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泥濘の海域へ

 ツバキと真夏が護衛の兵士たちを引き連れて去っていくと、王国の門前には、少しずつ人々の往来が戻り始めた。


 大地は、王宮へと戻っていく煌びやかなウミウシの客車を、いつまでも見送っていた。


 やがて、その姿が完全に見えなくなる。


 大地はゆっくりと視線を落とし、真夏に平手打ちされた頬に触れた。


 まだ、じんじんと痺れるような痛みが残っている。


 それを確かめるように、そっと頬を撫でると――。


「……ふっ」


 大地の口元に、自然と笑みが浮かんだ。


 痛い。


 それが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。


 真夏が自分の知らないところで、ずっと苦しみを肩代わりしてくれていた。その事実に胸が締めつけられる一方で、再び自分の身体で痛みを感じられるようになったことが、何よりも嬉しかった。


 そして何より、真夏に再会できたのだ。


 必ず迎えに来てほしい。


 その言葉を胸に刻み、大地はもう一度、遠ざかった客車の行方を見つめた。


「よっしゃ、大地! 少し話を聞かせてもらおうか!」


「うんうん! お姉さんたちに、いろいろ教えてちょうだい!」


「……え?」


 感慨に浸っていた大地の肩を、左右からがっちりと掴む手があった。


 千萩と美萩である。


「ちょ、ちょっと待ってください、二人とも!」


「待たない、待たない!」


「さあ、遠慮せずに話してちょうだい?」


 姉妹は満面の笑みを浮かべたまま、大地をウミウシの牛車の荷台へと連行していく。


「いや、あの、俺たちはこれから討伐に……!」


「だからこそよ!」


「出発まで、まだ時間はあるでしょう?」


「そんな時間の使い方でいいんですか!?」


 大地は必死に抵抗しながら、近くにいた虎太郎へと助けを求める視線を送った。


 頼む、虎太郎!


 その目が、そう訴えていた。


 しかし――。


「大地さん」


 虎太郎はいつものように、どこか芝居がかった仕草で肩をすくめた。


「お嬢を悲しませないでくださいね」


「……はい?」


 あまりにも意味深な一言だった。


 虎太郎はそれ以上何も言わず、にこやかに微笑んでいる。


「いや、虎太郎! 何の話だよ!?」


「さあ、何のことでしょうねぇ」


 虎太郎は涼しい顔で視線を逸らした。


 助けを求めた相手にまで見捨てられ、大地はがっくりとうなだれる。


 その一方で、ルシエルと春陽は二人きりで何やら話し込んでいた。


「いい? ルシエルちゃん。さっきのは、きっと好感度アップのためのイベントだよ」


「こ、好感度アップ……?」


「そう! 真夏さんって呼ばれてた人の好感度は、たぶんカンストしてる! このままじゃ、次のイベントのフラグがすぐに立っちゃうよ!」


「な、なんですって……!」


 ルシエルの表情が険しくなる。


(コラコラ春陽、ルシエルに何を吹き込んでいるんだ)


 大地は姉妹に両脇を固められながら、心の中でツッコミを入れた。


「だからね、ボクたちも頑張らないと!」


「……春陽ちゃん」


 ルシエルは真剣な顔で春陽を見つめた。


「ここは一旦、協力しよう」


「うん!」


 二人はがっちりと手を握り合った。


(こらこらルシエル! これ以上、春陽に感化されるんじゃない!)


