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 ——距離をおきたいんだ。


 隣国で流行った小説。婚約者がいながら別の女性を愛してしまった男性が、何ひとつ非のない婚約者に別れ(婚約解消)を告げることができず、察してくれとばかりに言った台詞だ。


 婚約破棄を覚悟していたとはいえ、まさか自分がその台詞を告げられることになるとは思っていなかった。


「オズワルド様、今なんて……?」

「……っ、だから……距離を……おきたいんだ……」


 苦悶の表情をしたオズワルド様が、その美しい碧眼をそらし、サラサラの金髪を片手で乱しながら、申し訳なさそうに告げる。


「アリシアは何も悪くないんだ……。その……すまない……」


 これは決定事項なのでしょう? わたしが拒絶の意思を示しても、きっとそれは変わらない。


 オズワルド様が婚約者(わたし)ではない別の女性をエスコートして頻繁に夜会に出席している事は知っている。

 オズワルド様はその美貌とグレイヘイブン侯爵家次期当主という立場で、社交界でも人気が高い男性だ。


 わたしは夜会にはあまり出席できないのだけれど、そういった噂話はどこからともなく耳に入る。


「承知いたしました、オズワルド様。後のことはわたくしが処理いたします。明日から視察でしたよね。お茶会もこれで終了いたしましょう」

「ああ……、ありがとう」

「それでは失礼いたします。旅路での安全を祈ります」


 胸が締め付けられる感覚に襲われていたが、わたしは平静を装い、涙が出そうになるのを堪えながら、オズワルド様の自室を後にした。






 わたし——アリシア・ヘルミットがオズワルド様と婚約を結んだのは十年前。わたしが六歳、オズワルド様が十一歳の時だった。


 オズワルド様のお父様であるグレイヘイブン侯爵様と、わたしのお父様である今は亡きヘルミット伯爵は、学生時代からの友人であり、お互いの子供が異性として生まれたことから、彼らはわたしたちの婚約を決めた。



 けれど、——オズワルド様は恋をした。



 オズワルド様が恋をした相手は、テイラー男爵令嬢であるイザベラ様。オズワルド様より二つ年下で、文官として王城で働く才媛だ。

 輝くようなピンクブロンドに、澄んだ空を思わせる大きな青い瞳。真っ白な肌と長い手足という美貌までも併せ持つ女性である。

 

 濃紺の髪に真っ黒な瞳。身長も平均。顔も並。全体的に地味なわたしとは大違いだ。


「そんな方が常に近くにいるんだもの。恋をしない方がおかしいわ……」



 その美貌と聡明さで社交界でも有名な彼女は、約一年前、宰相補佐であるオズワルド様の部下となった。

 行動をともにすることが多くなった二人はあちらこちらで注目の的であり、二人が並ぶ姿は絵画のように美しいと言われている。


 わたしがオズワルド様の婚約者であるという事に不満を述べていたご令嬢たちでさえ、「イザベラ様ならオズワルド様にふさわしいわ。なんてお似合いなのかしら。どなたかと違って」と賛同的だ。


「叔父様はなんて言うかしらね……」


 馬車に乗り込んだわたしは、御者に貴族院へ寄るように伝え帰路についた。






「本当にお前は使えない娘だな!!」


 ヘルミット伯爵家の当主執務室。ウォールナットの椅子に座ってわたしを怒鳴っているのは、わたしのお父様の弟である叔父のロバートだ。


 彼は伯爵家の二男だったため継ぐ爵位もなく、貴族家への婿入りもできずに平民として暮らしていたのだが、四年前にわたしの両親が亡くなり、ヘルミット伯爵家へ妻と息子を連れてやってきた。


「申し訳ありません……」


 わたしはグレイヘイブン侯爵家の帰りに貴族院に立ち寄り、婚約解消届を手に入れた。必要な項目はすべて記入済みで、あとは当主である叔父が署名し、グレイヘイブン侯爵家へ届けるのみだ。そのため叔父に事情を説明したところ、予想通りの反応だった。


「婚約破棄だなんて!! この恥さらし!!」

「婚約破棄ではなく解消です」

「どっちも同じよ!!」


 ——パシン。


 叔父の妻である義理の叔母は、訂正したわたしの頬を平手で打った。

 彼女は元平民という事にコンプレックスを抱いている。そのためか、生まれた時から貴族であるわたしが気に入らないようだ。


 彼女はドレスや宝石を買い漁り、ヘルミット伯爵家の財政を圧迫している。そのうえ叔父に経営手腕はない。逼迫している財政を何とかしようと、わたしと家令が執務を行っているのが現状だ。


