第16話 笑い声のない街に、来てしまった
王都の男爵邸は、父の弟のアーネスト叔父が管理を引き継ぐことになった。
そしてアーサー家は、新しく授かった領地へと旅立つことになったのだ。
出発の朝、荷馬車に荷物を積み終えると、見慣れた屋敷がいつもより小さく見えた。
城壁の門を抜けるとき、父は馬車から何度も振り返っていた。
言葉はなかった。
ただ、その背中が語っていた。
生まれ育った街を離れるということが、どういうことなのかを。
「……しばらくは、戻れないな」
父の声は小さかった。
だが、その重さはちゃんと伝わってきた。
***
街道に入ってしばらくすると、道は深い森の中へと続いていった。
護衛の一人が、馬車の御者台から首をかしげた。
「おかしいな……この街道、魔物が多いと聞いていたのだが」
「一匹も出てこない」
もう一人の護衛も同意するように頷く。
「確かに。森に入ってもう半刻は経つが、気配すらない」
「前に通ったときは、ゴブリンの群れに三度は遭遇したんだが……」
父も不思議そうに周囲を見回している。
「我々が来る前に、騎士団が通過したのかな?」
レグニアは、護衛とともに馬車の脇を歩きながら、涼しい顔で答えた。
「さあ、どうだろう」
ケイスだけが、その理由をなんとなく察していた。
(魔物が、ドラゴンに近づくはずはないよな……)
――実はその少し前、森の奥でひとつの影が街道を覗き込んでいた。
体長三メートルを超える大型の熊型魔物、アイアンベアだ。
縄張りを侵した者は例外なく仕留めてきた、この森の主である。
だがその瞬間、アイアンベアの目がレグニアをとらえた。
全身の毛が逆立つ。
四肢が震える。
本能が、全力で警告を発していた。
(あいつは人間じゃない。とにかく危険だ!)
――逃げろ。今すぐ。どこへでもいいから。
アイアンベアは音もなく踵を返し、森の奥へと全力で駆け去った。
その後ろ姿を見ていたゴブリンたちも、理由もわからぬまま釣られて逃げ出した。
しばらくして、森はしんと静まり返った。
護衛たちは何も知らないまま、首をかしげながら街道を進んでいった。
***
旅の道中、いくつもの村や街を通り過ぎた。
だがどこを見ても、人々の顔が暗かった。
市場の露店では客がまばらで、店主たちの呼び込む声も力がない。
並ぶ野菜はしなびて、肉の量は少ない。
通りの空気そのものが、どこか重く澱んでいるように感じた。
(この国は、思っていた以上に病んでいる)
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
旅路を経て、ようやく目的地が見えてきた。
新たな領地の中心となる街――リューデン。
街並みはそこそこ整っており、商人ギルドも冒険者ギルドも存在している。
住宅も並び、表向きはそれなりに形を保っていた。
だが、足を踏み入れた瞬間、何かが違うとわかった。
街を歩く人々の顔が、沈んでいる。他の街以上に生気がなく、足取りも重い。
通りに活気がない。
笑い声がない。
子供のはしゃぐ声すら、どこにも聞こえない。
建物は立っている。
ひとも歩いている。
なのに、街が死んでいるように見えた。
(……何かがおかしい)
***
領主の屋敷に到着した。
前任の領主が使っていた屋敷を、そのまま引き継ぐことになる。
王都の屋敷より三倍ほどの広さで、庭も広々としていた。
廊下も壁も一見整ってはいるが、どこか冷たい感じがした。
丁寧に手入れされているのに、人の温もりが感じられない。
長く人に愛されてきた場所とは、何かが違った。
荷物を運び込んでいると、一人の男が訪ねてきた。
「アーサー子爵様、遠路はるばるお疲れさまでございました」
「この街の行政を預かっております事務官、エルマー・グライフと申します」
男は細身の体に上質な衣服をまとい、背筋を真っすぐに伸ばしていた。
物腰は整っているし、言葉も丁寧だ。
だが口元に浮かぶ笑みが、目まで届いていなかった。
