第15話 社畜、陰陽術の修業をする
茶屋を出ると、午後の陽射しはすでに傾き始めていた。美弦は店の暖簾を押し上げ、外気を一度吸い込むと、くるりとこちらへ振り返った。
「じゃあ、さっそく始めましょうか」
「……今から?」
思わず問い返すと、美弦は片口を上げた。
「基礎は、早いうちに叩き込む方がいい。頭で覚える前に、体に入れるの」
そう言って、彼女は軽やかな足取りで歩き出す。俺と兵衛は顔を見合わせたが、結局はついていくしかない。玉藻は肩の上で二本の尾を揺らし、「何だか面倒なことになってきたな」という顔をしていた。
「どこへ行くんだ?」
「河原。人気がないから、符の練習にもってこい」
美弦は短く答え、迷いのない足取りで路地を抜けていく。
道すがら、彼女は「陰陽術の基礎は三つ」と前置きした。
「呼吸、姿勢、意識の流れ。この三つが狂えば、どんな高位術でもただの無駄撃ちになる」
その声音は、先ほど茶屋で話していた時よりも硬く、張りがあった。
やがて、町外れの河原に出た。昼間でも人影はまばらで、遠くで釣り人が竿を垂らしている以外は、風の音と川のせせらぎだけが耳に残る。美弦は足元の平らな石を見つけ、そこに腰を下ろした。
「さて――初日は符術からいくわ」
そう言って腰の符袋を開き、筆と墨、小さな板机を取り出す。
「まずは“写符”。護符は一枚一枚、自分の手で書くものよ。形が崩れれば効力も半減する」
美弦は筆に墨を含ませ、迷いのない筆致で一気に護符を書き上げた。墨の黒が紙に吸い込まれ、わずかに香り立つ。
「――はい、一枚」
差し出されたそれは、俺が昨日使ったものとよく似ているが、線の力強さがまるで違う。
「じゃあ、あんたもやってみなさい」
板机と紙、筆が目の前に置かれる。
墨をすくい、筆を構える。……が、書き出した瞬間から、線はふらつき、墨は滲み、形は崩れた。美弦の書いたものと比べると、俺の護符は頼りない落書きのようだった。
「……うん、これはただの紙くずね」
容赦ない一言が飛んできて、思わず眉をひそめる。
「そんなに即断しなくてもいいだろ」
「現実を知るのも修行のうちよ」
美弦は俺の手元に視線を落とし、筆の握りをぐっと押さえた。
「ほら、握りすぎ。筆は剣じゃないんだから、そんなに力を込めなくてもいいの」
手の甲に彼女の指先が触れ、熱がじわりと伝わってくる。
「それと、息。書き始める前に一度吐いて、肩の力を抜く」
言われた通りに深く息を吐き、肩を下ろす。川風が頬を撫で、墨の香りがすっと鼻を抜けていった。
「いい? 符はね、形だけ真似ても駄目。息と筆の運び、それに自分の気を、線の中に流し込むの」
そう言って、美弦は俺の筆を軽く持ち上げ、手の甲を添える。彼女の細い指が導くまま、ゆっくりと線を描くと、不思議と墨の滲みが減っていった。
……と、肩の上で玉藻が小さく「きゅぅ」と鳴く。「何よ、その顔」美弦が片眉を上げて玉藻を見る。玉藻はまるで「距離が近すぎる」と言いたげに、尻尾をぶん、と一度だけ振った。
筆先が紙を滑り、最後の一画を引き終えた。……さっきまでの崩れた線とは違う。形はまだ粗いが、どこか輪郭が締まり、墨の色もわずかに深くなっている。
「お、ちょっとはマシになったじゃない」
美弦が覗き込み、口元をわずかに緩めた。
「さっきよりは、ね」
「……評価が低いな」
「初日で完璧になったら、私の立つ瀬がないでしょ」
彼女はその護符を指でつまみ、軽く揺らす。すると墨線の一部がふっと淡く光った――ほんの一瞬だけ。
「おっ……?」
俺が息を呑むと、美弦は顎に指を当て、何かを考えるように目を細めた。
「ふむ……これは、あんたの力だけじゃないわね」
視線が、すっと俺の肩に移る。玉藻が「きゅ?」と首を傾げ、尻尾を二本ゆらゆらと揺らしていた。
「やっぱり、この子が手伝ってる」
「え?」
「護符に流れた気が、あんたのものと違ってた。柔らかくて、でも芯がある……まるで獣の呼吸みたいな」
玉藻はそっぽを向き、尻尾で自分の鼻先を隠す。俺は苦笑しながら、その毛並みを軽く撫でた。
「……まあ、助かったのは確かだ」
