第3話 毎日、あなたが来るから
公爵邸での生活が始まって一週間が経った。
アネットの日課はこうだ。朝食を済ませたら庭に出て、日が暮れるまで手入れを続ける。雑草を抜き、土を耕し、新しい苗を植える。クラウスに頼んで取り寄せてもらった花の苗は、アネットが丁寧に選んだものばかりだ。
月下香、スイートピー、白いジャスミン。そしてこの庭の主役であろう薔薇たちも。
「アネット様、すごいです! ここ、前は雑草だらけだったのに」
ルーシーが感嘆の声を上げる。確かに、花壇のひとつはすでに見違えるような姿になっていた。柔らかく耕された土に、小さな苗が規則正しく並んでいる。
「まだまだよ。花が咲くまでにはもう少しかかるわ」
「でも、たった一週間でこんなに変わるなんて。アネット様、本当に植物が得意なんですね」
得意というより、好きなのだ。植物は裏切らない。丁寧に世話をすれば、必ず応えてくれる。
——人間と違って。
そんなことを考えてしまう自分に、アネットは苦笑した。
「あ、旦那様」
ルーシーの声に顔を上げると、案の定、ルシアンが庭に来ていた。
毎日だ。毎日、決まって午後になると庭に現れる。最初の頃は「進捗の確認」という名目だったが、最近は特に何も言わず、ベンチに座ってアネットの作業を黙って見ている。
「ルシアン様、こんにちは」
「……ああ」
短い返事。そしていつものベンチへ。
書類を持ってきていることもあるが、今日は手ぶらだった。つまり、庭を——アネットを見に来ただけ、ということになる。
「ルシアン様、よろしければお茶はいかがですか? ルーシーに淹れてもらいますけど」
「……いらない」
「そうですか。あ、でも今日はクラウスさんが焼き菓子を用意してくれていて——」
「……なら、もらう」
あっさり前言を撤回するルシアンに、ルーシーが口元を押さえて笑いをこらえている。
アネットも微笑ましく思いながら、作業を続けた。
午後の柔らかい日差しの中、アネットは薔薇のアーチの修復に取りかかっていた。錆びた鉄枠を磨き、絡みついた枯れ蔓を丁寧に外していく。
「それは——母が作らせたものだ」
不意にルシアンの声がした。いつの間にかベンチから立ち上がり、すぐ近くまで来ている。
「お母様が?」
「ああ。薔薇が好きだった。このアーチに白薔薇を這わせて、その下でよく本を読んでいた」
ルシアンにしては珍しく、自分から過去の話をしている。アネットは手を止めて、静かに耳を傾けた。
「……きっと、素敵な光景だったのでしょうね」
「そうだな。子供の頃は、ここが世界で一番美しい場所だと思っていた」
かつてこの庭は、ルシアンにとっての宝物だったのだ。それが今は荒れ放題になっている。庭師を置かなかったのは、母の庭を他人に触られたくなかったからかもしれない。
——なのに、私には任せてくれた。
その意味を考えると、胸が温かくなった。
「このアーチ、必ず薔薇を咲かせますね。白薔薇がいいですか?」
「……好きにしろ」
素っ気ない言葉。でも、ルシアンの視線がアーチに向けられた一瞬、銀灰色の瞳に淡い光が宿ったのを、アネットは見逃さなかった。
それから数日。
アネットは庭の奥で、ある発見をした。
「これ……薬草園?」
雑草に埋もれていたが、整然とした区画の跡がある。よく見ると、雑草に混じって見覚えのある植物がちらほらと生き残っていた。
「ムーンフラワー、スターアニス、それに——これはヒールリーフ?」
ヒールリーフは非常に希少な薬草だ。傷を癒す効能があり、高値で取引されている。だが栽培が極めて難しく、普通の庭師では枯らしてしまう。
「すごい……よくここまで生き延びたわね」
アネットは膝をついて、ヒールリーフに触れた。
その瞬間、指先がほんのりと温かくなった。
アネットの手から淡い緑の光が漏れ、ヒールリーフの葉先に伝わる。
「——あ」
アネットは慌てて手を引いた。
この現象を、アネットは知っていた。幼い頃からずっとあった——植物に触れると、植物が元気になる。枯れかけた花が蘇り、実りが良くなる。
レイヴンクロフト家では「庭いじりが上手」で済まされていたが、アネット自身はこれが普通ではないことに薄々気づいていた。
アルベルトには一度だけ打ち明けたことがある。彼は笑って「そんなの気のせいだろう」と一蹴した。それ以来、誰にも言っていない。
「……気のせい、よね」
自分に言い聞かせて、アネットはヒールリーフの周りの雑草を丁寧に抜き始めた。
夕食の席。
アネットとルシアンは向かい合って食事をしていた。最初の頃は緊張で味がわからなかったが、最近はこの時間が楽しみになっている。
「ルシアン様、庭の奥に薬草園がありました」
「ああ、あれも母のものだ。薬学に明るい人だった」
「ヒールリーフが生き残っていました。手入れをすれば、まだ蘇ると思います」
ルシアンのスプーンが止まった。
「……ヒールリーフは栽培が難しい。うちの庭師でも匙を投げた」
「やってみてもいいですか?」
「好きにしろ」
いつもの口癖。アネットはもうわかっていた。「好きにしろ」は、ルシアンなりの「頼んだ」なのだ。
「ところで」ルシアンが不意に切り出した。「クラウスから聞いたが、お前はドレスを一着しか持っていないそうだな」
「え? あ、はい。着替えは最低限しか……」
「明日、仕立て屋を呼ぶ。必要なものは揃えろ」
「そ、そんな! 私は雇われの身ですのに、そこまでしていただくわけには——」
「庭仕事にまともな服も着ずに出るな。体を壊されては困る」
合理的な理由をつけてくるが、アネットにはわかる。この人は、不器用なだけで、根は優しいのだ。
「……ありがとうございます、ルシアン様」
「礼はいい。早く食え、冷める」
ルシアンはそっぽを向いた。
その耳が、わずかに赤い。
——ああ、この人は本当に。
アネットの胸に、小さな温もりが灯った。それはアルベルトといた五年間では、一度も感じたことのないものだった。
「ルシアン様」
「なんだ」
「明日も庭に来てくださいますか?」
「……仕事があれば行かない」
「そうですか。でも、ルシアン様がいらっしゃると、お花たちも元気になる気がするんです」
ルシアンは答えなかった。
けれど翌日も、その翌日も、午後になるとルシアンは庭のベンチに座っていた。
使用人たちの間では、もっぱらこう囁かれていた。
「旦那様が、笑っている——」
正確には笑顔とは言い難い。ほんのわずかに口角が上がっている程度だ。
だが十年来の使用人たちにとって、それは天変地異に等しい出来事だった。




