ジャノメ
新作投稿です!
国から貢物として捧げられた少女。
彼女に訪れる数奇な運命を見守ってください
雲ひとつない夜空を四匹の飛竜が飛ぶ。
緑色の硬い鱗に蝙蝠のような翼を生やした兜を被った蛇のような印象の飛竜の曲には太い鎖がぶら下がり、その先には質素な造りの輿が壊れ物を扱うように慎重に運ばれている。
輿の側面についた物見窓が小さく開かれ、人影が映る。
人影は、じっと物見窓から外を見て胸中で呟く。
月って明るいんだ・・・。
カタカタと揺れる檻のように狭い輿の中、側部に申し訳程度に設置された物見窓から間近に見える歪みのない真円を描いた月を見てアケは思った。
熱を帯びない月明かりが暗く冷たい輿の中を照らす。
アケは、白無垢を纏っていた。
汚れのない光沢を帯びた純白の白無垢。上等な生地で作られていることが素人にも一目で分かる。裏地は艶やかな赤で、金糸でしっかりと縫われ、桃色の腰紐には鮮やかな朱色の布に包まれた小刀が差してある。
その姿を見た誰もが誰もが彼女は由緒正しい家柄の令嬢
で同じように位の高い殿方の下へ嫁ぎにいくと思うだろう。
違った。
彼女は嫁ぎにいくのではない。
彼女は捧げられるのだ。
これから向かう場所に住む辺境の王。
金色の黒狼に。
揺れが止まる。
輿の裏が地面に付いたことが冷たくなった足に伝わる。
アケの心臓が激しく高鳴っていく。
覚悟を決めたはずなのに身体が緊張と恐怖に強張り、小刻みに震える。
右手側の側部から幾つもの錠前を外す音と共に鎖や関を引く音が聞こえる。
どうやら相当警戒されていたらしい。
(お空の上で襲われたら堪らないものね)
そう思ってアケは自虐的に笑う。
ようやく全ての施錠が外れたのか、側面が蓋を外すように開かれ、鱗のような青いの甲冑を纏った浅黒い肌に端正な顔立ちの男が蔑むように見下ろしてくる。
「出なさい」
男は、冷たい口調で言う。
アケは、言われた通り輿から出ようとするが着慣れない白無垢のせいで上手く動くことが出来ない。
その様子に男は苛立ち、声を荒げる。
「さっさと出なさい。ジャノメ姫」
ジャノメ姫。
その名を呼ばれると胸が締め付けられる。
涙が流れそうになる。
しかし、アケはそんな感情を飲み下し、小さく頷く。
「分かりました」
アケは、何とか身を捩って転げるように輿から出て立ち上がる。
青い甲冑の男はようやく出てきたかと馬鹿にするようにアケを見る。
輿の周りには羽を休める飛竜と、輿を囲むように緑色の甲冑を纏った男達が立っていた。
彼らは武士。
白蛇の国が誇る最強の戦力であり守護者だ。
彼らは、青い甲冑を着た武士と同様に蔑むようにアケを見下す。
白無垢に身を包んだ女性に見せる表情では断じてない。
しかし、アケにとってこの表情も向けられる感情も日常茶飯事のものだった。
その原因はアケと言う存在そのものあった。
見目麗しいアケの顔立ち。
その美しさは異性同性問わず誰もが振り向き、見惚れるものだ。
しかし、アケを見る目は蔑み、恐れ慄くものばかり。
その原因は二つ。
両目の部分を覆った鱗柄の白い布。その真上の額で爛々と輝く縦長の朱の瞳を持った異形の大きな目。
それはまさに蛇の目であった。
アケは、周りを確認しようと蛇の目を動かす。
それだけで緑の甲冑を着た若い武士が悲鳴を上げる。
その声に胸に針が刺さったような痛みを感じながらもアケは周囲の観察を続けた。
そこは小さな平原であった。
月の明かりに照らされた小さな平原。
その奥に広がるは静寂に揺れる広大な闇の衣を被った森と、背後にあるは果てしない黒い雲海の広がる断崖絶壁。
その情報だけでここがアケの住んでいた地ではなく、遥か遠くにあると本に記された異形の住む地……"猫の額"であると察した。
「来たんだ・・・」
アケは、ぼそりと呟き、足を前に出す。
その動きだけで武士達が一斉に腰の刀に手を置き、身構える。
アケは、武士達の様子を蛇の目で見て……足を下げた。
武士達はほっと胸を撫で下ろすように刀から手を離す。
