歩み寄りの午後
窓から差し込む陽光が、影弦の刻へと向かってゆっくり角度を変え始めた頃。
モチオくんは、愛用の真鍮の定規も、目盛りの細かく刻まれた虫眼鏡も、すべて机の引き出しへ静かに仕舞い込みました。
小さな「カチリ」という音が、小屋の空気に溶けます。
それからモチオくんは振り返り、二人の精霊に声をかけました。
「カリンベリー、アイベリー。さっきはごめんね」
新芽の鉢を見つめながら、少しだけ困ったように笑います。
「ぼく、この子のことを……『数字』でしか見ていなかったみたいだ」
そしてゆっくり続けました。
「……ちょっとだけ、お世話を手伝わせてもらってもいいかな?」
一グレインの虚飾もない、柔らかな声でした。
槍を構えていたカリンベリーが、ぽかんと目を丸くします。
「……えっ?」
アイベリーちゃんも、柏の葉の兜の下で翠色の瞳をぱちぱちと瞬かせました。
「モチオ……難しいお顔、してないね」
「うん」
モチオくんは小さくうなずきます。
「調査官のモチオじゃなくて、ただのモチオとして、この子に触れてみたいんだ」
少し首をかしげて、優しく言いました。
「……教えてくれるかい?
この子が一番よろこぶことを」
その言葉を聞いた瞬間。
カリンベリーの顔が、ぱっと明るくなりました。
「わーい! そうこなくっちゃ!」
槍をぽーんと放り出し、モチオくんの膝へ「ぽよん」と飛び乗ります。
アイベリーちゃんも微笑みながら、部屋いっぱいに張られていた「ぺたぺたツタ」の結界を「さらさら」とほどいていきました。
緑の蔓が静かに床へ落ち、小屋の空気がふっと軽くなります。
「モチオ、こっちです」
アイベリーちゃんが新芽のそばへ招きました。
カリンベリーは胸を張りながら説明を始めます。
「いい? モチオ。この子ね、霧吹きで『しゅっ、しゅっ』ってされるの大好きなの!」
小さな手で霧吹きの真似をします。
「でもね、ただ水をかけるんじゃだめなんだよ?」
モチオくんが首を傾げました。
「気持ち?」
「そう! 『大好きだよー!』って気持ちでやるの!」
なんともカリンベリーらしい説明でした。
モチオくんは思わずくすっと笑い、霧吹きを手に取りました。
素手で。
研究者としてではなく、ただのモチオとして。
「……よし」
一ドロップ。
また一ドロップ。
霧吹きから飛び出した小さな水の粒が、窓の光を受けて虹色の小さなプリズムを作ります。
それらが静かに、新芽の葉へ降り注ぎました。
普段のモチオくんなら、きっと考えていたでしょう。
葉の表面一パルスあたりの水分量。
土壌の吸水率。
蒸散速度。
けれど今は違いました。
「気持ちいいかな」
ただそれだけを思いながら、水を吹きかけていました。
アイベリーちゃんが静かにうなずきます。
「次は、土を整えましょう」
やわらかな声でした。
「この子は月光を食べます。でも根っこは、温かな土に抱かれていたいんです」
モチオくんはしゃがみ込み、腐葉土に手を入れました。
ひんやりした感触。
しっとりした重み。
爪の間に土が入り込みます。
けれどモチオくんは気にしません。
それは、どんな精密な分析機器でも測れない生命の「手応え」だったからです。
そして――
そのときでした。
不思議なことが起こりました。
月光を編み込み、どこか鋭い「トゲトゲ」とした輝きを放っていた新芽の光が、
モチオくんの手が触れるたび、少しずつ変わっていったのです。
きらり。
きらり。
鋭い光が、ゆっくり溶けていきます。
そして――
「ぽわん」
やわらかな黄金色へと変わりました。
モチオくんは小さく息をのみます。
「……あ」
新芽の葉が、そっと動きました。
モチオくんの指先に寄り添うように。
「……笑ってる」
小さな声でした。
葉が「すりっ」と指先に触れたのです。
それは、一節前まで「分析対象」だったときには見せなかった仕草でした。
「ほんとだー!」
カリンベリーが嬉しそうに跳ねます。
「モチオの指に甘えてるーっ!」
そのままモチオくんの頭の上で「くるくる」と踊りました。
アイベリーちゃんも、満足そうに微笑んでいます。
部屋の隅では。
カリーナちゃんが竪琴を膝に乗せていました。
ポロン。
優しい音が小屋に広がります。
「ふふ」
カリーナちゃんが笑いました。
「やっと、いつものモチオに戻ったわね」
もう一度、弦が鳴ります。
「やっぱりこの小屋には――」
ポロン。
「理屈より『大好き』が似合ってるわ」
夕暮れの風が、小屋の中を静かに通り抜けました。
黄金色に変わった光が、やわらかく部屋を照らします。
一グレインのトゲもない穏やかな輝き。
それはモチオくんの胸の奥まで、静かに温めていきました。
こうして小屋の中は、
萌芽の月でいちばん幸せな
小さな「家族」の時間に満たされていくのでした。
調査ログ:補足事項
【物理の理】
一ドロップ:霧吹きから飛び出した、一粒の宝石のような水の玉。モチオくんが「計算」を手放して贈った恵み。
一グレイン:指先で触れたとき「あ、何かある」と感じる程度の、ほんのわずかな重さや心のトゲ。
【刻の理】
一パルス:葉の表面を覆う微細な生命の振動範囲。かつてモチオくんが計算基準にしていた極小領域。
一節:新芽の葉が「ぴくっ」と動き、モチオくんの心に温かな光が灯るまでの短い奇跡の時間。




