扉を開けて
「ふぅ」
今、隠れるように籠もってるトイレのドアの向こう…洗面台の辺りから男の人のため息が聞こえた。履き替えられたトイレのサンダルがタイル張りの床の上で、一歩、二歩、軽やかに響く。
コンコン。
叩かれるノックの音。…分かってます、入ってますってば。
コンコン、と返そうとしてやめた。
だって。…もう出なきゃ。
別に用を足したくて個室に居るんじゃないんだもの。独りで篭もりたくて、乙姫にかき消されたくて、ここに居るだけなんだもん…本来の目的外で此処にいたら、迷惑よね。
意を決して これを最後と定め、乙姫を押した。マスカラ払ってここから出なきゃ。ずっとここには居られない。
そろりと開けた扉の向こうには、「おっと」慌ててドアを避ける男の人…
「熊沢さん…」
今回のもう一人の主役の筈の熊沢さんだった。
「ぼく、催促しちゃいました?」
悪気が無いのが伝わってくるおっとりとした口調。…年上だけど そう思わせない後輩の男の人、それが熊沢さんだと思い直す。
きっと、本当は 薄々「先輩だって聞かされても、やっぱ年下だなあ」とか思ってるんだろうな…
困るよね、こんな同僚。
「あ、あの」
トイレ、占領したのは謝らなきゃ
「ごめんなさい。」
「ぼくは大丈夫ですけど。」
熊沢さんがもう少しだけ下がった。
「女の人泣いてると、どうして良いか、ぼく、困っちゃうんです。」
口を少しだけ尖らせて、むぅと呻いて。ぽりぽり、頭を掻く仕草をしている熊沢さん。
見た感じは、本当に困ってるように見えないけど、でも 男のブリッコにも見えないんだよね…熊沢さんがやると。
そういえば、テーブルでも、今みたいな顔して「ちゅー」ジュース吸ってたっけ。
目が真ん丸で大きくて 黒目もハッキリしてて。 鼻も 筋は通っているのに、ぷっくりした小山が三つならんでいるみたい。
ちっちゃい口で、ジュースのストロー吸ってる姿とか見てると 緩い天然パーマの髪の毛を フワりフワリ撫でてあげたくなる。
恥ずかしくて、そんなことしないけど… そんなこともしたくなっちゃう。まるで、仔熊みたいな、かわいい男の人。
「ごめんなさい、困らせてますよね。わたし」
泣かないって決めてるのに、涙腺が緩む。どうして?たかが失恋。それもただの片思い。なのに、複雑に自分のコンプレックスが絡み合って涙が流れる。
泣きやまなきゃって思ってるのに、思ってても 顔が感情が自分の心が言うことをきかない。
「泣かないで」
熊沢さんがさらりと、微笑むような爽やかで言った。
「僕は、『幸せのクマ』なんです。皆が幸せになるのが、仕事なんです。僕が幸せにします。」
顔を上げて、涙を拭いてよくみると、熊沢さんの顔は、よくあるマスコットみたいなキャラクターが喋ってるように見えた。
はは。
渇いた笑いが心で沸いた。
…幸せのクマ、ね。クマなんだ。熊沢さん、クマっぽいけど、自分で言っちゃうなんて。
わかってるあたりに、冷笑というか、でも今はそれに縋りたいような。
この人は不思議な人。
泣いてるのに、「ぼく、困っちゃうんですよね」って堂々と言い放って。
でも、冷たく見捨てないし、暑苦しく近寄らないし。
かと思えば、ひょうひょうと「僕は、『幸せのクマ』なんです」って。
変な人。いや、変わってるっていうのかな。
でも、ね
変だけじゃない人なのはわかる。
仕事中だって、気難しい御年頃に入った先輩に「クマ~!」ってアゴで呼ばれても「はぁ~い~♪」って返事して 先輩の隣にちょこんと座る姿を何度も見てきた。
みんなが ムッとするところを、静かに受け流せる『心の処理が上手』な人。
熊沢さん…に…甘えてみようかな。
だれにでも、当たりが柔らかくて…立場も年齢差も構わず、誰にでも態度が同じ。すごい大人な、この人に。
しゃくりあげて、マトモに言えてないけど、わたしは 言ってみた。
「じゃあ、幸せにしてくださいよお」
伝わってるか分からないけど、心思うまま言ってしまった。
「よくわかんない。もうなんかイヤなんです。なんとかして下さい」
こんな曖昧なセリフしか出てこないくらい、頭の中は ノロノロな感情しかなかったけど、詰まるところは この言葉しかない。
「なんとかなりたいんです、あたしもう。」