「うん。けど、それに甘えてばかりじゃ駄目よ。あくまで自分の力で符を起こせるようにならないと」
美弦はそう言いながら、新しい紙を俺の前に置く。
「じゃあ――もう十枚。気が続く限り書いてみなさい」
「十枚!?」
「修行ってのはそういうものでしょ」
外では日が傾き、影が長く伸びていく。墨と紙の匂いの中、俺は再び筆を握った。初めての弟子入り訓練は、まだ始まったばかりだった。
筆を動かす俺の横で、美弦が軽く腕を組み、じっと覗き込んでいる。玉藻は河原の石の上にちょこんと座り、尻尾を風に揺らしながら監督役のように俺の手元を見つめていた。
その様子を少し離れた場所から見ていた兵衛が、ふっと笑う。
「いやはや……もうすっかり仲良しでございますな、若」
「……どこがだ」俺は筆を止めずに答える。
「おや、師匠殿と弟子殿、それに子狐殿まで。まるで長年連れ添った三人組のように見えますが」
「誰がそんな……!」美弦がわずかに頬を染め、視線を逸らす。
玉藻は「きゅぅ」と鳴き、しれっと尻尾を俺の腕に絡めてきた。
「……ほら、動かさないでくれ。線が曲がる」
「ふふ、仲良し仲良し」兵衛はわざとらしく頷き、川のせせらぎに耳を傾けた。
そんな茶化しを背中に浴びながら、俺はまた一筆、墨を走らせた。
何度目かの挑戦で、ようやく形になった護符を手に取る。墨の線はまだ揺らいでいるが、最初よりは格段に整っていた。
「……まあ、ギリ合格ってとこね」
美弦はそう言って、俺の描いた護符をひらひらと振る。
「符ってのは形も大事だけど、一番は“気の通り”よ。見た目がきれいでも、力が流れなきゃただの紙切れ」
彼女は自分の符を取り出し、軽く指でなぞった。瞬間、墨の線が淡く輝き、護符全体がふわりと温もりを帯びる。
「こうやって、力を宿す。――ほら、やってみなさい」
俺は深呼吸し、符を両手で支える。意識を沈め、指先から気を流し込む。……が、川の音や玉藻の尻尾の感触がやけに気になって集中できない。
「おい玉藻、邪魔すんな……」
「きゅ?」と首をかしげる玉藻を横目で見つつ、再び意識を符に集中させる。
じわり――と指先に熱が宿り、それが墨の線に染み込む感覚。やがて護符が淡い蒼色に光り、微かな脈動を返してきた。
「おっ……!」思わず声を上げる俺に、美弦が小さくうなずく。
「初めてにしては悪くないわ。これなら護りくらいには使える」
その時、兵衛がまたもやニヤつきながら口を開く。
「いやはや、師弟の息も早くもぴたりと合っておられる。仲睦まじくて、見ているこちらが温まりますな」
「……もう黙ってろ」俺は呆れたように吐き捨てたが、兵衛の笑みは消えなかった。
川面を渡る風が、少し冷たく感じられる夕暮れ時。今日の訓練は、これで終わりになりそうだった。
美弦は護符を俺の手から取り上げ、光が消えるのを確かめてから腰の符袋に仕舞った。
「――よし。今日はここまでにしとくわ。これ以上やると頭が煮えるだけだから」
そう言いながらも、彼女の表情は少しだけ満足げだった。俺は膝の上で手を軽く開閉し、指先に残るかすかな熱を確かめる。何とも言えない感覚だ。力が流れた証を、はっきりと体で覚えている。
【陰陽術スキルの熟練度が上昇しました】
【筆術スキルの熟練度が上昇しました】
「明日は、もう少し難しい符をやってみましょう」
美弦は夕陽を背に立ち上がり、袴の裾についた砂を軽く払った。
「時間は昼過ぎ。……またここ、河原に来なさい」
「昼過ぎか」
「符は朝一でやると手がこわばるし、昼飯後くらいがちょうどいいの」
さらりと言いながら、矢筒の位置を直す。
兵衛が腕を組み、わざとらしいほど大きくうなずく。
「ほう、若は明日も“師匠”との逢瀬でございますか。いやはや、青春ですなあ」
「お前ほんと黙れ」
玉藻が「きゅぅ」と小さく鳴き、俺と兵衛を交互に見た。
まるで「私は置いてかれないよね?」と言っているようだった。
「玉藻も来ていいわよ。その子の力、もっとちゃんと見ておきたいし」
美弦はそう言って、軽く手を振る。
「じゃあ、口預所に報酬をもらいに行きましょ」
訓練終わり、その日の依頼は、口預所に報告してすべて終了となった。薄曇りの夕暮れ、俺と兵衛は役所の帳場で受領印を押され、木箱の中から包みを渡される。
