第5話 お前は使用人ではない
緑命の力を知られてから、ルシアンの態度が明らかに変わった。
いや——正確に言えば、それまでも少しずつ変わっていたのだ。ただ、その変化の速度が一気に加速した。
最初に気づいたのは、部屋だった。
「アネット様、旦那様からお部屋の移動を言い渡されました」
クラウスに案内されたのは、客間ではなく——屋敷の東棟にある、豪華な一室だった。天蓋付きの大きなベッド、暖炉、書棚、専用の浴室まで完備されている。窓からは庭が一望でき、朝日が差し込む最高の位置。
「あの、これは……」
「東棟の貴賓室でございます。かつて公爵夫人がお使いになっていた部屋です」
公爵夫人の部屋。つまり、ルシアンの母の部屋。
「そ、そんな大切な部屋を私が使うわけには——」
「旦那様のご指示です。『庭が見える部屋のほうが効率がいいだろう』と」
いつもの合理的な理由。だが、亡き母の部屋をアネットに使わせるのは、単なる効率では説明がつかない。
次に変わったのは、衣装だった。
仕立て屋が来たのは初日だけのはずが、その後も週に一度のペースで訪れるようになった。
「アネット様、本日は庭仕事用のドレスと、お食事用のドレスをお持ちしました」
「えっ、先週もいただいたばかりなのに——」
「ルシアン様からのご注文です。『季節が変わるから薄手のものを』と」
クローゼットがドレスで埋まっていく。しかもどれも上質な生地で、デザインはアネットの好みにぴったりだった。まるで好みを調べ上げたかのように。
そして——宝飾品。
ある朝、食卓にアネットが着くと、席の前に小さな箱が置かれていた。
「……これは?」
「開けろ」
箱を開けると、繊細な銀細工のネックレスが入っていた。小さな緑の石がちりばめられた、植物の蔓を模したデザイン。
「庭仕事の邪魔にならないものを選んだ」
ルシアンは平然とスープを口に運んでいる。
「あの、ルシアン様。私、庭の管理をしているだけの使用人ですのに——」
「使用人ではない」
スプーンが皿に置かれた。ルシアンがアネットを見る。
「お前はもう使用人ではない。客人だ」
「客人……?」
「客人に給金を払うのはおかしいから、今後は対価なしで滞在しろ。部屋も食事も衣装も、すべて公爵家が持つ」
「ちょ、ちょっと待ってください。それではますます申し訳が——」
「申し訳ないと思うなら、庭を綺麗にしろ。それで十分だ」
有無を言わせぬ口調。アネットは口をぱくぱくさせたが、反論の糸口が見つからない。
「……ルーシー、これって」
食後、ルーシーに相談すると、メイドの少女は満面の笑みで言った。
「旦那様、完全にアネット様のことを——」
「を?」
「い、いえ! なんでもありません!」
ルーシーは口笛を吹きながら去っていった。口笛を吹けていなかったが。
午後。庭での作業中、アネットはルシアンに呼ばれた。
「少し来い」
連れて行かれたのは、屋敷の離れにある温室だった。ガラス張りの大きな建物で、中には——何もない。空の鉢と、錆びた棚があるだけ。
「ここも母が使っていた温室だ。好きに使え」
「温室まで……!」
「冬になれば外での作業は難しくなる。それに、ヒールリーフのような希少種は温室のほうが管理しやすいだろう」
また合理的な理由。でもアネットにはわかる。ルシアンがアネットのために用意してくれたのだと。
「ルシアン様」
「なんだ」
「……どうしてここまでしてくださるんですか」
アネットは真剣な目でルシアンを見つめた。部屋、衣装、宝飾品、そして温室。明らかに「使用人」や「客人」への待遇を超えている。
ルシアンは視線を逸らした。
「別に。屋敷が明るくなるのは悪いことではない」
「それだけ?」
「……それだけだ」
嘘だ、とアネットは思った。この二週間で、ルシアンの嘘は見分けがつくようになっていた。本心を隠すとき、この人はわずかに視線が右にずれる。
だが、今はそれ以上追及しなかった。
「わかりました。では、ありがたく使わせていただきますね」
「……ああ」
「温室、素敵に飾りますから。楽しみにしていてください」
アネットが笑うと、ルシアンは一瞬、息を止めた。そして何も言わずに踵を返した。
その背中を見送りながら、アネットは自分の胸の鼓動が速いことに気づいた。
——違う。これは感謝の気持ちで——
自分に言い聞かせたが、頬の熱はなかなか引かなかった。
その夜、クラウスはルシアンの書斎を訪れていた。
「旦那様。仕立て屋から請求書が届いております。先月の三倍になっておりますが」
「問題ない」
「宝飾店からも。特注の品が仕上がったとのことで——」
「受け取っておけ」
「……旦那様」
クラウスは長年仕えた主人の顔をしげしげと見つめた。
「なんだ」
「いえ。奥様がご存命であれば、さぞお喜びになったかと」
ルシアンのペンが止まった。
「……何が言いたい」
「旦那様が、人を大切にされている姿を見られて。それだけで嬉しゅうございます」
ルシアンは無言でペンを走らせ始めた。
クラウスは深く一礼して書斎を辞した。
扉が閉まった後、ルシアンは窓の外に目を向けた。月明かりに照らされた庭は、ひと月前とは別物のように生き生きとしている。
「——代わりなど、いない」
誰に言うでもなく、ルシアンは呟いた。
「お前は、最初から——」
言いかけた言葉を飲み込んで、ルシアンは仕事に戻った。
だが、ペンを持つ手がなかなか進まなかったことは、本人だけの秘密だ。