「ここは猫の額です」
青色の武士が恭しく告げる。
しかし、その声にはアケを労る感情は一切ない。侮蔑の眼差しで淡々と必用事項を伝えるだけだ。
「今日は捧げ物の日。もうすぐ金色の黒狼がやってきます。貴方はここで奴を待って下さい。そしたら……分かってますね?」
青い武士は、じっとアケを見る。
アケもじっと蛇の目で武士を見て……小さく頷く。
武士は、アケの仕草を見て興味を無くしたように目を反らし、緑の武士に歩み寄っていく。
「あの・・・」
アケは、青い甲冑の武士の背中に声を掛ける。
それだけで一斉に緑の武士は警戒し、腰の刀に手をやる。
「何でございましょうか?」
青い武士は振り返り、冷淡にアケを見る。
「何か履き物はありませんか?」
アケは、自分の足元を見る。
履き物を履いて腰に乗ることはできないので素足のままだ。草の感触は気持ちいいが流石に冷たい。
それに……。
「黒狼様にお会いするのに素足は失礼かと……」
アケが真顔で言うと、武士達がぷっと吹き出して笑う。
青い甲冑の武士も堪えきれなくなったように笑う。
アケは、何がおかしいのか分からず首を傾げる。
「アレに会うのに礼儀など必要ないでしょ?」
青い武士は馬鹿にするようにアケを見る。
「アレにそんなもの……分かるはずもない」
「しかし……」
「我儘を言わないでください……ジャノメ姫」
青い武士の目に怒りが灯る。
アケは、ビクッと身体を震わせる。
武士の目にではなく、ジャノメ姫と言う言葉に。
「貴方は、ただ殿下のお心にのみ従えばいいのです。分かりましたか?」
「……はいっ」
アケは、身を縮め、頭を下げる。
「殿下のお心に従います」
惨めとしか言いようのないアケの態度に青い武士は満足そうに、馬鹿にするように笑う。
緑の武士達からも嘲笑が湧き起こる。
アケは、悔しく、悲しい気持ちを堪えて頭を下げ続ける。
「それではジャノメ姫。お達者で」
青い武士達は、ニヤッといやらしい笑みを浮かべたまま飛竜の下に向かう。
緑の武士達もそれに続いて飛竜に向かう。
「もし……」
アケは、顔を上げて若い武士に声を掛ける。
若い武士は肩を震わせて振り返る。
その怯えた顔と頭に浮かんだ顔は似ても似つかないのに何故か重なった。
「もし……私を訪ねてくる人がいたら伝えてください」
若い武士は、意味が分からず首を傾げる。
アケは、構わず言葉を続ける。
「私のことは忘れて。幸せになって……と」
若い武士は、何のことだか分からなかった。
分からなかったが……。
「畏まりました」
そう言って小さく頭を下げた。
それだけでアケは満足だった。
武士達を乗せた飛竜がアケを乗せた輿を引っ張ったまま雲海の向こうに去っていく。
輿の中にいた時は真正面に見えた月が今は雲海に沈むように傾きかけている。
恐らく反対側からは朝日が登り始めるだろう、少しだけ明るくなっているのが分かる。
「もう……お日様を見ることもないんだな」
アケは、ぼそっと草の上に膝を落として正座する。
夜気と草と土の冷たさが分厚い白無垢を通して伝わってくるが輿の中よりは遥かに心地よい。
アケは、白無垢の袖に触れる。
「……酷いなあ」
アケは、悲しげに呟き、手触りの良い白無垢を何度も撫でる。
「酷い……酷いなぁ」
蛇の目が大きく震える。
「なんで……私……こんな目にあわなきゃいけないのかな?」
蛇の目から涙が溢れ、白無垢の袖を濡らす。
「でも……もう終わる……」
不遇しかなかった十九年の人生がようやく終わる。
もう……思い残すことなんて何も……。
そう胸中で呟くアケの脳裏に金色の髪の映像が浮かぶ。
そして無邪気に笑いかける可愛らしい笑顔も。
「ごめんね……」
最後の言葉が力なく掠れる。
その時だ。
草を踏む音がする。
皮膚を炙られるような熱気と赤く揺れる光が蛇の目に映る。
(来た)
アケの身が緊張で固くなる。
恐怖が沸騰したお湯のように心の中で泡を打つ。
(何を臆してるの?)