 大地の心の叫びもむなしく、二人の間には、何やら固い同盟が結ばれてしまったようだった。


 そんな騒ぎをよそに、ペルカ隊長は大きく息を吸い込んだ。


「よし! 気を取り直して行くぞ! 皆、牛車に乗り込め!」


 その号令に、討伐隊の面々が次々と荷台へ乗り込んでいく。


「出発っ!」


 ペルカの威勢のよい掛け声とともに、ウミウシの牛車がゆっくりと動き始めた。


 その頃、大地はというと――。


「それで、大地。真夏様とは、いつからのお付き合いなんだ?」


「再会したとき、どうしてあんなに驚いていたの?」


「ちょ、ちょっと待ってください! 質問が多いですって!」


 走り出した牛車の荷台で、千萩と美萩に左右からしっかりと脇を固められていた。


 逃げ場はない。


 どうやら大地にとっての本当の試練は、ダイダラワラスボ討伐の前に始まってしまったらしい。


 ◇


 王国の南へ、南へ。


 討伐隊を乗せたウミウシの牛車は、珊瑚で舗装された街道を進み、やがて温暖な海流へと乗った。


 それまで感じていた流れの抵抗がふっと弱まり、牛車の動きが滑らかになる。ウミウシがゆっくりと触角を揺らしながら、穏やかな流れに身を任せて泳いでいく。


 荷台から身を乗り出し、周囲を見渡す大地たち。


 そこには、奴隷村の周辺では想像もできなかった光景が広がっていた。


 頭上を埋め尽くすのは、イワシの大群だった。


 幾千、幾万という銀色の魚たちが、ひとつの巨大な生き物のように群れを成して泳いでいる。


 彼らの鱗が、遠くにそびえる生命の樹ニライカナイから届く光を受け、きらきらと輝いていた。


 群れが一斉に向きを変えるたび、銀色の光が波紋のように広がる。


 まるで、海の中に星空が生まれたかのようだった。


 その光景に見とれていると、今度は牛車の両脇を巨大な影が通り過ぎた。


 オニイトマキエイだ。


 大きく広げた胸びれをゆったりと上下させ、まるで空を飛ぶ鳥のように泳いでいる。


 その巨体は牛車を優に超えるほどで、腹側には白い模様が広がっていた。二匹はそのまま牛車の両脇に並び、長い尾をしなやかに揺らしながら泳いでいた


 時折、片方がふわりと高度を上げ、もう片方がその下をくぐり抜ける。


 互いに競い合っているのか、それとも遊んでいるのか。


 その優雅な姿を見ていると、討伐隊の護衛をしてくれているのではないかと錯覚するほどだった。


 視線を下へ向けると、今度は真っ白な砂地が広がっていた。


 細かな砂が一面に敷き詰められ、ニライカナイの光を反射して、淡い金色に輝いている。


 ところどころには、色とりどりの珊瑚が小さな森のように連なっていた。


 桃色、薄紫、鮮やかな橙色。


 枝を広げた珊瑚の隙間を、青や黄色の小魚たちが行き交い、時折、透明な身体を持つエビがひょこりと姿を現す。


 砂地には小さな波紋がいくつも描かれていた。


 近づいてみると、その正体はチンアナゴだった。


 砂の中から細長い身体を伸ばし、ゆらゆらと揺れながら周囲をうかがっている。牛車が通り過ぎると、何匹かが驚いたように一斉に砂の中へ引っ込んだ。


 しばらくして警戒を解いたのか、またひょっこりと顔を出す。


 まるで、通り過ぎる旅人たちを見送っているかのようだった。


 大地は、思わず息を呑んだ。


 奴隷村の周辺といえば、岩肌がむき出しになった海底や、視界を遮る岩礁、獰猛な生き物が潜む危険な海域ばかりだった。


 鉄鉱石を探し、獲物を追い、命懸けで戦う。


 そんな日々を送ってきた大地にとって、目の前の光景はあまりにも別世界だった。


 同じ海底世界なのに、こうも違うのか。


「ほぇー……水族館の中みたい」


 春陽が、ぽかんと口を開けたまま呟いた。


 その言葉に、大地も思わず頷く。


 水族館。


 確かに、その表現が一番近いのかもしれない。


 しかし、ここには分厚いガラスも、人工的な照明もない。


 目の前に広がるのは、どこまでも続く本物の海だ。


 魚たちは人間に見せるために泳いでいるわけではない。ただ、自分たちの暮らしを営んでいる。その何気ない光景が、かえって大地たちの心を奪っていた。


「こんな場所があるなんて、知らなかった……」


