第4話 咲かない花が咲くとき
公爵邸に来て二週間。
庭は目に見えて変わり始めていた。
アネットが手をかけた花壇には小さな芽が次々と顔を出し、薔薇のアーチにも新しい蔓が伸び始めている。通常なら数ヶ月かかるはずの回復が、驚くほどの速さで進んでいた。
「おかしいわ……」
アネット自身が一番戸惑っていた。
いくら丁寧に世話をしているとはいえ、この成長速度は異常だ。花壇に植えた苗は一週間で倍以上に育ち、枯れかけていた樹木にも青々とした葉が戻りつつある。
そして薬草園のヒールリーフ。
アネットが毎日手入れをしている希少な薬草は、専門家でも栽培が困難と言われているにもかかわらず、みるみるうちに株が増え、瑞々しい葉をたくさんつけ始めていた。
「やっぱり——私の、この力のせいなのかしら」
植物に触れると、手のひらから淡い緑の光が漏れる。幼い頃からあった力。誰にも理解されなかった力。
その日の午後、アネットは庭の片隅で、一本の枯れ木と向き合っていた。
かつて見事な花をつけていたであろう老木は、幹だけが残って完全に枯死しているように見える。
「この木は何の木だったのかしら……」
幹に手を触れた。
瞬間——指先から溢れた緑の光が、今までにない強さで枯れ木を包んだ。
「えっ——」
アネットの意志とは関係なく、光が脈打つように広がっていく。枯れた幹に生命が巡るのが、手のひら越しに伝わった。
——ぱきり。
小さな音がして、枯れた枝の先から、白い蕾がひとつ、顔を出した。
「うそ……」
蕾はゆっくりと開いていく。純白の花弁が、午後の光を受けて輝いた。
「月光花——」
アネットは息を呑んだ。月光花は伝説の花だ。百年に一度しか咲かないと言われ、その花から採れる蜜は万病を癒すとされている。書物でしか見たことがなかった花が、今、目の前で咲いている。
「アネット」
背後から声がして、アネットは弾かれたように振り返った。
ルシアンが立っていた。いつもより早い時間だ。そして——その銀灰色の瞳が、わずかに見開かれている。
「い、いつから——」
「光った時からだ」
アネットの顔から血の気が引いた。見られた。この、誰にも見せたことのない力を。
「あ、あの、これは——」
「緑命の力か」
ルシアンの口から出た言葉に、アネットは目を見開いた。
「緑命……?」
「植物に生命力を注ぐ力だ。古い文献に記録がある。王国建国期に、荒野を沃土に変えた聖女が持っていたとされる——失われた力」
ルシアンは月光花に近づき、まじまじとその花弁を見つめた。
「月光花を咲かせるとはな。文献の記述は誇張ではなかったらしい」
「……怖く、ないんですか」
アネットの声が震えた。
子供の頃、この力を使ったところを近所の子供に見られたことがある。「化け物」と言われた。それ以来、ずっと隠してきた。
「なぜ怖がる必要がある」
ルシアンはアネットに向き直った。その表情はいつもの無表情——だが、声音はどこか柔らかかった。
「枯れ木に花を咲かせる力だ。誰かを傷つける力ではない」
「……でも、普通じゃ……」
「普通がそんなに大事か」
ルシアンは一歩、アネットに近づいた。
「お前の力で、この庭は蘇った。十年間、誰にもできなかったことを、お前はたった二週間でやってのけた」
銀灰色の瞳が、まっすぐにアネットを見据える。
「お前の代わりなどいくらでもいる——誰かにそう言われたそうだな」
アネットの心臓が跳ねた。なぜそれを。
「クラウスが調べた。レイヴンクロフト家の令嬢がグランツ家に婚約破棄されたという噂は、社交界に出回っている」
「……そう、ですか」
「あの男は愚かだ」
ルシアンの声に、初めて明確な感情が乗った。——怒りだ。
「お前の価値がわからないのは、あの男の目が節穴だからだ。お前の力は——いや」
ルシアンは言葉を切って、少し考えるような間を置いた。
「力がなくても同じだ。お前は毎日この庭に膝をついて、泥だらけになって、一本一本の草と向き合っている。それができる人間は、そうはいない」
アネットの目に涙が滲んだ。
五年間、アルベルトから一度も聞けなかった言葉。認められること。存在を肯定されること。
「お前の代わりはいない」
ルシアンは断言した。氷のように冷たいと言われるその声は、アネットの耳にはどこまでも温かく響いた。
「——ぅ、っ」
堪えきれず、涙が頬を伝った。アネットは慌てて泥のついた手で顔を拭おうとして——
「汚れるぞ」
ルシアンがハンカチを差し出した。白い、上質なリネンのハンカチ。
「泥のついた手で顔を触るな」
「……すみ、ません……」
「謝るな。泣きたければ泣け。ただし、泣き終わったら茶にしよう。クラウスが新しい茶葉を仕入れたらしい」
不器用な慰め方。だけどそれが、今のアネットにはたまらなく優しかった。
月光花は、夕暮れの光の中で静かに揺れていた。
百年に一度の奇跡を前に、ルシアンはぽつりと呟いた。
「……母が見たら、喜んだだろうな」
その声は、アネットだけに聞こえた。




