第8話 氷の下の孤独
公爵邸に来て一ヶ月。
庭は見違えるほど美しくなっていた。
花壇には色とりどりの花が咲き誇り、薔薇のアーチには白薔薇の蕾が膨らみ始めている。噴水も修復されて清らかな水が流れ、小鳥たちが水浴びに訪れるようになった。
だが、アネットが最も力を入れているのは薬草園だった。ヒールリーフをはじめとする希少な薬草が順調に育ち、温室では新たな品種の栽培にも取りかかっている。
ある日の昼下がり、アネットは薬草園でハーブティー用の葉を摘んでいた。
「アネット」
「あ、ルシアン様。今日は早いですね」
「……午後の予定がなくなった」
嘘だ。クラウスから聞いた話では、ルシアンは午後の会議を自分でキャンセルしたらしい。
「お茶を淹れますね。今朝摘んだカモミールがいい香りなんです」
二人は庭のベンチに腰を下ろした。一ヶ月前、ルシアンが一人で座っていたベンチ。今は当たり前のように、二人分のスペースになっている。
「ルシアン様」
「なんだ」
「お母様のこと、もう少し聞いてもいいですか」
ルシアンの手がカップの上で止まった。一瞬の沈黙の後、小さく頷く。
「……何が聞きたい」
「この庭のこと。お母様は、どんな方だったんですか」
ルシアンは庭を見渡した。風に揺れる花々を、どこか懐かしそうに眺めている。
「母は——強い人だった。この庭を、荒地から一人で作り上げた」
「一人で?」
「父は仕事一辺倒で、家のことは母にまかせきりだった。母は文句ひとつ言わず、一人で庭を耕し、花を植え、薬草を育てた。薬学の知識も独学で身につけて、領民に薬を調合してやることもあった」
アネットは静かに聞いていた。ルシアンがこんなに長く話すのは初めてだ。
「俺が五つの時、母は病に倒れた」
ルシアンの声が、わずかにかすれた。
「皮肉なことに、母が育てた薬草でも治せない病だった。半年間、寝たきりの生活が続いて——」
言葉が途切れる。
「……最期に母が言ったのは、『庭の花を枯らさないで』だった」
「ルシアン様……」
「だが、俺には無理だった。庭師を雇ったが、母のようにはいかなかった。花は次々と枯れていった。結局、庭師も匙を投げて辞めていった」
ルシアンはカップに目を落とした。
「母が死んでから、俺は感情を出すのをやめた。感情は何の役にも立たない。泣いても笑っても、母は戻らない。庭の花も枯れていく。だから——」
「だから、氷の公爵になった」
アネットが静かに言った。ルシアンが小さく頷く。
「感情を殺せば、何も失う怖さがなくなる。誰にも近づかなければ、誰も失わなくて済む。そう思っていた」
「……今は?」
アネットの問いに、ルシアンは答えなかった。
代わりに、庭に目を向ける。
「お前が来て、庭に花が咲いた」
「はい」
「母が枯らすなと言った花が、もう一度咲いた。——十年間、何をしてもダメだったのに」
ルシアンはアネットに視線を戻した。銀灰色の瞳に、アネットが映っている。
「お前が来てから、この屋敷が変わった。花が咲いて、小鳥が来て、使用人たちが笑うようになった。俺の——」
一度言葉を切り、それから絞り出すように言った。
「俺の世界に、色が戻った」
アネットの目から涙がこぼれた。
この人は、十年間もたった一人で、凍りついた庭と、凍りついた心を抱えて生きてきたのだ。
「ルシアン様」
「泣くな」
「泣いてません」
「泣いている」
「……ちょっとだけです」
アネットは涙を拭って、ルシアンに微笑みかけた。
「お母様の庭、私がずっと守ります。枯らしたりしません」
「……ずっと?」
「ずっと、です」
その言葉の意味を、二人ともわかっていた。
庭のことだけではない。この場所に——この人のそばに、ずっといると。
ルシアンは長い沈黙の後、ほんのわずかに——本当にわずかに、口角を上げた。
「……勝手にしろ」
それは、ルシアン・ラヴロックが十年ぶりに見せた、笑顔だった。
その夜。
アネットは月明かりに誘われて、庭に出た。
昼間とは違う庭の表情に見とれていると、月光花のもとにルシアンの姿があった。
「ルシアン様?」
「……眠れなかっただけだ」
月光花は文字通り、月の光を受けて淡く輝いていた。幻想的な光景だ。
「綺麗ですね」
「ああ」
だが、ルシアンの目は花ではなく、月明かりに照らされたアネットの横顔に向けられていた。
「アネット」
「はい」
「今日の話——俺の過去を話したのは、お前が初めてだ」
「光栄です」
「光栄などではない。ただ——」
ルシアンの手が伸び、アネットの髪にかかった花びらをそっと取り除いた。指先が頬をかすめる。
「お前には、嘘をつきたくなかった。それだけだ」
アネットの心臓が大きく鳴った。
「……ルシアン様」
「なんだ」
「私も、あなたに嘘はつきません」
月光花の光に包まれて、二人は向き合った。
言葉はそれ以上なかったけれど、春の夜風が二人の距離をほんの少しだけ縮めた。




