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九月の舟  作者: すのへ
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九月の舟

 山あいの緑が深くなる。軽トラックが一台追いぬいていったあと、あたりがしんと静まりかえった。登り坂がゆるやかになって大きくカーブし、むこうに光があふれている。おや、人影が見える。帽子をかぶり、リュックをしょった人が自転車を止めて立っている。

 立ち姿をひとめ見てハッとした。あれは祖父ではないか。まちがいない。自転車のハンドルをにぎった後ろ姿がひと足ごとに近くなる。カーキ色のぺちゃんこの丸いリュック、目深にかぶったグレーのハンチング、ちょっとよれたツイードのジャケット。背筋をピンと伸ばして前を見ていたその顔が、ぼくの足音に気づいてふりかえる。

「よお。やっと来たか」

 祖父は手をあげて笑った。みょうに若々しいが、たしかに祖父だ。入院しているはずなのに、こんなに元気そうな祖父を見るのは変だ。

「なかなか来れなくて」

 ぼくが横にならぶと祖父は自転車を引いていっしょに歩きだした。時期がいいのでこれから××(聞きなれない地名のようだった)へ行くのだがおまえはそこへは行かれない、この先の池まで送ってくれと言う。病院はと訊くと祖父はおどけて見せる。

「ようやく脱け出したんじゃ、おさらばじゃ」

 やがて祖父は自転車にまたがり、乗れと合図する。祖父の自転車に乗せてもらうのは十数年ぶりだ。山の道を黒い自転車は軽快に疾走する。木立が大きく風にゆれていた。ここに来るまでの一ヶ月足らずのできごとが、秋の陽のなかでよみがえる。きのうまでのことをすべて祖父に話してみたいと思った。経験したなにもかもが、この光に浄化されるごとく現れては一瞬だけ輝いて消えていく。九月の光が偶然をつぎつぎと必然に変え、記憶は静けさをとりもどそうとしている。深い感動をおぼえ、思わず祖父の肩ごしに声をかけた。祖父はただ、うんうんとうなずいていた。

 祖父の自転車はまだ小さかったころつれてきてもらった池のほとりを走っていた。そのとき天地を割くような雷鳴が快晴の空にとどろき、ひどくおびえたことを思いだした。池の端に着き、祖父は降りろと言う。池に注ぐ小さな川があり、粗末な橋が架かっていた。

「ここでバイバイじゃ」

 祖父は手をふって橋を渡り、川をさかのぼっていった。鬱蒼と茂る昼なお昏い山林のなかへ自転車は消えていった。その後ろ姿を見送りながらぼくは祖父が逝ってしまったと悟った。

 病院へ急がなければ

 ひとり取り残されて赤い日がきらめく池にそってぼんやり歩いていると小さな舟が浮かんでいる。

 あの舟に乗ろう

 ポケットには文次先生の下宿で撮った沖野牡丹の写真がある。背後から日を浴びて金色の光がシルエットとなって輝く輪のなかに沖野牡丹がめずらしくはにかんでいる姿がそこに写っている。その写真をゆるやかな川の流れに沈めにいこう。

 ふと空をあおぐと赤トンボが、羽音さえ聞こえそうなほどたくさんの赤トンボが空をおおいはじめていた。


  ―了―

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