アケは、自答する。
(喜ぶのよ……アケ……これでようやく……).
私は、幸せになれる。
草を踏む音が近づいてくる。
熱がさらに上がり、焼けるような赤い光が縦長の瞳孔を広げる。
(今だ……!)
アケは、右手が顔を覆う白い布に触れようとした。
「ぷきいっ」
風船から空気の抜けたような愛らしい声が耳を付いた。
・・・へっ?
「ぷぎい、ぷぎぷぎい」
つぶらな黒い目が蛇の目と重なる。
黒真珠のような大きく、丸い、純朴に輝いた目。
アケの顔と同じくらい大きな豚のような桃色の鼻。
硬い茶色の毛に覆われた岩のような体躯。
大きな口の両端から伸びた太く、鈍く大きな2本の牙。
そして篝火のような大きな炎を背負った背中。
それは背中に炎を携えた巨大な猪であった。
アケは、予想だにしなかった出来事に絶句する。
しかし、炎を背負った猪は、そんアケの様子など気にすることなく、大きな鼻を近づけ、穢れのない黒い2つの瞳でじっと見つめてくる。
背中の炎と混乱に当てられ、アケの頬が真っ赤に染まる。
「えっはっえっ?」
アケは、混乱する。
ここに住むのは金色の黒狼ではなかったのか?
それともそれは捻じ曲がった言い伝えでこの猪こそが猫の額の主なのか?
そんなアケの混乱など構わず、猪は大きな鼻頭でふんふ白無垢を擦り、炎の熱で赤く染まった頬を撫でる。
少し湿った大きな鼻は見た目に反して柔らかくアケは擽ったくなる。
「あはっいやだ・・・やめて」
アケは、擽ったくさに口元を緩めながら言うも猪はやめない。人なっこい犬が舌で舐めるように鼻を擦り付ける。
「あーっいたー!」
甲高い子どもみたいな声が聞こえる。
アケは、猪の鼻を押さえつけながら声の方に蛇の目を向ける。
雪だるまが跳んでいる。
いや、正確には雪だるまに似た何かが森の方からゴム毬のように飛び跳ねてこちらに向かってくる。
ピョーンッピョーンッピョーンッ。
雪だるまは、アケと猪の前に落ちると大きく跳ねる。
丸い月と大きな影が重なる。
雪だるまと間違えるくらい膨らんだ胴体、触り心地の良さそうな白い毛、剣のように伸びた二つの耳、そして紅玉のような赤い目。
それは猪と同じくらい大きな白兎だった。
白兎は、ずんぐりとした両手と両足を星のように伸ばして着地すると赤い目を猪に向けてヒクッと鼻を動かす。
「まったく勝手に言っちゃ駄目だよ」
白兎は、表情は変わらないが怒った口調で言う。
「捧げ物が来て嬉しいのは分かるけど、まだ、あいつらがいたら大変なことになるんだよ!」
口調こそ強いがまるで怒っているように見えない白兎。
猪は大きな体躯に似つかわしくないくらい小さく、しゅんっとしょげてしまう。
アケは、可哀想になり猪の桃色の鼻を撫でる。
「あの……」
アケは、躊躇いがちに口を開く。
「この子も悪気があった訳ではないと思うので許してあげて……」
白兎の赤い目と蛇の目が重なる。
白兎の動きが止まる。
アケの怪訝な表情が赤い目に映る。
「うわあああああっ!」
白兎の口から悲鳴が上がり、ずんぐりとしたお尻が地面に落ちる。
アケも驚いて蛇の目を大きく見開く。
(しまった……)
兎のような見ために思わず迷い猫に声を掛けるように話してしまった。
後悔がアケの胸を突くと同時に危機感が襲ってくる。
こんな醜い化け物に声なんて掛けられたら警戒どころの話しじゃない。
恐怖と殺意を持って襲いかかってくるはず!
