第1話 子供をかばって死んだら
のんびり異世界生活を夢見て転生したら、気づけば国を救っていました。
幸運と不運を操るスキルで、悪人が勝手に自滅していきます。
主人公はぽっちゃり体型の善人です。残酷な描写はありません。
ゆるく楽しんでいただければ幸いです。
夜の九時を過ぎていた。桂木慶介、二十七歳。
残業続きの体を引きずりながら、駅からの道を歩いていた。コンビニの明かりが眩しい。
腹は減っているが、弁当を買う気力もなかった。
慶介が勤めているのは、不動産会社だった。
同僚たちは少しでも高い物件を契約させようと、お客の予算や希望を都合よく聞き流すことに慣れていた。
だが慶介は違った。
「お客様のご希望と生活スタイルなら、正直なところ、うちよりも隣の不動産さんの物件の方が向いていると思います」
そう言って他社の物件を勧めることも、珍しくなかった。
当然、契約にはならない。同僚たちには呆れられた。
「慶介はバカだよな。何のために働いてるんだ」
笑われても、慶介は変えなかった。
新居が決まって喜ぶお客の顔を見ると、それだけで充分だと思えた。
そんな慶介をただ一人、認めてくれていた上司がいた。
営業一課の課長、田中さんだ。
朝礼のたびに、田中課長は他の社員の前で言った。
「慶介のやり方を見ておけ。お客が本当に満足すれば、口コミで次に繋がる。数字を見ろ。慶介のリピート率は全員の中で一番高い」
実際、慶介の業績は少しずつ上向いていた。
他社物件を勧めた相手が、友人を連れて戻ってくる。
そういうことが、じわじわと積み重なっていた。
半年前、田中課長から呼ばれた。
「来月から、お前を係長にしようと思っている」
思いがけない言葉だった。
慶介は思わず頭を下げた。やっと、報われる気がした。
だがその翌週、田中課長は突然倒れた。
重い病気だった。回復の見通しは立たず、そのまま退職することになった。
最後に病室で手を握ったとき、課長はかすれた声で言った。
「慶介、お前のやり方を、ずっと貫けよ」
後任の課長は、着任初日にこう言った。
「慶介、お前の売り方は間違っている。うちの物件を売るのが仕事だ。他社を勧めるなど論外だ。今すぐやめろ」
係長の話は、立ち消えた。
それどころか、閑職に異動させられた。
思い返せば、田中課長が倒れた日のことは今でも覚えている。
朝、いつものように出社すると、課長の席が空だった。
救急車で運ばれたと聞いたのは、昼を過ぎてからだった。
病院に駆けつけると、課長は点滴を打ちながら、それでも慶介の顔を見て笑った。
「心配かけたな。お前のやり方で、仕事、続けろよ」
その言葉を守ろうとした。
だが現実は、そう簡単ではなかった。
その後、会社での慶介の居場所は、急速に狭くなった。
今日も上司に怒鳴られた。自分のミスではないのに。
今日も手柄を横取りされた。
三度目だ。(まあ、いいか)怒る気力もない。怒ったところで何も変わらない。
それだけのことだ。慶介の人生は、ずっとこんな感じだった。
大学ではケガで留年。
せっかく入った会社は二年で倒産。
次に入った今の会社では、こうして毎日怒鳴られている。
(俺って、ほんとに運悪いな)
自分でも呆れるくらい、運が悪い。
だが、不思議と卑屈にはなれなかった。くよくよしていても仕方がない。
明日の朝になれば、また仕事が始まる。
だったら今夜くらいは、帰り道を気持ちよく歩こうじゃないか。
夜風が涼しかった。空には星が出ている。
(いつか、のんびり暮らしたいなあ)
ふと、田中課長のことを思い出した。
今頃どうしているだろう。
病院から連絡が来たのは、もう三ヶ月前のことだ。
退院の見通しは立っていないと聞いた。
お見舞いに行くたびに、課長は「お前のやり方で、仕事、続けろよ」と励ましてくれた。
強いひとだと思った。そして、自分にはないものを持っているひとだと思う。
いつか、課長に胸を張って報告できる日が来るといい。
そんなことを、ぼんやりと考えながら歩いていた。
誰にも怒鳴られず、急かされず、自分のペースで、静かにのんびり生きていきたい。
広い家に住んで、豪華に暮らせなくてもいい。
ただ穏やかな毎日があれば、それだけで充分だ。
それが慶介の、ささやかな夢だった。
そのとき――「あぶない!」
誰かの叫び声。気づけば、体が動いていた。
考える前に足が出ていた。車道に飛び出した小さな子供。
おそらく四、五歳。
よちよちと歩いていた子が、段差につまずいて車道に転がり出た。
猛スピードで迫ってくるトラックのヘッドライト。
慶介は子供の体を思い切り歩道へと突き飛ばした。
「おにいちゃん!」
子供の声が、遠ざかっていく。間に合った。
そこまでは、わかった。
次の瞬間、世界が白くなった。




