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植物博士モチオののんびり遺跡フィールドワーク ~歌姫カリーナと二人の木の精霊に囲まれて、伝説の果実を育てることになりました~  作者: ゆうぎり
第6話:離れの湯屋と、ハーブの香りの贈り物

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霧のない夜の冷え込み

 萌芽ほうがの月の夜。


 本来なら、この時期のアイレックスの森は、昼間に蓄えた太陽の温もりを、乳白色の霧が「布団」のように閉じ込めてくれるはずでした。


 湿り気を帯びた空気は、まるでおからを詰め込んだ厚い毛布のように観察小屋を包み込みます。

 木々や土から熱が逃げるのを、やさしく防いでくれる。


 それが、この森に住む者たちが知っている、いつもの夜の「優しさ」でした。


 しかし――


 今夜は違いました。


 窓の外に広がっているのは、どこまでも透き通った紺青の深淵。


 遮るもののない星空から、一ドロップの情け容赦もない冷気が、一節いっせつごとに大地へ降り注いでいました。


 霧というフィルターが消えたことで、星々はこれまでにないほど鋭い光を放っています。


 その輝きは美しくもあり――

 同時に、世界の温度を奪う冷徹な刃のようでもありました。


 カチ、カチ。


 モチオくんは机の上の真鍮製の精密温度計を、指先で軽く叩きました。


「……マイナス・三・二」


 静かな声でつぶやきます。


「昨夜の同じ時刻より、四度も低い」


 モチオくんは眼鏡をくいっと直しました。


「一グレインの狂いもない計算の範疇を超えている。これは単なる季節の変わり目じゃない……」


 日誌にさらさらと数値を書き込みます。


「霧という防壁を失ったことで、この森の熱は空へ直通してしまっているんだ」


 モチオくんは窓の外を見上げました。


「熱を保持する媒体がない。空気が透明すぎるということは……熱を留める『何か』も、同時に失われたということなんだね」


 冷えた指先に、ふっと息を吹きかけます。


 そのとき。


 パタパタパタ――


 廊下を駆ける足音が響きました。


「モチオ! 大変、大変よ!」


 勢いよく扉が開き、カリーナちゃんが飛び込んできました。


 少し青ざめた顔をしています。


 吐く息は、室内なのにもう白くなっていました。


「離れの湯屋の温度が、一向に上がらないの!」


 モチオくんが顔を上げます。


「薪は?」


「いつもと同じ量を入れたわ!」


 カリーナちゃんは首を振りました。


「いえ、寒かったから一ロード分は多めに入れたはずなのに……」


 困ったように続けます。


「石の浴槽が、どんどん熱を吸い取っちゃうの。お湯が、温かい“水”のままなのよ!」


 観察小屋から十ストライドほど離れた場所にある、小さな木造の湯屋。


 そこは、四人にとって大切な場所でした。


 森の湧き水を温め、

 アイベリーちゃんが選んだ香草を浮かべて、

 一日の疲れを癒やす――小さな聖域です。


「湿り気が減ったことで、熱の伝わり方が変わってしまったのかもしれないわ」


 静かな声が聞こえました。


 いつの間にか、アイベリーちゃんがモチオくんの隣に立っていました。


 翠色の瞳に、星空が映っています。


「前は、湯屋の中に豊かな湯気があったでしょう?」


 小さく首を傾げます。


「その湯気が、熱を逃がさず壁や天井に反射させていたの」


 窓の外の空を見ました。


「でも今は、空気が極限まで乾燥している」


 指先をそっと握ります。


「温もりが一節の間に……窓の隙間や壁の節穴から、夜空へ逃げてしまうのよ」


 少し寂しそうに続けました。


「……ハーブの香りも、湯気という乗り物を失って、上空へ消えていくばかりで」


 そのとき。


「寒いのやだーー!」


 カリンベリーちゃんが叫びました。


 ぶるぶる震えながら、モチオくんのカーディガンの首元に潜り込みます。


「このままだと、あたしの羽カチカチに凍っちゃうもん!」


 小さな体温が、モチオくんの首元にじんわり伝わりました。


 モチオくんは窓辺を見ます。


 そこには、静かに瞬く星瞬草。


 この透明な空気を生み出したのは、この子でした。


 霧を晴らした代わりに、森は急激に冷えている。


 それはきっと、この「純化された世界」がもたらした副作用でもありました。


 モチオくんは少し考え込みました。


 そして――


 ふっと思いついたように日誌を閉じます。


 星瞬草の鉢を、そっと両手で包みました。


「星瞬草の光を、湯屋にも少し分けられないかな」


 カリーナちゃんが目を丸くします。


「湯屋に、この子を?」


 モチオくんはうなずきました。


「この子の瞬きは、周囲の魔力密度を安定させる」


 少し照れたように笑います。


「それが水の分子の振動を助けて、熱の保持力を高めるかもしれない」


 そして肩をすくめました。


「……いや、難しい理屈はいい」


 モチオくんは星瞬草を見つめます。


「ただ、ぼくの直感が言っているんだ」


 優しい声でした。


「この子の瞬きと一緒に湯船に浸かれば、一ドロップの不安も消えて、心から温まれる気がするんだ」


 その瞬間。


 星瞬草が――


「チカッ、チカッ」


 嬉しそうに黄金色の光を弾きました。


 霧が消えたことで訪れた、厳しい夜。


 けれどそれは、暮らしを壊すものではありません。


 むしろ――


 新しい光と一緒に、

 新しい生活を作り直すための時間でした。


 モチオくんは立ち上がります。


「よし、行こう」


 カリーナちゃんを見る。


「薪をもう数ロード分準備して」


 次にアイベリーちゃんへ。


「ハーブの配合を少し変えてくれるかな。乾燥に負けない、もっと力強い香りを」


 そして笑いました。


「今夜は、この“見えすぎる夜”に負けないくらいの、特別なお風呂にしよう」


 モチオくんは星瞬草を抱き上げました。


 外の空気は、凍るほど冷たい。


 けれど腕の中の光は、確かに彼の胸を温かく照らしていました。

調査ログ:補足事項


【物理の理】


一ドロップ:湯屋の窓ガラスに結露することなく、乾燥した空気に吸い込まれて夜空へ消えていく、微かな水蒸気の欠片。


一グレイン:急激な温度低下によって、モチオくんの指先に感じる、目に見えない針で突いたような冷たさの重み。


一ロード:凍えるような夜、湯屋の釜を維持するためにカリーナちゃんが何度も運び込んだ、ずっしりとした薪の重み。


【刻の理】


一節いっせつ:薪が爆ぜる音が響き、その微かな熱が冷え切った紺青の空気に飲み込まれていくまでの、短いけれど確かな時間の単位。

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