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第1話 社畜、戦国に立つ

 ――これは夢だ。いや、夢に決まってる。


 耳鳴りの残響と共に、焦げ臭い匂いが鼻を突いた。

 泥濘を踏みしめる足音、甲冑がぶつかる金属音、遠くで馬がいななき、誰かが絶叫していた。

 目の前では火花が飛び散り、武士たちが死に物狂いで斬り結んでいる。


 「なんなんだよこれ……戦国ファンタジーってレベルじゃねぇぞ……」


 頭が回らない。手に握った槍はずっしりと重く、筋肉が悲鳴を上げていた。

 心臓の鼓動がうるさい。膝が笑ってる。立っているのがやっとだった。


 この空気の密度、皮膚にまとわりつく血の匂い。

 デスクの下でこっそりスマホゲームをしてた昼間とは、別世界だ。

 むしろ、「未読100件」のメール通知が恋しい――そう思ってしまうほどの、現実味。


 「若――しっかりなさいませッ!!」


 怒号と共に、何かが飛んできた――


 ――バチンッ!


 頬に走った衝撃は、ただの痛み以上の意味を持っていた。

 混乱が一瞬、霧が晴れたように脳を貫いた。


 「いってぇ!? なにすんだ、じじ……っ」


 叫びかけたその瞬間、喉からこぼれた言葉は、自分のものじゃなかった。


 「……なにをする、爺……!」


 ――あれ? 俺、今なんて?


 “爺”――その呼び名に、思わず自分で戸惑う。そんなふうに誰かを呼んだことなど、これまでの人生で一度もなかったはずなのに。


 (まさか……)


 年老いたその体には、無数の古傷が刻まれていた。叩き直された甲冑、斬撃で裂かれた着物。風雨に晒された肌、整った白髭。そして――その目。


 鋼を溶かしたように鋭く、深く、重い眼差し。視線だけで胸を貫かれるような、威圧と覚悟のこもった眼。


 (この人は、ただの老人じゃない……)


 俺の中で、なにかが軋んだ。


 ――風に揺れる竹。幼い自分の荒い息づかい。

 必死で木刀を振っている。その後ろに、黙って見守るひとつの影。


 「夜叉丸様、振り下ろす際に脇が甘うございます。力ではなく、腰の捻りを意識なさいませ」


 背後から届く声は、穏やかでありながら刃のように鋭い。叱咤ではない。静かに見守るまなざしが、倒れ込んだ幼い自分の背中を押していた。


 やがて俺は力尽き、土の上にしゃがみ込み、肩で息をしていた。


 「よろしい、今日はここまで。倒れても、また立ち上がればよいのです。戦も、鍛錬も、それを続ける者だけが生き残りまする」


 ――なぜそんな記憶があるのか、自分でも分からない。

 だが確かに、胸の奥に刻まれている。まるで、俺の中にもうひとりの「俺」がいるかのように。


 (ああ……知ってる。知ってるぞ……)


 ゲームで作った“設定”のはずだった。けれど、目の前の老武者には、作り物じゃ済まない重みがある。


 ――犬飼 兵衛 重信、霧村家に仕えし忠臣。「霧の番犬」と恐れられた男。若き主君を守り、鍛え、導くことを己の誓いとした老武者。


 この人は、生きている。戦っている。


 「正気に戻られましたか、若!」


 その声が、胸に響いた。


 「戦場にて茫然(ぼうぜん)とされては、敵に命をくれてやるようなもの! ここにて斃れれば、仇も討てぬ、家も戻らぬ!」


 厳しい。だが、底知れぬ優しさがある。誰に命じられたわけでもない。ただ、自分の信念で、俺を守っている。


 (この人は、俺を“正虎”として見ている……)


 「さあ、今からでも遅くはありませぬぞ。敵を蹴散らし、この場を抜けましょうぞ!」


 肩に置かれた手が、重かった。老いを感じさせないその手は、まぎれもなく戦場を生き抜いてきた者のそれだった。


 (……ついていくしか、ない)


