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白鳥は、東京科学大学の電気工学科に籍を置く三十八歳の准教授。
学術論文を書いている最中でも、頭の片隅では「近所に新しくできたあのソースカツの店はどうだろう」と考えており、学科の会議で発言しながらも「この会議室の蛍光灯の配置は効率が悪い、自分が組み直せば電力コストが三割は落とせる」と静かに分析していた。
外見だけ見れば、白鳥は洗練された都会人に見えた。細身のスラックス、きちんとアイロンのかかった白いシャツ、そして品のある細い眼鏡。廊下を歩けば女子学生が振り返ることもあるし、学科の教授会では落ち着いた発言をする。
だが、外側の話だ。
内側は、まったく別の生き物だった。
よし。今日も最高の一日にしてやる。
午後の講義がすべて終わると、白鳥の体内では何かのスイッチが入る。電気工学の研究棟の廊下を歩きながら、すでに今夜の予定を組み立て始めていた。先週見つけた中古レコード店の続きを掘るか、それとも帰宅してから例の電子工作の基板をいじるか。週末には前から気になっていた渓流の釣り場へ下見に行きたい気もするし、ずっと積んでいる建築史の本もそろそろ手をつけたい。来月には同僚に誘われたスキューバのライセンス講習もある。
困ったことに、やりたいことが多すぎた。
こんなにやりたいことが溢れているのに、時間が足りない。
これが白鳥の、最大の悩みだった。
◇
研究室のドアを開けると、黒実が待っていた。
黒実は白鳥の研究室に所属する三年生で、背が高く、服装は地味で、真面目ではあるが、どこか煮え切らない印象のある学生だった。目が合うと、ぺこりと頭を下げる。
「お帰りなさい。あの、少しよろしいでしょうか」
「かまわんよ」
白鳥は上着を椅子の背に放り、デスクに腰を下ろした。窓から夕暮れが見えた。電気工学の研究棟が集まるこのゾーンは、昼間はそれなりにざわついているが、夕方になると静かになる。廊下を行き交う学生の足音も少なくなり、研究室の隅に置いたコーヒーメーカーが、ひとりでに小さく音を立てていた。
「先生、相談があるんです」
「うむ」
「その……」黒実が少し間を置いた。「やりたいことが分からないんです」
白鳥の眉が、わずかに動いた。
ほう。来たか。
「どういう意味だ」
「就職活動のことをそろそろ考えなきゃいけないんですけど、志望業界が絞れなくて。自己PR書こうとしても、自分が何をしたいのかが分からないから書けなくて。周りの友人はみんな、やりたいことがあるみたいで……俺だけ、なんか」
黒実は言葉を濁したが、意味は十分に伝わった。
白鳥は天井を一度見上げてから、ゆっくりと黒実のほうを向いた。
「分かっていないな」
「え」
「やりたいことがないのではなく、やりたいことを頭の中だけで探そうとしているんだ」白鳥はデスクに肘をついた。「順番が逆だ。やれ。何かをやれ。そうすれば、あとからついてくる」
黒実がきょとんとした顔をした。
「では一緒に探してやろう。まず基本的なことを聞くが、金は好きか」
「はあ……まあ、誰でも好きじゃないですか」
「では、もっと稼ぎたいという欲望は強いか」
「それほどは……貧乏じゃなければ、というくらいですかね」
白鳥は少し残念そうな顔をした。金への欲望は行動の最大の燃料なのに。惜しい。
「では、女性は」
黒実の顔が固まった。
「……先生、教育者がそういうことを聞いていいんですか」
「教授ではないから、セーフだ。准教授はその点において、自由度が高い」
「そういう問題じゃないと思いますけど」
「では、スポーツは得意か」
「得意ではないですね」
「音楽は」
「聴くのは好きですが、演奏はしたことがなくて」
「旅は」
「あんまり……」
「食べることは」
「まあ、好きですけど、こだわりはないですね」
「コレクションは」
「特には」
「DIYは」
「やったことないです」
白鳥はため息をついた。
これほど選択肢を持て余している人間がいるとは。私などやりたいことが脳内に三十七個もリストアップされているというのに。
「うーむ。埒があかんな」白鳥は立ち上がり、コーヒーメーカーのほうへ歩いていった。ポットに液体は残っていたが、いつ淹れたものかもう覚えていない。
「喉が渇いた。コーヒーを買ってきてくれんか。廊下の自販機でいい」
「あ」黒実がぽつりと言った。「そういえば」
「なんだ」
「コーヒーは好きですね」
白鳥が振り返った。
「コーヒー」
「ええ。毎朝飲んでます。ないと調子が出なくて。自販機でも買うし、コンビニでも買うし」
白鳥の目が、一段階明るくなった。
そうか。コーヒーか。
コーヒー。
白鳥の脳内で、何かが動き始めた。コーヒーというキーワードが転がり、跳ね、やがて一つの問いにたどり着いた。
私は、コーヒーをどれだけ知っているか。
毎朝飲んでいる。だが、コーヒーがどこから来るのか、どうやって作られるのか、本当においしいコーヒーとはどういうものなのか。
知らない。何も知らない。
これは、よくない状態だ。
「黒実」白鳥は言った。「どうせやるなら、うまいコーヒーをゼロから作ろう」
「……ゼロ、とは」
「ゼロだ。コーヒーの実が木になっているのを、テレビで見た気がする。あの辺りから始めよう」
黒実がぽかんとした顔をした。
「木から、ですか」
「木から」白鳥はうなずいた。「決定だ。きみのやりたいことを探す旅は、コーヒーから始まる」
こうして、一つの狂気が静かに産声を上げた。
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