「討伐の報酬、銀子三分。それと……こちらは食糧券」
帳付けの役人が小さな木札と、藍色の紙束を差し出した。
「食糧券?」と俺が首を傾げると、美弦が先に手を伸ばす。
「この辺の宿や茶屋、それから乾物屋で使える引き換え札よ。干し飯、味噌玉、魚の干物なんかと替えてくれるの」
「金で買えばいいんじゃないのか?」
「それだと、呑み代に全部消える奴が多いから、こういうのがあるの」美弦は肩をすくめた。
藍色の紙は手のひらに軽く、ところどころに水紋の透かしが入っている。兵衛がひょいと覗き込み、にやりとした。
「ほう、若。これで三日は腹を空かさずに済みますな」
「そんなに食う予定ないけどな」
ここで、ふと胸の奥に会社員時代の感覚がよみがえる。……これって、残業終わったあとに「お疲れさま、これ飲食チケット」って言われるやつだ。うれしいけど、その場で渡される時点で次の仕事の予告に聞こえるんだよな……。
役所を出ると、美弦とは宿の方向が違った。
「じゃ、また明日。昼過ぎ、河原ね」
軽く手を振る彼女に、俺も短く頷く。
「……はいはい、“師匠”」
その一言に、美弦は口元だけで笑って、人波の向こうへ消えていった。
俺と兵衛は商家の並ぶ通りを抜け、宿の暖簾をくぐった。帳場には、小柄で品のある年配の女将が座っている。
「おかえりなさいませ。まあまあ、お疲れでございましょう」
食糧券を見せると、女将は丁寧に手を合わせた。
「討伐帰りでいらっしゃいますか。ご苦労様でございます。今宵は干し飯と味噌玉、それに焼いた魚の干物をお付けいたしますね」
その声音はやわらかく、まるで味噌汁の湯気のように体をほぐす温もりがあった。
「ありがたいですな……」と兵衛が笑うと、奥から香ばしい味噌の香りが漂ってきた。
その瞬間、肩の上で玉藻の耳がぴくりと動く。
「きゅっ」
尻尾を二本、勢いよく揺らしながら、女将の足元へちょこんと降り立つ。
「まあまあ、かわいらしい……」女将がしゃがみ込み、そっと魚の干物を差し出す。玉藻はぱくりとそれを咥え、尻尾をふわふわと揺らしたまま、まるで戦利品を自慢するように俺の足元へ戻ってきた。
「……完全に餌付けされたな」
「ふふ、明日も頑張れそうじゃありませんか、若」兵衛が肩をすくめる。
湯気の立つ味噌汁と干し飯と焼き魚の干物の夕餉。その香りに包まれながら、俺は指先に残る護符の感触をもう一度思い出した。――明日は、もう少し上手くやってやる。
夜。宿の狭い一間、行灯の明かりだけが畳を照らしていた。兵衛はすでに隣室へ引き上げ、部屋には俺と玉藻だけ。
膝の上には昼間使った筆と墨、そして数枚の紙。
「……ちょっとだけ、復習」
誰に言い訳するでもなくつぶやき、筆先を墨に浸す。
会社員時代も、研修のあとに自主勉してたっけ……。あの頃は残業代も出なかったけど、今はスキル熟練度がちゃんと上がるだけマシだな。
玉藻が向かいにちょこんと座り、じっとこちらを見ている。
「手伝う気あるか?」と声をかけると、「きゅ」と短く鳴き、俺の膝に前足をのせた。
その瞬間、昼間と同じように、筆先から墨の線へと温かい気が流れ出す。
「……やっぱり、これは自分でやる」
そう言って、そっと玉藻の前足を外した。きゅぅ、と短く鳴いた玉藻は、不満そうに尾を二本ぱたぱたと揺らしながらも、少し離れた場所に腰を下ろす。
筆先に集中する。玉藻の助けがないぶん、気の流れは細く、途切れそうになる。呼吸を整え、肩の力を抜く――昼間、美弦に言われた通りに。
墨の線がゆっくりと紙を走り、最後の一画を引き切った瞬間、護符の中央に小さな蒼い光が灯った。それは頼りないけれど、確かに“俺だけの気”が宿った証だった。
胸の奥に、微かな達成感が広がる。
【陰陽術スキルの熟練度が上昇しました】
【筆術スキルの熟練度が上昇しました】
護符をそっと重ねると、玉藻がまた膝に戻ってきて、丸くなった。明日、美弦にこれを見せたら――少しくらいは言葉を詰まらせるかもしれない。
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