番外編・小さな騎士(前編)
ノルディア城の訓練場には、朝の澄んだ空気が満ちていた。
まだ陽は高くないが、兵士たちはすでに剣を交え、鋼のぶつかる乾いた音が広い石床に響いている。
ヒストリアはその様子を少し離れた場所から眺めていた。
白い息を吐きながら剣を振るう兵士たちの姿は、どこか懐かしい。
国は違うが、かつて自分も騎士として同じように剣を握り、訓練場に立っていたのだと思うと、胸の奥がほんのりと温かくなった。
その時だった。
「わぁ…!」
小さな声が聞こえ、ヒストリアは振り向いた。
そこには、カインに手を引かれた小さな少年が立っている。
「フィニ」
ヒストリアが微笑むと、フィニアンはぱっと顔を輝かせた。
「おねえちゃん!」
まだ少したどたどしい声でそう呼びながら、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
もうすぐ三歳になるフィニアンは、相変わらず好奇心のかたまりのような子供だった。
父親譲りの灰白色の髪を揺らしながら、訓練場をきょろきょろと見回している。
その小さな手には、一冊の絵本が握られていた。
表紙には、大きな竜の絵が描かれている。
「すごいねぇ…!」
フィニアンの視線の先では、兵士たちが真剣な顔で剣を交えていた。
剣と剣が打ち合わされるたび、甲高い金属音が響く。
フィニアンはその音に目を丸くし、まるで宝物でも見つけたかのような顔をした。
「きらきらしてる!」
ヒストリアは思わず笑みをこぼす。
「剣の練習をしているのよ」
そう言うと、フィニアンは少し考え込むように首を傾げた。
それから、ぱっと顔を上げる。
「僕もやる!」
「え?」
ヒストリアが瞬きをすると、フィニアンは真剣な顔で言い直した。
「僕『ちいさな騎士』になるんだ!」
近くで休憩していた兵士たちから、くすくすと笑いが漏れる。
「…騎士?」
ヒストリアが驚いていると、カインが苦笑しながら言った。
「…その絵本の影響です」
フィニアンが握っている本を指で示す。
「『ちいさな騎士とおおきな竜』という本でして。小さな騎士が竜と友達になって姫を守る話なんです」
少し困ったように肩をすくめる。
「それ以来、自分も騎士になると言って聞かなくて」
フィニアンはそんな父の説明など気にする様子もなく、兵士たちの剣に夢中だった。
「騎士になる!」
そう言って胸を張る。
「お、将来有望っすね」
声をかけてきたのはノエルだった。
彼は壁際に立てかけてあった訓練用の木剣の中から、小さめの短剣を一本を選ぶと、しゃがんでフィニアンに差し出した。
「これなら持てるかな?」
フィニアンは目を輝かせて受け取る。
しかし、
「…おもい」
小さな手で持ち上げた瞬間、ふらふらと体が揺れた。
兵士たちがまた笑う。
ヒストリアはしゃがみ、フィニアンの手をそっと支えた。
「剣はこうやって持つのよ」
足の位置を整え、剣を両手で持たせる。
「ここに力を入れて…」
フィニアンは真剣な顔で頷いた。
「うん!」
そして―――、
「やー!」
思いきり剣を振る。
もちろん空振りだった。
勢い余ってくるりと回り、ぺたんと尻もちをつく。
訓練場に笑いが広がった。
「大丈夫?」
ヒストリアが手を差し出すと、フィニアンはすぐに立ち上がる。
「もっとやる!」
兵士たちが興味津々で見守る中、フィニアンは何度も剣を振った。
しかしその剣は空気を切るばかりで、時々自分の足に当たりそうになっている。
ノエルが腕を組みながら笑う。
「将来は決まりっすね」
「まだ二歳だぞ」
カインが呆れたように言った。
その時だった。
訓練場の空気が、ふっと変わる。
兵士たちが一斉に姿勢を正した。
「殿下」
ヒストリアが振り向くと、入り口にセオドールが立っていた。
銀色の髪が朝の光を受けて淡く輝いている。
深い青の瞳が、訓練場を静かに見渡した。
そして、その視線が小さな影に止まる。
フィニアンだった。
彼もまた、じっとセオドールを見上げている。
やがてフィニアンが口を開いた。
「…おじちゃん!」
兵士たちの肩がぴくりと動く。
セオドールはわずかに眉を寄せた。
「殿下だ」
訂正する。
だがフィニアンは気にしていない。
「おじちゃん!」
ヒストリアは笑いをこらえるのに必死だった。
その時、フィニが突然胸を張って言った。
「僕、騎士になった!」
そして小さな指でヒストリアを指さす。
「お姫さま、まもるの!」
訓練場の空気が一瞬止まった。
ヒストリアがきょとんとする。
フィニアンは得意げだった。
「おねえちゃん、お姫さま!」
絵本の影響なのだろう。
セオドールはその言葉を聞き、ゆっくりとヒストリアを見る。
そして静かに言った。
「…それは俺の姫だ」
兵士たちの間にざわめきが走った。
ヒストリアは顔を赤くする。
「セ…セオドール様…!」
しかしフィニアンは納得していない様子で首を傾げる。
「……?」
少し考えてから言った。
「じゃあ、一緒に守る!」
その無邪気な一言に、周囲から笑いが漏れた。
セオドールは一瞬だけ沈黙したあと、ふっと小さく息を吐いた。
それからフィニアンの頭に手を置く。
「そうか」
低い声で言う。
「なら強くならないとな」
フィニアンは大きく頷いた。
「うん!」
そして元気よく宣言する。
「僕、おじちゃんより強くなる!」
訓練場が静まり返る。
カインがぽつりと呟いた。
「…大物だな」
セオドールは数秒沈黙したあと、わずかに口元を緩めた。
「楽しみにしている」
そしてヒストリアをちらりと見てから、ぼそりと言う。
「…どうやら、姫を守るための騎士団を作る必要があるようだな」
兵士たちの間から、くすりと笑いが漏れる。
ヒストリアはその光景を見つめながら、そっと微笑んだ。