「本日は到着されたばかりで、お忙しいと存じますので、ご挨拶のみにとどめさせていただきます」
「領地についての詳しい話は、明日改めて……」
深々と一礼すると、音もなく背を向けて去っていく。
しばらく沈黙が続いた。
「……礼儀正しい人物のようだな」
父はそう言ったが、その目がわずかに細くなっていた。
***
数日が過ぎた。
父の顔に、疲れがにじみ始めていた。
食事の席でも言葉が少なく、時折遠くを見るような目をする。
(やはり、この街には大きな問題があるのかもしれない)
ある夜、父がぽつりと話してくれた。
着任して以来、エルマーが毎日のように書類を山ほど持ち込んでくる。
だがその書類のどれもが、肝心なことを巧みに隠した内容ばかりで、読めば読むほど街の実態が見えなくなっていく。
おまけに領民からの陳情は、エルマーの手を経由しなければ届かない仕組みになっているらしい。
「歴代の領主が次々と短期間で交代してきたのは、偶然ではないかもしれん」
父は静かにそう言った。
重い空気の街。
何かを隠している事務官。
そして疲れた父の横顔。
それでもここは、父が治める領地だ。
街を歩く人々は、父の領民だ。
そして神様から頼まれている。
『この世界の人々を幸せにしてほしい』と。
(自分に、なんとかできるだろうか)
正直、自信はない。
エルマー事務官が何者なのかもまだわからない。
街がなぜこれほど沈んでいるのかも、まだ見えていない。
それでも――沈んだ顔の領民たちを、笑顔にしたい。
ただ、それだけは確かだった。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな灯がともった。
小さいが、しっかりと燃えている。
***
部屋に戻り、机に向かっていると、扉が軽く叩かれた。
「ケイス、入るぞ」
レグニアだった。
ルビーの瞳がこちらを見て、わずかに目を細める。
「何を考えている」
「この街の住民を、幸せにしたいと思って」
「神様に頼まれているというのもあるけど……」
「街の住民たちの顔を見ていたら、放っておけなくて」
「そうか」
レグニアは腕を組んだ。
少し考えてから、ぽつりと言う。
「なら、まず街を歩こう。原因がわからなければ、何もできない」
「そうだね」
二人で階段を下りると、ちょうど廊下を歩いていた父と鉢合わせた。
父はケイスの顔を見て、何かを察したように小さく息をついた。
「出かけるのか」
「少し街を見てこようと思いまして」
「そうか」
父は一拍置いてから、静かに言った。
「気をつけていけよ。この街は、まだわからないことが多い」
「はい」
父はそれ以上何も言わなかった。
だが、その目が「無理をするな」と言っていた。
二人で屋敷の扉を押し開けると、重い空気が静かに出迎えた。
***
ゆっくりと通りを歩くと、改めて街の荒廃ぶりが目に入ってくる。
子供たちが道端にしゃがみ込んでいた。
空腹に耐えるように膝を抱えて、ただじっとしている。
年寄りは壁にもたれたまま、虚ろな目で空を見上げていた。
店先に並ぶ品はわずかで、客の姿もほとんどない。
「また税か……どうやって暮らせってんだ」
「前の領主も何もしてくれなかったからな」
別の男が、苦々しそうに続けた。
「今度の奴も、どうせ同じだろうよ」
「シーッ。取り立ての連中に聞かれたら殴られるぞ」
道端で交わされる小声が、耳に刺さった。
(取り立て? 連中に殴られる?)
俺は立ち止まらずに歩きながら、その言葉を胸の中で繰り返した。
勝手に税を取り立てる者がいる。
逆らえば暴力を受ける。
だから誰も声を上げない。
そういうことか。
「……相当だな」
レグニアが低く呟いた。
「曰くつきの街というのは、こういうことか」
「うん」
俺は頷いた。
「でも、変えられると思うよ。俺たちなら」
言葉にしてみると、不思議と確信に変わった。
沈んだ空の向こうに、わずかな光が射し込んでいる。
この街に影を落とす黒いもの――その正体はまだ見えない。
だが、必ず見つけてみせる。




