第九話 知らないことばかり
小さな町にたどり着いたのは、日が高く昇った頃だった。
石畳の通りには、荷馬車の音、値切り交渉の声、鍋を叩く音が入り混じっていた。アレクシスは、それらすべてを、どこか呆然と眺めていた。
護衛もいない。従者もいない。誰も道を空けない。ただの通行人として、雑踏に紛れている。
これが、自分が治めるはずだった国の、日常の音だったのか。
「――ぼんやりしないで。はぐれるわよ」
リリアーナの声に、我に返る。彼女は、慣れない様子ながらも、迷わず宿らしき建物へと足を向けていた。
宿の主人に部屋を求めると、まず聞かれたのは名前でも身分でもなく、金額だった。リリアーナが懐から取り出した銀貨を数える様子を、アレクシスは横で見ていた。
「これで、二晩分。食事は別料金だそうよ」
「……足りるのか」
「ぎりぎりね」
あっさりと言うリリアーナに対し、アレクシスは自分の中で何かが軋む音を聞いた気がした。金を払う。その当たり前の行為に、これほど重みがあることを、これまで意識したことがなかった。王宮では、欲しいものはすべて誰かが用意していた。値札を見たことすら、数えるほどしかない。
翌日、二人は仕事を探すために町を歩いた。
だが、すぐに壁にぶつかった。
「身元の分かる証がないと、雇えないよ」
どこへ行っても、同じような言葉が返ってきた。宿屋の下働きも、荷運びの仕事も、まず問われるのは「どこの誰か」だった。王子であれば、名乗るだけで済んだはずのことが、ここでは何一つ通用しない。
断られるたび、リリアーナは以前の自分なら、きっと「やっぱり私には価値がないんだ」と思っていただろうと考えた。証がないから断られる。それだけの、ただの事実のはずなのに、昔の自分はそれすら自分自身への評価だと思い込んでいた。
だが今は、違う考えが先に浮かんだ。
――でも、アレクは何も言わなかったわね。
断られるたびに肩を落とす自分の隣で、アレクシスは失望も苛立ちも見せず、ただ次の店を探して歩いていた。その静かな横顔を見ているうちに、リリアーナの中で、断られたことへの落胆よりも、隣にいる相手のことの方が、いつの間にか大きくなっていた。
自分の価値を、誰かに認めてもらうためではなく。
ただ、隣にいたいから、今日も歩いている。そのことに、リリアーナ自身がまだ、はっきりとは気づいていなかった。
アレクシスは、初めて味わう種類の無力感に苛まれていた。肩書きを失った自分は、こんなにも頼りない存在だったのか。
だが同時に、どこか奇妙な新鮮さもあった。誰も自分を「王子」として扱わない。ただの、身元不明の若い男として見られている。それが、恐ろしくもあり、少しだけ、心地よくもあった。
夕暮れ近く、途方に暮れて通りの隅に座り込んでいた二人に、声をかけてきたのは、宿の女将だった。
「あんたたち、まだ何も食べてないんじゃないの」
答えを待たず、女将は硬いパンと、湯気の立つスープを二人分、無言で差し出した。
「お代はいいよ。今日はもう店じまいだったんだ。余りものだからね」
リリアーナは、戸惑ったように女将を見た。
「……どうして、私たちを助けてくれるんですか。何も、お返しできることがないのに」
女将は、心底不思議そうな顔をした。
「そんなの、考えたこともないね。腹を空かせてる子がいたら、飯を出す。それだけのことだよ」
あっさりとそう言って、女将は店の中へ戻っていった。
リリアーナは、しばらくその後ろ姿を見つめていた。何かを返せるから助けられる。それが当然だと思っていた世界とは、違う理屈が、ここにはあるらしかった。
その夜、狭い部屋の片隅で、二人は硬いパンを分け合った。
王宮の食卓とは、比べるべくもない粗末な食事だった。それなのに、アレクシスは、それを不思議なほど美味しいと感じていた。
「明日から、ちゃんと仕事を探さないと」
リリアーナが、パンを飲み込みながら言った。
「証がなくても雇ってくれるところ、探せばあるはずよ」
「……ああ」
短く頷きながら、アレクシスは自分の手を見つめた。剣は握れる。政治の理屈も分かる。だが、この町で生きていくために必要な力を、自分がどれだけ持っているのか、まるで見当がつかなかった。
不安と、それでもどこか胸の奥にある小さな高揚とが、静かに入り混じっていた。
王子として何一つ役に立たない自分に、いったい何ができるのか。
その答えを、これから探していくことになる。




