第五話
ぼんやりとした意識のなかでわたしは広い花畑の中にいた。見渡す限り一面真っ白い花で埋め尽くされている。
わたしは何となくその景色をぼーっと眺めていた。
風がさあっと通り花びらが舞って、花のいい香りがする。
ーーーシェフィ
そのとき、不意に誰かがわたしの名前を呼んだような気がした。
「…え?」
振り返って見てもそこには誰もいなかった。そもそもいる訳がないのだ。いたのなら、さっき見渡した時点で気づいてるはずだから。
しかし、その時のわたしはそんなことなど、どうでもよかった。
(さっきの声…いや、気のせいかもしれない。でも…)
それは優しい聞き覚えのある女性の声だった。それが誰なのかまでは思い出せないが、なぜだかとても懐かしい感じがした。
………。
* * *
鳥のさえずりが聞こえる。窓から差し込む光がまぶしい。
「…ふぎゃああ!!」
いつものように寝返りをしようとしたわたしは、そのまま落下して床に激突してしまい、令嬢らしからぬ奇声を発した。
それと同時に、その痛みで寝ぼけてた頭は一気に覚醒した。
「いたたたた…」
幸い近くには誰もいなかったようで、あの奇声は聞かれずにすんだ。
「…わたし、何してたんだっけ」
ここがどこなのかいまいち状況がわからず、完全に目が覚めたわたしは軽く伸びをしてから周りを確認した。窓からは木しか見えないが、遠くで小川が流れているような音がする。
どうやらここは森にある小さな一軒家のようだ。白い壁にフローリングという自然素材でできたなんとなく落ち着く雰囲気の家である。
わたしは置いてあった温かい紅茶を手に取り、ふうっとため息をついた。
(…ってのんびりしてる場合じゃなかった!
えっと、確かわたしは、カトレア学園の卒業パーティーでアレン殿下に婚約破棄されたはず…だよね?で、そしたらレイくんがわたしを庇ってくれたんだ。そのお礼を言おうと思って咄嗟に追いかけて…。
そうだ、そこでなぜか意識がだんだん遠退いていったんだ。じゃあここは一体…?)
悶々と考えていると視界の隅に何やら桜色の物体が写りこんだ。
「シェフィちゃん!起きたー?」
「ぶーーっっ!!」
わたしはつい飲みかけの紅茶を口から吹き出してしまった。
突然現れた少女は、そんなわたしを見ても尚、無邪気な笑みを浮かべながらわたしの目の前に立っている。見覚えのあるとても可愛いらしいこの少女を見てわたしは頭を抱えたくなった。これは夢かな?夢だと思いたい。だってこの子は…
「え、えーっと、アリス…様?」
彼女はわたしが婚約破棄された理由となった、アリス・ローレイタ嬢だった。ふわふわとした綺麗な桜色の髪の毛に若草色のくりくりとした小動物のような目。その守ってあげたくなるような可愛いらしい容姿から、学園内では「花の妖精」と呼ばれ、噂になるほど彼女は人気があった。
「アリスでいいよ!」
しかし彼女はそれと裏腹に、素直すぎる言葉や立場をわきまえない態度など、目に余る部分も多く、一部の生徒からは不評を買っていた。
それが天然から来るものなのか、わざとなのかはわからないが。
「あ、はい。アリス…ちゃん?なんでここに?」
これは普通に疑問だった。なぜこんなところにわたしだけではなくアリスちゃんまでいるのか。
今のこの状況を知るための重要なヒントになるはずの質問だったのだが、彼女はわたしが思ってたのとはかけ離れた予想外の回答をした。
「えっとね、シェフィちゃんの悲鳴が聞こえてきたから?だからね、急いで来たんだ~!」
(わーお。さっきの奇声バッチリ聞かれてた。
………
ああああーー!!!めっちゃ恥ずかしい!穴があったら今すぐ入りたいっ!)
「何かあったの?」なんて聞かれても、ベッドから落ちただけですーとは恥ずかしくて答えられなかったので、奇行に走ったわたしは前回も使った「なんか叫びたい気分だったんですー」という更に恥ずかしい言葉を代用してしまい冷や汗が止まらなかった。
しかし、彼女はそんなことを気にした様子もなく「あーそんな気分もあるよね~!」で済まされてしまった。あれ?この子…天然か?
「あっそうだ。それとね、シェフィちゃんが起きたらアリス、言おうかな~って思ってたことがあったんだよね…」
アリスちゃんはそう言ったきり、言葉を詰まらせていた。
アリスちゃん、一人称は自分の名前なんだ。ちょっと痛い気もするけど、それは彼女の幼い見た目と可愛さが許している。
そんなことを思いながら「何?」と返答すると、アリスちゃんは申し訳なさそうな表情になり、急にわたしに頭を下げてきた。
「あ…あのねシェフィちゃん。迷惑かけちゃって…ごめんなさいっ!」
突然のことで一瞬なんのことかと思ったが、すぐに思い出すことができた。
(迷惑ってあの卒業パーティーでのことか。わたしが嫌がらせをしたとかなんやら。
確かアレン殿下はアリスちゃんから聞いたと言っていたけど…)
ちらっとアリスちゃんの方を見ると、アリスちゃんはびくっと震え、もう一度「ごめんなさい!」と今にも泣き出しそうな顔で謝られた。
…ここに殿下がいたら、色々勘違いされそうだな。でも、本人は本当に反省してるように見えるし…。
そんなことを思っていると、だんだん話が見えてきたような気がした。
(ああ、きっとこんな感じで殿下に色々勘違いされてたんだな。アリスちゃんは、本当のことを言うタイミングを逃したとか言えない雰囲気になってただけなんじゃない?あの場だったし、何よりあの人、一応王太子だからね。
…殿下とダンスをしてたのも、もしかしてルールを知らなかっただけなんじゃないの?)
シェフィはあり得そうなことを色々推測して知らず知らずの内にアリスをかばってた。
たとえこの予測が違ったとしても、わたしはこんな素直に謝ってきた彼女を今さら咎める気にはなれなかったのだ。
アリスちゃんは良い意味でも悪い意味でもきっと素直なんだろうな。
わたしはさっきのやり取りでなんとなくそう感じていた。
「別にいいよ。大丈夫、気にしてないから」
「…いいの?本当に?アリスのせいで婚約破棄になっちゃったのに?」
「わたしはね、アリスちゃん自身は悪くないと思うし」
その瞬間、アリスちゃんの曇ってた顔がパアァっと明るくなり、わたしにぎゅーっと抱きついてきた。
「ぐぇっ」
「…ありがとう。ありがとう!!シェフィちゃん!大好き」
思ったより力が強くて多少苦しかったが、心から嬉しそうな彼女の笑顔を見ると、これくらいのこと大目に見てもいいかなと思えた。