 夢かもしれない。バグか、精神崩壊の前兆かもしれない。

 でも、兵衛の背中には――俺が“設定”した以上の“歴史”がある。


 信じてみたい。そう思えた。


 「……ああ。わかった、爺……いや、兵衛」


 その言葉に、兵衛がわずかに口元を緩めた。


 かつて、少年“夜叉丸”が初めて試合に勝ったときに見せた、誇らしげな笑みと――まったく同じだった。




 「……此度の戦、勝ち目は薄うございます」


 兵衛の低い声が、風にかき消されそうになった。耳鳴りはまだ残っている。それでも、その言葉だけは妙にくっきりと胸に突き刺さった。


 「なっ……それ、どういう――」


 「敵の数、味方の士気、兵糧の残り……どれを取っても分が悪い。あくまで傭兵として、この場に居合わせたのは僥倖(ぎょうこう)にございましょう。さあ、若。今は退くのが最善です」


 ――傭兵。そう、今の俺は“霧村正虎”ではなく、名もなき傭兵としてこの戦に身を投じている。身分を隠し、ただの一兵として戦場の空気を肌で知れ、と兵衛が勧めたのだ。

 ……そんな記憶が、確かに俺の中にある。


 「……でも、こんな包囲網の中、どうやって逃げるってんだよ……」


 「戦場の外れに、獣の通り道がございます。そこから抜けられましょう。ただし――」


 兵衛の目がわずかに鋭さを増した。


 「敵の目を欺き、なおかつ突破するには……少しばかり、無茶をしていただきまする」


 「……は?」


 指差された先、視線の奥。敵兵の数がまばらな小高い丘の陰――あそこを突破口にするつもりらしい。


 「おいおいおい……マジで言ってんのか、爺……!」


 足がすくんだ。手に握る槍が、急に鉄塊のように重く感じる。だが、逃げ道は他にない。時間もない。


 「……くそっ、やってやるよ!」


 覚悟を決め、槍を構えた。喉が渇き、膝が笑いそうになる。だが――その瞬間だった。


 まるで、世界の“解像度”が上がったかのように、視界が研ぎ澄まされた。空気の粒が見える気がした。湿った土の匂いと、甲冑の金具がわずかに触れ合う澄んだ金属音――そのひとつひとつが耳の奥で反響する。時間が伸びる。敵兵の足が地面を蹴るたび、土の破片が宙に舞い、ゆっくりと回転しながら落ちていく。三人の兵がこちらを捉え、甲冑の継ぎ目から汗が流れ落ちる様子まで見えた。その目――殺意だけでなく、熱、恐怖、覚悟が入り混じった、生の感情がぎらりと光っている。すべてが異様に鮮明だった。


 (来る……!)


 気づけば、身体が先に動いていた。


 足運び、間合い、槍の軌道――それらが、自分の意志ではなく、別の法則に従っているような動きだった。まるで、体の奥に染みついた経験が勝手に指示を出しているような感覚。


 (これが……スキル!)


 最初に選んだスキル。それが今、まるで訓練済みの兵士のように、俺の身体を動かしている。


 「はああッ!!」


 敵兵の槍が振るわれる。咄嗟に柄を横にして受け止め、力を流す。踏み替えた足で懐に入り、槍の石突きを脇腹へ――


 だが、浅い。敵は呻いただけで倒れない。


 (くそっ、効いてねぇ……!)


 反撃の刃が迫る。間一髪で避けたが、風圧が頬を裂いた。血の匂いが鼻を突き、心臓が跳ねる。


 「っらあああッ!!」


 叫ぶように踏み込む。だがその声に混じって、別の言葉が勝手に溢れた。


 「……霧霞流(むかりゅう)――《霧突き》!」


 腰を沈め、槍の穂先を低く構える。そこから霧が舞い上がるように、一気に跳ね上げる。穂先は相手の視線を揺らすようにわずかに揺れ、鎖骨の下――甲冑の隙間を狙った。


 手応えは――あった。


 槍が肉を裂き、敵兵が目を見開いた。


 「っが……! おっかあ、すまねぇ」


 その言葉とともに、彼の体は崩れ落ちた。


 ……静寂。


 倒れた音は、想像よりも静かだった。鎧が土を打ち、刃先に絡んだ血が滴る音さえも、世界の音を奪っていた。


 「……やった、のか……俺が……」


 肺がきしむ。呼吸が苦しい。手が震える。敵の体温が、まだ指に残っているような錯覚すらあった。


 (人を……殺した?)


 今さら、ようやく理解した。俺の手で、命を奪った。その男も、また“生きていた”人間だったのだ。


 「嘘だろ……」


 足元の死体から、視線を逸らせなかった。陣笠(じんがさ)に隠された顔。それでも、胸の奥が重く沈む。


 この男にも家族がいたかもしれない。仲間が、帰る場所が――


 「……っ!」


 吐き気がこみ上げる。喉が締まり、視界が白む。


 (こんなはずじゃなかった……俺は、ただ……!)


