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番外編・小さな騎士(後編)



大きな氷竜を目の当たりにし、すっかり機嫌を直したフィニアンは、最後まで名残惜しそうに窓の外を見つめていた。


夜の闇の中、月明かりを受けて淡く輝く巨体は、静かにそこに在り続けている。


小さな彼にとっては、絵本の中の存在がそのまま現れたようなものだったのだろう。


やがてナユに手を引かれると、何度も振り返りながらも、小さく手を振った。



「竜、またね!」


窓の外の氷竜は応えることなく佇んだままだったが、その存在は確かに、幼い騎士の中に深く刻まれていた。



「ほら、フィニ。もう行くわよ」

ナユが優しく促す。


「うん!」


先ほどまで泣いていたとは思えないほど素直な返事に、ヒストリアは思わずくすりと笑った。


そのまま出口へ向かいかけたナユが、ふと足を止める。


振り返り、深く頭を下げた。


「本当に、遅い時間まで申し訳ありませんでした」


控えめな声には、この場に長く留まってしまったことへの遠慮と緊張が滲んでいる。


ヒストリアはすぐに首を横に振った。


「そんなことありません。こちらこそ、楽しかったです」


少し身を乗り出すようにして、言葉を続ける。


「もしよろしければ、またいらしてください。ナユ様もご一緒に」


その声音には、ヒストリアの“また会いたい”という気持ちが滲んでいた。


しかし、ナユは一瞬戸惑ったように視線を落とす。


「ですが…、私は元々平民で、このような場所に来られる身分では…」


遠慮がちに紡がれた言葉。


ヒストリアはわずかに目を丸くしたあと、やわらかく笑った。


「何をおっしゃるのですか」

穏やかだが、はっきりとした声だった。


「カイン様の奥様でしたら、いつでも大歓迎です」

そして、少しだけいたずらっぽく続ける。


「それに、私も元々は平民ですから」


ナユがはっと顔を上げる。

もしかして、妃殿下に失礼なことを言ってしまったのではないか。


そう思ったが、ヒストリアは変わらず、温かな笑みを向けていた。


その表情に、ナユの緊張がふっとほどけていく。


「…妃殿下は、お優しいのですね」


「そんなことありません」


ヒストリアは小さく首を振る。


「よろしければ、ヒストリアとお呼びください」


一瞬の戸惑いのあと、ナユは静かに頷いた。


「…はい。ヒストリア様」


そして、今度ははっきりと微笑む。


その笑顔は、先ほどよりもずっと自然だった。


帰ろうとした、その時、フィニアンがふと立ち止まる。


その手には、いくつかの小さな包みが握られていた。


どうやら侍女からもらった飴らしい。


「これね、おみやげ!」

嬉しそうに掲げる。


「友達にもあげる!」


そう言って窓の方を見たかと思えば、次の瞬間、するりとナユの手を離した。


「…待って、フィニ。竜さんはそれ食べな―――…」


ナユが制止しようとするが、フィニアンはなぜかまっすぐヒストリアのもとへ歩いていく。


「……?」


ヒストリアは少し驚きながら、その様子を見守った。


フィニアンは目の前まで来ると、不思議そうにじっと彼女を見上げる。


そして、小さな手を差し出した。


「はい、ひとつあげる」


「私に?」

思わず瞬きをする。


けれど、差し出された飴を受け取り、ふっと頬を緩めた。


「ありがとう」


ヒストリアが笑顔でお礼を言うと、すかさず横から低い声が落ちる。


「…さっきは姫だと言い、今度は友達か?」


セオドールだ。


どこか呆れたような響きに、フィニアンはぱっと振り返る。


「違うよ!」


そして、くるりとヒストリアへ向き直ると、小さな手を握り、人差し指を彼女の腹へと向けた。


「ここに、僕の友達がいる」


一瞬、その場にいた全員の空気が止まる。


「…え?」


ヒストリアは思わず、自分の腹に視線を落とした。


何も変わらないはずのそこに、全員の視線が集まる。


けれどフィニアンは、疑いもなく笑っていた。


「早く、一緒に遊ぼうね」