 春陽の隣で、ルシエルがぽつりと呟いた。


 白い髪が穏やかな海流に揺れ、紅い瞳にはニライカナイの光が映り込んでいる。


 いつもは警戒心の強い彼女も、今ばかりは目の前の景色に心を奪われているようだった。


 アルビノである自分の白い姿を気にすることもなく、ルシエルはただ、広大な海の美しさを見つめていた。


「この辺りは、海流も穏やかですからね」


 傍らから、落ち着いた声が聞こえてきた。


 キャペリン副隊長だった。


 彼は片手でノコギリガザミの大剣を支え、もう片方の手で布を動かしながら、刃の手入れを続けている。


「ですが、この温暖な海域を抜ければ、いよいよ泥濘の海域です」


 磨かれた刃が、淡い光を反射した。


「帰り道にも、もう一度この美しい景色を見られるように。皆さん、気を引き締めてくださいね」


 穏やかな口調だったが、その言葉には確かな重みがあった。


 ここから先は、今までとは勝手が違う。


 視界を奪う泥。


 思うように動けない足場。


 そして、討伐対象である捕食者ダイダラワラスボ。


 この美しい海域を再び通るためには、全員が無事に任務を終えなければならない。


 大地は、もう一度だけ周囲の景色を見渡した。


 頭上では、イワシの群れが銀色の光を散らしながら泳いでいる。


 両脇では、オニイトマキエイが悠然と牛車に寄り添っていた。


 白い砂地のチンアナゴたちも、いつの間にか再び顔を出している。


 この光景を、必ずもう一度見る。


 大地は静かに拳を握った。


 ――その決意をよそに。


「……ぐぅ……すぴぃ……」


 キャペリンの隣では、ペルカ隊長が大きな腹を上下させながら、気持ちよさそうに寝息を立てていた。


 その手には、いつの間にか食べかけの干物が握られている。


「…………」


 キャペリンは磨いていた大剣を止め、ゆっくりと隊長を見た。


「隊長。せめて、起きているふりくらいはしてください」


 穏やかな海流の中、討伐隊の旅は続いていく。

『恋愛指南』


「いい? ルシエルちゃん。恋愛っていうのは、ただ好きって気持ちだけじゃダメなんだよ」


「な、何を言っているの、春陽ちゃん?」


 ウミウシの牛車に2人並んで乗り込む。


 そして荷台の片隅では、春陽がルシエルを相手に、なぜか恋愛指南を始めていた。


「まずはパラメータの管理が大切なの!」


「ぱ、パラメータ……?」


「そう! 恋愛ゲームには、いろんなパラメータがあるんだよ」


 春陽は指を一本立てた。


「例えば、好感度!」


「こ、好感度……!」


 ルシエルの紅い瞳が、きらりと光る。


「これは相手にどれだけ好かれているかを示す数値だよ。会話の選択肢やイベントによって上がったり下がったりするんだ!」


「なるほど……。では、大地に好かれるためには、好感度を上げればいいのね?」


「そういうこと!」


 春陽は満足げに頷いた。


「でもね、好感度だけを上げればいいってわけじゃないんだよ」


「どういうこと?」


「例えば、料理スキル!」


「りょ、料理……?」


「そう! お弁当を作ってあげたり、疲れているときにご飯を用意してあげたりすると、料理スキルのパラメータが高いキャラは有利になるの!」


「な、なるほど……!」


 ルシエルは真剣な顔で頷いた。


 ちなみに、彼女の料理の腕前については、まだ誰も知らない。


「それから、戦闘スキルも大事!」


「戦闘スキルなら、私にも自信があるわ!」


 ルシエルは胸を張った。


「大地と一緒に戦って、ピンチのときに助けてあげれば、信頼度が上がるかもしれないよ!」


「信頼度……。好感度とは別なの?」


「うん! ゲームによって違うけど、信頼度が高いと特別なイベントが発生したりするんだ!」


「特別なイベント……!」


 ルシエルの脳裏に、大地と二人きりで過ごす光景が浮かんだ。


 夕日に染まる海辺で、大地が優しく微笑みかけてくる。


『ルシエル。君がいてくれて、本当に良かった』


「……っ!」


 想像しただけで、ルシエルの頬が赤くなった。


「ルシエルちゃん? どうしたの?」


「な、何でもないわ!」