 そのとき――


 「死ねェッ!!」


 視界の端に、殺気が閃いた。


 しまった――!


 硬直した体は動かない。声も出ない。刃が振り下ろされ――間に合わない。


 「下がりなされ、若ッ!!」


 声とともに、風が裂けた。


 ギィン――!


 火花が散る。金属がぶつかり合う音。そして――視線の先には、兵衛の姿があった。


 大太刀を片手に、斬撃を受け、捌き、反撃へと転じる。その動きは、まるで獣。敵兵は成す術もなく、腹を裂かれ崩れた。


 「兵衛……っ!」


 ようやく声が出た。膝が笑っていた。今の一撃――確かに、俺を殺すためのものだった。


 「ご無事で何より。だが、油断は命取りですぞ、若」


 兵衛は肩で息をしつつも、鋭い目で俺を睨んだ。だがそこにあるのは怒りではない。焦りと、そして深い安堵だった。


 「初めての討ち果たしでございましょう。戸惑うなとは申しませぬ。だが、その戸惑いに呑まれて命を落とすのは、死者に報いることにはなりませぬぞ」


 その言葉が、胸に突き刺さった。


 「……すまない……俺、まだ……」


 声が震えていた。情けない。それでも――兵衛は黙って俺の肩に手を置いた。


 その手の温もりが、何よりも重く、確かだった。


 「さあ、今のうちです。動けますな?」


 「……ああ」


 槍を握り直す。手の震えは、まだ止まらなかった。


 その時、唐突に視界の端で淡い光が瞬いた。

 【槍術スキルの熟練度が上昇しました】


 「は……え? スキル?」


 兵衛が振り返りもせずに言う。

 「何を呆けているのです。行きますぞ」


 (……いや、後で考えろ。今は――)

 一旦疑問を脇に押し込み、兵衛の背を追った。




 ……走っている。


 槍を手に、兵衛の背中を追いながら、ただ、足を前に運び続けていた。


 けれど、その足音の裏で、胸の奥には重く沈殿するものが渦を巻いていた。


 (俺は……人を殺した)


 頭では理解している。ここは戦場だ。敵を倒さなければ、今度は自分が死ぬ。わかっていた。覚悟もした――はずだった。


 それでも、あの瞬間の感覚が、脳裏にこびりついて離れなかった。


 (刺したときの手応え……血の温度……)


 それは、あまりにも“本物”だった。ゲームでは再現できない生の感触。倒した相手の名も顔も知らない。だが、確かにそこに“生きていた”人間がいた。息をして、血を流し、死んでいった。


 それを――俺が、奪った。


 (いや、でも……これはゲームなんじゃないのか?)


 思考が揺らぐ。


 俺は“戦刻異聞録”というゲームにログインしていた。キャラを作り、スキルを選び、盛りに盛った出自設定を打ち込んで……そして画面が光って――気づけば、ここにいた。


 だったら、これはゲームの中?


 もしそうなら、さっき倒したのは――NPCか?


 (……違う。違うだろ、あれは)


 あのとき、敵兵の目が俺を捉えていた。


 死の間際、その視線は俺を睨んでいた。怒り、悔しさ、恐怖……無言のまま、それでも確かに“感情”があった。人間の目だった。


 (ゲームじゃ、あんな目はできない)


 じゃあ、ここは現実?


 でも、スキルは? 訓練もしてないのに、どうして槍を扱える? あの戦い、俺の意志はどこか置いてけぼりで――体が勝手に動いていた。


 (俺は……どこにいるんだ)


 足がふと止まりかけた、その瞬間。


 「若、もう少しですぞ。気を緩めてはなりませぬ」


 兵衛の声が、後ろから追い風のように響いた。


 「あ……ああ、わかってる」


 思わず返事をしていた。握りしめた槍に、再び力がこもる。


 (わかってなんか、いない。何も、わかってないのに……)


 それでも、止まるわけにはいかなかった。


 ゲームか現実か。人かNPCか。正当か罪か――そんな境界線は、もう曖昧だった。


 今、この世界で、俺が守るべきルールはただひとつ。


 ――生き延びること。

 (あのデスクでの消耗戦とは違う……だが、結末は一つだ。立ち上がった者だけが、生き残る)

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