あの頃の
あまつ神 世づく縁の天の門は うつろふ命うつしざま さだめてながむ花心 さだめてしのぶ姫心 たとふはゆかし天少女 下天を下照るあはれげに 下延ふ者は愚かなれ 百鬼をしのぐ荒しきを 知らぬが花か ひめ待つことか
私が小学生のとき、実しやかな噂が、よく流行したことを覚えている。
“公園の近くにある田んぼの貯水池には、ザリガメがいる”
今にして思えば、子どもに特有の与太話。
もとい、屈託のない童心が反映した、文字どおり噂話の類である。
ある種の都市伝説と言ってもいい。
けれども、当時の私たちにとっては、ひどく冒険心を擽るものだったと記憶している。
“水中で、でかいハサミがゆらゆらしているのを見た”
“隣のクラスの人が、公園で遊んでいる時に襲われたらしい”
“好物は煮干し。 もし襲われたら、それを投げつけて逃げろ”
いつしか、当面の尾ひれに糅てて加えて尾ひれを得た噂話は、日ごとに大きく膨れていった。
噂話の怖いところは、それが知らぬ間にひとり歩きをするという点だろうか。
人口を膾炙するうちに、なにが真実なのか分からなくなる。
重要な核心が、どんどん人目を忍んでゆくという点だろう。
“口裂け女みたいなもんかぁ? おっちゃんが子どもの時分はなぁ───”
“ランドセルが煮干しくさい!”
“ザリガメなんていません”
もちろん、大人たちからすると、笑い話もいい所ではある。
中には目くじらを立てる親御さんだっていたかも知れないが、所詮は子どもたちの戯れ言である訳だから、真剣に取り合うことをしない。
しかし、先述の通りだ。
“噂話は、ひとり歩きをする”
舵の壊れたそれは、無差別に人口を席巻した。
“人が襲われるのを見た!”
“警察! はやく警察を!!”
“当分の間、公園は立ち入り禁止”
こうなると、もはや嘘から出たまこと。
根拠のない噂話という核心には、誰も焦点を当てようとしない。
最初は笑っていた大人たちでさえも、日に日に顔色を悪くしていったように思う。
そんな、ある日のことだ。
私たちが、数名のクラスメートから成る“調査隊”を、意気揚々と結成したのは。
まったく以て、子どもの悪ノリである。
けれども、たしかな義勇心めいたものを、幼気にもきちんと持ち合わせていたように思う。
あの日のことは、よく覚えている。
ちょうど、夏の盛りだった。
青々しい草の匂い。 淀んだ水面の色。 そして、大きなハサミ。
我々は元々、割合に情の薄い生き物なので、そっくり忘れ去ろうと思えば叶うのだろうが、断じてそうしない。
“あはは!? おっきなハサミ! こりゃ善いや!!”
忘れようとしても容易に為せるものではなく。 そもそも、当の記憶をぬぐい去る意味そのものが、ひどく希薄なのである。
“天ぷらにしよっかな? それとも、バター焼きですかオラァ!!!”
それは、私たちが出逢った日。
いつまでも褪せることのない、大切な思い出の場面なのだから。