 ルシエルは慌てて顔を背けた。


 春陽はそんな彼女を見て、にんまりと笑う。


「おやおや~? 今、何か想像したでしょ?」


「してないっ!」


「ふーん? じゃあ、次は会話の選択肢について教えてあげるね!」


 春陽は、まるでゲームの攻略本を読み上げるように説明を始めた。


「例えば、大地が『今日は疲れたなぁ』って言ったとするでしょ?」


「うん」


「そのときの選択肢は、こんな感じ!」


 春陽は指を折りながら、次々と例を挙げていく。


「一番! 『大丈夫? 少し休んだら?』」


「……優しい言葉ね」


「二番! 『私が肩を揉んであげる!』」


「か、肩を……!?」


「三番! 『疲れてるなら、私が代わりに戦ってあげる!』」


「それは……大地が嫌がりそうね」


「おおっ! ルシエルちゃん、分かってるね!」


 春陽は嬉しそうに手を叩いた。


「そう! 大事なのは相手の性格を理解すること! 大地はたぶん自分で頑張りたいタイプだから、何でも代わりにやってあげるより、支えてあげる方がいいかもしれない!」


「……確かに」


 ルシエルは、真剣な表情で考え込んだ。


 大地は、強くなろうと努力している。


 だからこそ、自分が前に出てすべてを片づけてしまうのではなく、彼が力を発揮できるように支える。


 それなら、自分にもできるかもしれない。


「春陽ちゃん……。あなた、すごいのね」


「えへへ! ボク、こういうゲームは得意だから!」


 もちろん、現実の恋愛とゲームが同じ仕組みで動く保証はない。


 しかし、そんなことを指摘する者は、この場にはいなかった。


「でもね、ルシエルちゃん。もっと大切なことがあるんだよ」


「まだあるの!?」


「あるよ! それは――イベントフラグ!」


「い、イベントフラグ……!」


 ルシエルは思わず身を乗り出した。


「特定の条件を満たすと、特別なイベントが発生するようになるんだよ! 例えば、二人きりで危険な場所に行くとか、相手を助けるとか、普段は言えない本音を打ち明けるとか!」


「二人きりで……危険な場所……」


 ルシエルの脳裏に、泥濘の海域で大地と二人きりになった場面が浮かぶ。


 視界の悪い泥の中。


 はぐれた二人。


 手を伸ばす大地。


『ルシエル、絶対に離れるな!』


「……っ!」


 ルシエルは両手で頬を押さえた。


「ど、どうしよう……! それは、もうイベントが発生してしまうのでは……!?」


「おおっ! その想像力、いいね!」


「そ、想像力の問題なの!?」


「そうだよ! 恋愛ゲームでは、イベントが発生するタイミングを逃さないことが大切なんだから!」


 春陽は、ふんす、と鼻息を荒くした。


「真夏さんは、たぶん好感度がカンストしてる。しかも、大地との間に特別なイベントをいくつも持ってるはず!」


「か、カンスト……!」


「だから、ボクたちも頑張らないと!」


 春陽が差し出した手を、ルシエルはぎゅっと握った。


「……分かったわ。私、頑張る!」


「うん! まずは大地の好感度を上げて、信頼度を高めて、イベントフラグを立てる!」


「好感度、信頼度、イベントフラグ……!」


「そして、最終的には――」


 春陽は、意味ありげに声を潜めた。


「個別ルートに突入するんだよ!」


「こ、個別ルート……!」


 ルシエルの顔が真っ赤になった。


 二人は、固い握手を交わした。


 その少し離れた場所では。


「……大地さん。お嬢を悲しませないでくださいね」


 虎太郎が、どこか意味深な笑みを浮かべていた。


 そして当の大地はというと――。


「いや、だから何なんだよ、さっきから……」


 千萩と美萩に両脇を固められ、真夏との馴れ初めについて尋問されていた。


 自分の知らないところで、好感度だの信頼度だの、妙なパラメータが勝手に設定されているとも知らずに。


 こうして、泥濘の海域へ向かう討伐隊の中に、いつの間にか奇妙な作戦会議が誕生したのだった。


 ――なお、この作戦の攻略対象本人は、いまだにルール説明すら受けていない。

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