「もういい!! お前は自室で謹慎だ!!」

「はい……」


 わたしは部屋に戻り、硬いベッドに腰を下ろした。


 この部屋にはベッド以外に小さなテーブルと椅子、そして小さなクローゼットしかない。それだけでいっぱいになってしまう小さな部屋は、本来ならメイドに与えられる部屋だ。元のわたしの部屋は、今は従兄弟が使用している。



「アリシアいるんだろ? 開けろよ」


 ドンドンとドアを叩く音が響き、身体が強張る。


 鍵を閉めていて良かった。


 声の主は一つ年上の従兄弟のジャックだ。わたしはドアを開けずに声だけ返す。


「何か用?」

「お前、婚約破棄されたんだろ? 俺が慰めてやるよ」


 ジャックの言葉に嫌悪感が沸き上がる。わたしは少し前から彼のわたしを見るその目に、欲望が滲み出ていることに気づいている。


「この俺が、婚約者に捨てられた傷物の相手をしてやるって言ってるんだよ」


 どうしよう……。こんな脆いドアでは簡単に壊されてしまう。わたしは意味もなく立ち上がり、震える両手を握りしめて虚勢を張った。


「婚約解消届は提出されていないのだから、まだわたしはオズワルド様の婚約者よ」

「チッ、減らず口叩きやがって。……そうだな。お楽しみは取っておくとするか。覚悟しておけよ」


 ジャックはそう言って部屋の前から去ったが、わたしの震えは止まらない。婚約解消届が提出されてしまったら、本当にジャックに襲われるかもしれない……。


「ここには居られないわ。一刻も早く逃げなければ……」


 わたしはクローゼットから鞄を取り出し、数着の服、隠していたアクセサリーと少しのお金、そしてお母様の形見のネックレスを詰めた。



「部屋が一階で良かったわ……」


 夜明け前、わたしは簡素なワンピースを着て窓から外へ出た。


「お父様、お母様、ごめんなさい。生き延びることができたら、いつかきっと……」


 わたしは亡きお父様とお母様に静かに別れを告げ、誰にも気づかれないように、息を潜め、足音を殺して、鞄ひとつを持ち生まれ育った家を後にした。




 ***




 日が昇り辺りが明るくなったころ、わたしは辻馬車の中にいた。行く当ても目的もないけれど、とにかく遠くへ行きたかった。


 どこか遠く、誰もわたしを知らない場所へ。


 ジャックに対する恐怖もあったけれど、それよりもオズワルド様から離れたかった。王都から離れれば、オズワルド様とイザベラ様の話を耳にすることもないはずだ。


 最も遠くへ向かう馬車を選び、身を委ねた。ぼんやりと窓の外を眺める。王都を後にするにつれ、周囲の景色は寂しげなものへと変わっていった。しかし、その寂しさはやがて豊かな自然に包まれ、美しい風景へと変わった。


 新たな旅立ちの始まりを告げるかのようだった。


 八人ほどいた乗客は、馬車が進むにつれ一人減り二人減り、一人乗ってはまた三人減るというように、次第に乗客の数は減っていった。乗客たちの話し声や笑い声が次第に消え、馬車の中は静けさが増していった。


 最終的にわたしだけが残った。わたしは窓の外を見つめながら、これからの旅路に思いを馳せた。






 終点に着き馬車を降りた。たどり着いた先はノールという小さな港町だった。

 港には数隻の漁船と一隻の貨物船が停まっていて、荷物の積み降ろしや、次の出港の準備で賑わっていた。


 新鮮な海の幸を売る露店も並び、辺りには美味しそうな料理の香りが漂っていた。


「貨物船……。 運賃を払えば乗せてくれるかしら……」

『何だ、お嬢さん。あの船に乗りたいのか』


 貨物船を見ながらつぶやいたわたしは、聞きなれない言葉で声をかけられた。


「えっ?」


 振り返ると、日に焼けた肌の大きな身体の男性がいた。


 彼が話したのは隣国の言葉。わたしのお母様は隣国の出身だから、わたしは隣国の言葉を話せる。


『ええ……。客船ではないようですが、あまりお金を持っていないので、安く乗せていただけたらと思いまして……』

『そうか。俺はあの船の船員だ。すぐに出港するが、乗っていくか?』

『まぁ、よろしいのですか!? ありがとうございます。よろしくお願いします』

『腹は減ってないかい? あそこの露店で何か買ってきてやるからそこで待ってな』


 彼はそう言って露店の方へと足を向けた。


 あらっ……? あれは……。


 彼がそちらへ近づくと、同じような日焼けした肌の男性たちが彼に近づいていった。

 仲間の船員たちだろう彼らは、わたしの乗船を話し合っているようだ。時折こちらを見て何かを話している。


 親切な船員さんに声をかけてもらってよかった。



 この時のわたしは何もわかっておらず、愚かにもそう思ってしまっていた。しかし後に、自分がどれほど世間知らずだったかを痛感することになったのだ。







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