見えないピンで空間に縫い付けられた標本のように。
ゼピュロス「あ、鳥さんだ!捕まえちゃおー!」
ゼピュロスがジャンプして手を伸ばす。
しかし、彼女の手は鳥の体をすり抜けた。
ゼピュロス「あれ?スカスカだ!この鳥さんも『中身がない』やつだ!」
直也「空間に縛り付けられた亡霊か……。ここまで来ると、逆に芸術的だな」
俺は見上げたまま、呆然と呟いた。
羽ばたき続ける鳥。だが、風は起こらない。前にも進まない。
ただ「飛んでいる動作」を再生しているだけの、映像の残骸。
直也「……わかったぞ。ここは『迷いの森』なんて高尚な場所じゃない」
リィナ「え?どういうことですか?」
直也「ここは『ゴミ捨て場』みたいなもんだ。あるいは、作りかけの残骸が転がってる“置き場”だ」
神様だか何だか知らないが、誰かが雑に作って、手を止めた気配がする。……そんな「途中で投げた感じ」が、この森じゅうに染み付いてる。
俺の目には、そう見えた。
消えずに残ってるのが、逆に悪質だ。誰も来ない場所に押し込められて、蓋をされたみたいに。
ALMA『補足。原因の断定は不可能です。ただ、この領域は「反復」と「欠落」が顕著で、安定性が低いと推測します』
だから「迷いの森」。入ったら出られないのではなく、最初から「出口」なんて作られていないのかもしれない。
俺の中で、恐怖の質が変わった。
魔物に襲われる恐怖ではない。
「世界の裏側」を見てしまったという、禁忌に触れる恐怖。
そして、自分が立っている地面すら、いつ「虚無」に飲まれて消滅するかわからないという不安。
会社員時代、誰もいない深夜のオフィスで感じた、あの底冷えするような孤独感に似ている。
リィナ「直也さん?顔色が……」
直也「……急ごう。ここは長居していい場所じゃない。存在しちゃいけない場所なんだ」
俺はリィナの手を強く握り直した。
この不安定な世界で、彼女の体温だけが唯一の確かな現実だった。
だが、この「壊れた世界」は、俺たちをそう簡単には逃してくれないらしい。
ズズズズズ……。
突如、足元の地面から、耳障りなノイズのような音が響き始めた。
地震ではない。もっと不快な、黒板を爪で引っ掻いたような音。
ゼピュロス「わっ!なにこれ!地面がビリビリする!」
ALMA『警告。周辺領域の理が、急速に歪められています。何かが、強制的に「出現」しようとしています』
直也「歪んでるだと……?今度は何が出てくるんだ!?」
目の前の空間が、熱に浮かされたように激しく明滅する。
双子のように同じ形をした木々がねじれ、静止した鳥が虚空に飲まれて消滅した。
そして、混沌とした「情報の濁流」の中から、このエリアの主とも呼べる異形の存在が、その姿を現そうとしていた。
◆◆◆(中編ここまで)◆◆◆
次回は2/6(金)更新、後編Aパートになります。
お楽しみに!