(そんな……)
まだ、目的も果たしてないのに殺される訳にいかない。
アケは、白無垢の袖をぎゅっと握りしめ、顔を覆う白い布に手をかけようとする。
しかし、白兎から返ってきたのはまったく予期せぬ言葉だった。
「人間の女の子がいるー!」
そう叫んでピョーンッと飛び跳ねた。
……えっ?
人間の……女の子?
(私が……?)
白兎は、右、左と身体を動かしてアケを見る。
「君どうしたの?」
表情こそ変わらないが、その声はアケを気遣うように優しい。
「ひょっとして迷いこんじゃったの!?それとも捧げ物が欲しくて付いてきちゃったの?」
白く柔らかい手がアケの身体をペタペタ触る。その手つきはまったくいやらしくなく、むしろ柔らかくて気持ちいい。
「ぷぎいっ!」
猪が声を荒げ、鼻を使って白兎を退ける。
白兎は、「ごめんっごめんっ」とアケと猪に謝ってから
赤い目で辺りを見回す。
「捧げ物が……ない?」
白兎は、カクンッと首を傾げる。
「今日って年に一度の捧げ物の日だよね?飛竜が逃げるように飛んでくの見えたし……」
白兎は、赤い目を猪に向ける?
猪は同意するように「ぷぎぃ」と鳴く。
「毎年、いらんものを持ってきては自慢げに帰っていく日だよね?」
そんな風に思われてたんだ。
命がけで捧げ物を考える白蛇の国の官職達が聞いたら卒倒するような台詞にアケは頬を引き攣らせる。
「まあ、それでも今年こそは面白いものをくれるかと期待してたんだけど……」
白兎の赤い目がアケを見る。
アケは、思わず身体を震わせる。
「ひょっとして……君が捧げ物?」
白兎がじっと見つめてくる。
アケは、唾を飲み込み、恐る恐る小さく頷く。
白兎の表情は変わらない。
しかし、全身を覆う白い毛が逆立ち、赤い目が激しく揺れる。
「ふざけるなよ・・・」
それは可愛らしい見かけからは想像も出来ない地を震わせるような怒りの声だった。
アケは、思わず後退りそうになる。
怒って当然だ。
恐れ、敬い、祀る為に捧げられるはずのものが来てみたらこんな醜い化け物だったのだから……。
アケは、今度こそ死を覚悟し、白い布に手を伸ばそうとする。
しかし……。
「あいつら仲間を何だと思ってるんだあ!」
白兎が大声で叫ぶ。
それに同調するように猪も「ぷぎい!」と怒りの声で鳴く。
アケは、手を止め、蛇の目を震わせて呆然と白兎と猪を見る。
白兎は、柔らかい両手をアケの肩に置く。
「君……頑張ったね!」
アケは、蛇の目を大きく見開く。
「怖かったよね!辛かったよね!」
表情は変わらない。
しかし、その赤い目は熱を帯びてアケを見る。
「こんなか弱い女の子を捧げ物にするなんて……」
白兎は、本当に怒っていた。
心の底から……自分の為に怒っていた。
猪も手足をバタつかせて怒っている。
自分の為に。
アケは、目の前にある事実を飲み込むことが出来ず呆然と怒る二人を見た。
その時だ。
草を踏み締める音と共に闇が背後から伸びてきてアケ達に被さる。
アケは、突然の闇に驚き、振り返り、蛇の目を大きく見開く。
目の前に二つ黄金の月が浮かんでいた。
いや、月ではない。
本物の月は上空で日入れ替わるように傾いている。
それは月のように美しく、気高く輝く黄金の双眸。
それだけではない。
鋼のような光沢を放つ黒い体毛に覆われた強軀。柱のように力強い四肢、氷を削って出来た刃のような白く、鋭い牙、そして気品と威厳に溢れた雄々しい顔立ち。
その全てから気品と威圧、そして威厳が醸し出されている。
「金色の……黒狼……」
それは巨大な黄金の双眸を携えた黒い狼だった。
