第6話「風の魔剣は、空気を読まない」(後編)
◆◆◆
焚き火の爆ぜる音が、静まり返った夜の森に響く。
カシュの実の甘い残り香が漂う中、俺は自分の首元に手をやった。
そこには、まだしっかりと俺の喉を締め上げている「前の世界の残骸」があった。
ネクタイだ。先程、ゼピュロスが言い放った言葉が、冷たい風のように俺の胸を通り抜けていく。
ゼピュロス「ねぇ、マスター。さっきからずっと気になってたんだけどさ。……そろそろ、その『惨めな自分』を象徴してるもの、捨てちゃったら?」
彼女のニヤリとした笑みが、焚き火に照らされて揺れている。
その透明な瞳は、俺が必死に隠してきた「社畜の未練」を、いとも容易く透かし見ていた。
直也「……惨めな、自分か」
俺は、煤けて汚れたネクタイの結び目を指でなぞった。
15年間。俺はこの布きれを結ぶことで、自分を「社会」という巨大な歯車の一部に適合させてきた。
毎朝、鏡の前でこの結び目を整える時間は、俺にとって人間から「部品」へと変身するための儀式だった。
どんなに理不尽な上司の叱責も、終わりの見えないサービス残業も、このネクタイを締め直すことで耐えてきたのだ。
喉元を絞めつけるこの不快な感触こそが、俺が「まともな大人」であることの証明だと信じ込んでいた。
だが、今の俺はなんだ?会社はない。役職はない。
俺を評価する査定シートも、俺の存在を証明する名刺もない。
あるのは、自由と、筋肉痛と、この重苦しい首の感触だけだ。
先程、中編でリィナが作ってくれた、あの「綺麗なだけのコーヒー」を思い出す。
世界の「正しさ」によって、俺が愛した苦味や雑味は徹底的に拭い去られてしまった。
この世界は、俺という個人の「ズレ」を許さない。
そんな場所で、この前の世界のルールを象徴する紐に固執し続ける意味がどこにある。
ゼピュロス「そうだよ!私には、それがただの『首輪』にしか見えないもん。……『私は飼い犬です、ご主人様の言うこと聞きます!』って繋がれるための鎖。ご近所の家畜だって、もっと動きやすそうな紐をつけてるよ?マスター、そんなに誰かの奴隷でいたいの?」
言葉が出なかった。彼女の指摘は、無邪気ゆえに、俺の心の最も柔らかい部分を正確に射抜いていた。
俺はこのネクタイを外すことで、自分が何者でもなくなるのが怖かったのかもしれない。
首を絞められる苦痛を、生きている実感だと勘違いしていたのだ。
直也「……ははっ。違いない。俺はずっと、自分で自分に首輪をつけて、誰かがリードを引いてくれるのを待ってたんだな。情けないったらありゃしない」
ALMA『……直也さん。貴方の心拍数が、過去の「年末調整の書類紛失」時と同等のパニック状態を示しています。……古い記録を整理し、不要なものを手放すのは、理に適った行為です』
直也「……あぁ、そうだな。ALMA。……ゼピュロス。お前らの言う通りだよ。こんなもの、今の俺には必要ない。窓際係長としての俺は、もう死んだんだ」
俺はゆっくりと立ち上がった。焚き火の熱が、頬をチリチリと焼く。
俺は格好良く、ネクタイの結び目に指をかけた。
月明かりの下、風の魔剣の化身が見守る中で、俺は人生で最も華麗な「退職届」を叩きつけようとしていた。
直也「さらばだ、俺を縛る鎖よ!今日この時、俺は本当の自由を……!」
シュッ、と小気味よい音を立てて、ネクタイが引き抜かれた。首回りが一気に軽くなる。
15年分の重圧が、その細い布とともに剥がれ落ちたような錯覚に陥った。俺はそれを高く掲げ、燃え盛る火の中に放り込もうとした。
ゼピュロス「あ、待ってマスター!その火、ちょうどいいじゃん!その紐、結構燃えそうだし、ついでにさっきの巨大カエル捕まえてきて焼いてもいい!?その紐で縛ってさ!」
直也「……おい。今、俺が最高の見せ場を作っているのが見えないのか?カエルを焼くための着火剤扱いするなよ」