まるで、本当にそこに誰かがいるかのように。


ナユが少し驚いたように声をかける。


「フィニ…?」


「バイバイ!」


何事もなかったかのようにナユの手を引っぱって、今度こそ部屋を後にした。


部屋の中には静寂だけが残る。


「…今のは、どういう意味だ?」


セオドールが低く呟く。


カインが肩をすくめた。


「さあ…、どういうことでしょうね」


二人は顔を見合わせる。



ヒストリアは、その場に立ち尽くしていた。


そっと、自分の腹に手を当てる。


何も感じないはずなのに、なぜかほんのりと、温かい気がした。


その様子を見たセオドールの表情が、何かを察したかのようにわずかに変わる。


「…医者を呼ぼう」


「セオドール様?」


「フィニは幼いが、魔力を持っている」


その視線が、ヒストリアの腹へと落ちる。



「…何か、見えている可能性がある」

その言葉で空気が一変した。


カインの表情が引き締まる。


「すぐに手配します」


そう言い残し、足早に部屋を出ていった。




*******

それから数時間後、静まり返った寝室では、ヒストリアが寝台の上に座り、両手でそっと腹を包み込んでいた。


胸の奥が落ち着かない。


期待と、不安と、そして説明のつかない温かさ。


それらが静かに混ざり合っている。


ふと、部屋の扉が叩かれる。


「…どうぞ」


そう声をかけると扉が開き、セオドールが入ってきた。


医者がゆっくりと立ち上がり、セオドールに向かってにこやかに一礼する。


「殿下」

静かな声が、部屋に響いた。


「おめでとうございます」


そして、一拍の間を置いて告げられる。


「ご懐妊です」


その言葉で、世界が静かに満ちた。


ヒストリアの手が、無意識に腹へと触れる。


それはまるで、小さな命を確かめるようだった。


ゆっくりと顔を上げると、視線の先には、セオドールがいる。


彼もまた、言葉を失ったまま、ただ彼女を見つめていた。



やがて医者が退室し、扉が閉まると、寝室には二人きりの静寂が落ちた。


ヒストリアはまだ寝台に座ったまま、そっと腹に手を当てている。


その指先が、わずかに震えていた。



セオドールがゆっくりと歩み寄る。


寝台の端に腰を下ろし、静かに手を伸ばした。



ヒストリアの手に、自分の手を重ねる。


そのまま、二人の手ごと彼女の腹へ。



「…ここに、」

低く、かすかな声。


「俺たちの子供が…いるのか」


ヒストリアは、胸いっぱいに息を吸い込む。


そして、小さく頷いた。


「…はい」

その声には、確かな喜びが滲んでいる。


セオドールの指が、わずかに力を込めた。


次の瞬間、ぐっと引き寄せられ、ヒストリアの身体が彼の腕の中に収まった。


強く、けれどどこまでも優しい抱擁は、壊れ物を扱うようにどこか慎重に見える。


「…無理はするな」

低く、はっきりとした声が落ちる。


「お前も、その子も、俺が必ず守る」


ヒストリアの胸が、ぎゅっと締めつけられた。


その言葉の意味が、ゆっくりと沁みていく。


守られている。

大切にされている。

愛されている。


そのすべてが、たった一言に込められていた。


自然と腕が動き、セオドールの背に回すと、そっと抱き締め返す。


「…はい」

小さな返事。

けれど、それだけで十分だった。


二人はしばらくの間、言葉を交わさなかった。

ただ静かに、互いの温もりを確かめ合う。


窓の外では、白狼が変わらず大公城の夜を見守っている。


まるで、新しく芽生えた命を、祝福するかのように遠吠えを上げた。


ヒストリアはそっと目を閉じる。


腕の中の温もりと、自分の中に宿った小さな命。


そのどちらもが、愛おしくてたまらない。



やがてセオドールの手が、もう一度腹へと触れる。


その優しい仕草に、ヒストリアは静かに微笑んだ。


その温もりは、確かに未来へと繋がっている。





=番外編・小さな騎士(完)=

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