アケは、目の前に悠然と立つ巨大な狼に気押されるように呟いた。
(この方が……私の……)
「主人……」
アケは、きゅっと両手を握りしめる。
黒狼は、黄金の双眸をアケに向ける。
「其方は……」
その声は低く、力強く、そして魅惑的な響きを持っていた。
アケは、黒狼に圧倒され、言葉どころか身じろぐことも忘れてしまう。
「捧げ物です。王」
白兎は、ずんぐりとした右手を左肩に当てて頭を下げる。
その仕草はあのやかましく可愛らしい雰囲気からは想像出来ないほど礼儀正しく、美しい。
まさに王に仕える臣下のようだ。
「この娘が子度の白蛇の国の捧げ物です」
その声は礼儀正しくも怒りが含まれていた。
猪も白兎の隣で伏せている。
黄金の双眸が小さく震える。
「真か?」
「御意」
黒狼は、アケに目を向ける。
「其方」
アケは、その声が自分に向けられている気付くのに数泊の遅れを生じた。
「は……はいっ」
「其方・・名は何という?」
「私は・・・」
アケと答えようとした瞬間、アケの脳裏に記憶が蘇る。
お前はアケではない。ジャノメだ!
豪奢な格好をした老猿のような顔をしたら男が醜く顔を歪めてアケを蔑み、怒鳴る。
二度とアケと名乗るな!この化け物が!
アケは、唇を震わせ噛み締める。
そして息を飲み込み、再び口を開く。
「私は……ジャノメと申します」
アケは、そう言うと草の上に三つ指を付き、綿帽子が落ちそうになるのも厭わず頭を下げる。
「子度の白蛇の国より捧げ物と参りました。お役に立つか分かりませんがどうぞ主人のお気に召すようお使いください」
「主人?」
黄金の黒狼は、黄金の双眸を小さく震わせ、アケを見る。
アケは、顔を伏せたまま、そっと白い布に指を当てる。
(やるなら……今よ……)
アケは、白い布に爪を立てて引き剥がそうとする。が、指が……身体が震えて出来ない。
(どうして……どうして出来ないの?)
覚悟を決めてきたはずなのに……。
何もかもどうでも良くなったはずなのに……。
全て捨てて……幸せになろうって決めたのに……。
姉様……。
金色の髪と無邪気な笑顔がアケの脳裏を過ぎる。
姉様……一緒に……しよう。
姉様……姉様……。
蛇の目から涙が落ち、草を濡らす。
「ナ……」
重力が消える。
視界が夜の空を映し、ぽふんっと柔らかな感触と花の香りが鼻腔を擽る。
アケは、何が起きたか分からず顔を上げる。
そこに見えたのは黒く、柔らかな毛と、こちらをじっと見つめる黄金の双眸。
アケは、そこが黒狼の背中の上だと気付く。
「しゅ……主人?」
アケの心を羞恥心が襲う。
何が起きたか分からず思わず手足をバタつかせる。
「じっとせよ」
威厳ある声がアケの耳朶を打つ。
アケはら思わず身体の動きを止める。
「疲れたであろう?」
黒狼の口から言葉が漏れる。
その声にあるのは威厳と気品、そして労りであった。
「休める場所に案内する」
そう言うと黒狼は、森に向かって足を踏み出す。
白兎と猪は、森に向かう二人に向かって頭を下げたまま見送る。
アケは、何が起きてるのか分からず呆然と傾き掛けた月に、ずっと向こうに見える朝焼けた空に目を向ける。
(何が……どうなってるの?)
ぼうっとしてる場合じゃない。
成り行きに飲まれてる場合じゃない。
自分は……これから……。
(主人を殺さないといけないのに……)
アケは、ぎゅっと唇を噛み締める。
まだ、いい。
まだ、その時じゃない。
今は流れに身を任せて好機を待つんだ。
アケは、自分にそう言い聞かせ、花の香りに身を沈めた。