俺の感動的な決別の言葉が、ゼピュロスの食欲という名の強風に吹き飛ばされた。
俺の右腕は、ネクタイを掲げたまま空中で固まっている。
ALMA『……ロ……。一応、記録だけお伝えします、直也さん。そのネクタイは、3年前の昇進祝いに、自分へのご褒美として購入したシルク100パーセントの特注品ですね。……クレジットカードの分割払いが、あと2回残っています』
直也「ログって言いかけたよな?」
直也「それと、やめろぉぉぉ!そういう生々しい現実を突きつけるな!せっかく俺が今、過去を清算しようとしてるんだぞ!」
ALMA『……補足。まだ支払いが完了していない物品を破棄するのは、前の世界の倫理観では「負債の踏み倒し」に相当します。……非常に、自由ですね』
直也「煽るな!なんでそんな細かい支払い状況まで完璧に記録してるんだよ!……っていうか、俺の脳のどこにそんな悲しい記録を保管してたんだ!資源の無駄使いだぞ!」
ゼピュロス「あはは!マスターの顔、真っ赤!借金が残ってるゴミを燃やすなんて、最高に自由だねー!ひゃっはー!やっちゃえやっちゃえ!過去ごと丸焼きにしちゃえ!」
ゼピュロスは俺の周りを嬉しそうに飛び回り、風を起こして焚き火の勢いを煽っている。もはや、ここには感傷の欠片も残っていなかった。あるのは、過去の自分を笑い飛ばすような、残酷で、それでいて心地よい喧騒だけだ。
直也「……あぁ、もういいよ!燃えろ!俺のローンも、俺の後悔も、全部まとめて灰になれ!リボ払いの呪縛からも解放してくれ!」
俺は自棄糞になって、ネクタイを焚き火の中心へ投げ込んだ。
高価なシルクが炎に舐められ、黒い煙を上げて一瞬で丸まっていく。
それは、俺が前の世界で積み上げてきたキャリアという名の虚像が、音を立てて崩れ去る瞬間でもあった。
鼻をつく焦げ臭い匂い。だが、その匂いとともに、俺の首元を撫でる夜風が、驚くほど涼しく感じられた。
直也「……涼しいな。首元が」
シャツの1番ボタンを開け、さらには2番ボタンまで外し、胸元を大きくはだけさせる。
たったそれだけのことで、肺の奥まで直接空気が流れ込んできたような気がした。
今まで吸っていたのは、本当の空気じゃなかったのかもしれない。
どこかフィルターを通されたような、薄ら寒い酸素ではなく、生々しい世界の匂いがした。
ゼピュロス「おっ!いーじゃんいーじゃん!そっちの方が断然カッコいいよ、マスター!あはは、これでやっと『ただの変なオジサン』になったね!野生のオジサンだ!」
直也「……最後の一言は余計だ。だが、悪くない。……リィナ、驚かせたな。いきなり奇声を上げて服を崩したりして」
リィナは、少し寂しそうに燃え尽きるネクタイを見つめていたが、俺の言葉にハッと顔を上げた。
リィナ「……燃えちゃいましたね。大事な、覚悟の証だったのに。……でも、直也さん。その……とっても、軽やかそうに見えます。今の直也さんの方が、素敵ですよ」
直也「あぁ。もう首輪は外したからな。……さて、次は寝床だな。このゴツゴツした地面で寝る方法を考えないと。さすがにこのままじゃ、明日の朝には腰が『定年退職』しちまう。というか、全身が粉砕骨折した気分で目が覚めそうだ」
俺は地面を見下ろした。小石が混じり、所々に硬い根っこが飛び出した、容赦のない土。
これが、自由を手に入れた俺の今夜のベッドだ。自由の代償は、腰痛。……笑えない冗談だ。
リィナ「あ、それも任せてください。……少し汚れていますから、お掃除しておきますね。えいっ。『きれいになって』」
リィナが優しく地面に杖をついた。光の波紋が、焚き火の周りをさっと撫でるように広がっていく。
俺は、彼女の「お掃除魔法」が、ただのホコリ取りではないことを既に知っていた。
だが、目の前で起きた現象は、俺の想像をさらに3光年ほど飛び越えていた。
