短編『 推しの人気声優に「結婚したい」と言い続けたら、本当に交際0日婚になった話 』
「好きです。結婚したいくらい好きです」
最初にそう伝えたのは、18歳の夏だった。
初めて参加した握手会。目の前に現れたのは、画面越しでしか見たことのなかった“推し”――人気声優のみのりさん。
時間はたった数秒。
震える声で、俺はそう言った。
みのりさんは少し驚いた顔をして、それから優しく笑ってくれた。
「ありがとう」
それだけだった。
それでも俺は、それからも握手会に通い続けた。そして会うたびに、同じ言葉を小さく伝え続けた。
「好きです。結婚したいくらい好きです」
迷惑だと思われているかもしれない。それでも、嘘はつきたくなかった。
――本気だったから。
◆
それから2年。
俺は大学に合格した。
人生の節目くらい、少しだけわがままを言ってもいい気がした。
だから手紙を書いた。
『入学式に、もし時間があれば来てほしいです』
来るわけがない。そう思っていた。
だけど――
「……潤一郎くん?」
振り返った先にいたのは、間違いなくみのりさんだった。
一瞬、現実感が消えた。
◆
人目を避けるように、少し離れた漫画喫茶に入った。
個室の中、向かい合って座る。
沈黙が重い。
でも、ここで逃げたら終わると思った。
「……あの、ずっと言ってきたこと、覚えてますか」
「うん。覚えてるよ」
優しく笑う彼女に、胸が締め付けられる。
「今日、本気で言います」
深く息を吸って――
「結婚してください」
言ってしまった。
もう後戻りはできない。
沈黙。
数秒が、何分にも感じる。
そして――
「……いいよ」
あまりにも自然な声だった。
「え……?」
思わず聞き返す。
「だから、いいよ。結婚」
冗談には見えなかった。
むしろ、覚悟を決めたような顔だった。
「……本当に?」
「うん。本気で言ってたんでしょ?ずっと」
言葉が出ない。
すると彼女は、少しだけ照れたように視線を逸らして言った。
「……私も、ちゃんと考えてたから」
◆
その日、俺は彼女の家にいた。
高級マンション。場違いすぎる。
玄関に並ぶ、俺の靴と彼女の靴。
それだけで現実が重くのしかかる。
「ルール、決めよっか」
「ルール?」
「外では他人。これは絶対」
芸能人である以上、それは当然だった。
「でもね」
彼女は一歩近づいてきて――
「家ではちゃんと、夫婦でいよう?」
心臓が跳ねる。
「……はい」
それしか言えなかった。
◆
次の日の朝。
目が覚めると、隣に彼女がいた。
寝顔。無防備すぎる距離。
夢じゃない。
そう実感した瞬間――
「……起きてる?」
「っ、はい!」
慌てて返事をする。
彼女はくすっと笑って、顔を近づけてきた。
「おはよう」
そのまま、軽く触れる唇。
一瞬だったのに、頭が真っ白になる。
「夫婦なんだから、普通でしょ?」
いたずらっぽく笑う彼女。
俺はただ、何も言えず頷くことしかできなかった。
◆
大学では、ただの学生。
彼女は、誰もが知る人気声優。
世界は交わらない。
でも――
「おかえり」
「ただいま」
家に帰れば、そこには“妻”がいる。
信じられない日常。
◆
数日後。
握手会に、俺はまた並んでいた。
ファンとして。
順番が来る。
彼女の前に立つ。
「……好きです」
いつもの言葉。
でも今は、意味が違う。
彼女は微かに笑って言った。
「ありがとう」
その目だけが、少しだけ優しかった。
誰にもバレない。
でも確かに、繋がっている。
◆
夜。
ソファで隣に座る彼女。
「ねえ、潤一郎くん」
「はい」
「……あの時のプロポーズ、もう一回言って」
突然の言葉に、心臓が跳ねる。
でも逃げなかった。
「結婚してください」
真っ直ぐに伝える。
彼女は少しだけ目を細めて――
「うん。よろしくね、旦那さん」
そう言って、そっと距離を縮めた。
重なる距離。
静かな空気。
「これからも、一緒にいようね」
その言葉に、俺は頷いた。
――推しと結婚するなんて、ありえないと思っていた。
でも今、確かに隣にいる。
外では他人。
家では夫婦。
誰にも知られない、秘密の結婚生活。
それでも――
これ以上ないくらい、幸せだった。
【完】