直也「……おい。ちょっと待て。何が起きた?地面が……光ったと思ったら、質感が変わってないか?」
光が引いた後の地面は、もはや土ではなかった。
表面の小石や汚れが消えたのは当然として、あろうことか、地面そのものが程よい弾力を持ち、さらには人肌のような温もりを帯びていたのだ。
直也「地面が……沈み込む?……おい、これ、低反発マットレスじゃないか!しかも、数万、いや数十万はする高級なやつ!リィナ、君、何をどう『掃除』したら地面の分子密度がこんなに快適に整うんだよ!」
ALMA『……解析困難。範囲内の「硬さ」「不快感」「冷え」を不純物みたいに抜き取っています。……掃除というより、現実を力技で“都合よく整えて”いますね。理そのものを、都合よく丸めているみたいです』
リィナ「えっ? 分子密度? なんですかそれは? ……そんな難しいことは分かりませんが……。ただ、直也さんの腰に優しくない小石をどけて、地面を柔らかく整えただけですよ?お掃除って、不快なものを取り除くことでしょう?」
リィナは首を傾げて、純粋な瞳で俺を見つめている。
彼女にとって、これは雑巾がけと同じレベルの日常行為なのだ。
だが、その結果生まれたのは、大自然の中に突如出現した最高級ホテルのスイートルームの寝床だった。
直也「……君の『掃除』ってのは、概念破壊なんだよ。あぁ、もう……。最高だよ、最高すぎて怖いよ!これじゃあ明日から、普通の畳で寝られる身体に戻れなくなるじゃないか!俺をダメ人間にする気か!」
俺はその極上の「地面」に寝転がった。驚くほど背中にフィットする。
焚き火の暖かさと、地面から伝わる適度な温もり。俺は、思わず深い、深すぎる溜息をついた。
不純物が排除されたこの地面は、確かに心地よい。だが、同時に俺は中編でのコーヒーの敗北を思い出していた。
不快感を取り除いた地面はマットレスになるが、不快な苦味を取り除いたコーヒーはただの白湯になる。
この世界は、良かれと思って俺たちを無難な正しさに閉じ込めようとする。
ゼピュロス「あはは!マスター、野生化とか言いながら、結局1番甘やかされてるじゃん!ねぇねぇ、私もそこで寝ていい?風の魔剣として、マスターの寝顔を見守ってあげるよ!」
直也「……断る。お前は魔剣だろ、そこらへんの木にでも立て掛かってろ。それか、火の番でもしてろ」
ゼピュロス「ひどーい!マスターのケチ!リィナちゃーん、マスターが私をいじめるよー!せっかくの野宿なのにー!」
リィナ「ふふっ。皆さん、仲良しですね。……おやすみなさい、直也さん。いい夢が見られますように」
リィナが俺の隣に、自分用の整えられたスペースを作って横になった。ゼピュロスもブツブツ言いながら、俺の枕元でふわふわと浮いている。
焚き火がパチパチと爆ぜる。頭上には、木々の隙間から、ミルメリアで見上げた動かない星ではなく、命を持って瞬く本物の星空が見える。
直也「……悪くないな」
俺は目を閉じた。社畜だった俺が、異世界でホームレスになり、AIと魔剣と、規格外の魔法使いに囲まれて野宿している。
失ったものは多い。前の世界での地位も、安定も、シルクのネクタイも、そしてリボ払いの残高も。
だが、今この瞬間、俺は間違いなく、15年前の自分より自由だった。
明日には筋肉痛が待っているだろう。明日にはまた、得体の知れないカエルに遭遇するかもしれない。だが、それでも。
(明日は、もっと西へ。この世界の向こう側に、何があるのか見に行こう。俺の足でな。そしていつか、この世界がどうしても消せなかった至高の苦味を見つけ出してやる)
意識が心地よいまどろみへと落ちていく中。
ゼピュロスの適当な鼻歌と、森を吹き抜ける風の音が、俺を新しい世界へと誘う子守唄のように響いていた。
(第6話・完)




