過去の思い出と現在の想い
闇市・泥棒市の空気はいつも湿って重く、腐った果実と安酒の匂いが絡みついていた。
当時、シャトンは十一歳だった。白い毛並みの耳と尻尾、そして左右で色違いの瞳が特徴的な白猫の獣人族で、まだ幼さの残る顔立ちに似合わぬ鋭い目つき……なのも当然。彼女は孤児たちのリーダー格として、この一角を仕切っていたのだ。
「アンタら、また新しい客かい?」
シャトンの声に、すぐさま数人の子供たちが動き出す。標的は、路地の奥で小さな露店を広げた行商人である。
特に目立った顔立ちでもない人族で、黒髪にハンチング帽をかぶり、糸のように細められた目がいつも笑っているように見える、見るからに胡散臭い男であった。
並べられた品物は怪しげな薬草や安物の護符ばかりで、明らかに縄張りを無視した無許可営業である。多少痛い目を見せて、少しこの場所の流儀を教えてやるか。
そういつものように判断して、シャトンが最初に遣わした腕っぷしに自信のある年長組――大人顔負けの大柄な少年たち――だったが、あにはからんや、ほどなく彼らの方が鼻血を垂らして戻ってきた。
「やられた……あいつ、変な糸みたいなもんで……」
「おまけに拳闘でもやってるのか、生っチョロい見かけの割に、拳骨が目に止まらねえ」
シャトンの眉が吊り上がる。仲間たちの視線が集まるのを感じて、彼女は傲然とひとり前に進む。ここで引けば、明日から誰も言うことを聞かなくなるだろう。
「……あたしが行く」
小さく息を吐きながら、握った魔石で地面に古びた魔方陣を描いた。
昔、辻占いをしていた老婆の掘っ立て小屋に、共同井戸の水を運んだ礼に教えてもらった召喚術である。
ほどなく指先から黒い霧が立ち上り、すぐにそれは巨体へと形を成す。豚の頭に人型の胴体、鈍い灰色の肌をした『豚鬼』。一頭だけでも、この路地では十分な脅威だった。
「行くよ」
シャトンは豚鬼を従えて、ゆっくりと行商人の前に立った。
「ショバ代、払ってもらうよ」
行商人は、へらへらと笑ったまま、首を傾げた。
「へえ? ここいら辺は自由市場って聞いてたんやけど、そんな決まりがあったかいな。知らんかったわ。おまけにこんなチビッ子ギャングとは、いや~、コワいわ~」
その態度に、シャトンの苛立ちが爆発する。
「邪魔だよ。消えな」
彼女が指を鳴らすと、豚鬼が咆哮を上げて突進した。巨体が地面を震わせ、露店の品々が飛び散る。
だが、次の瞬間だった。行商人の姿が、ふっと消えた。いや、消えたのではない。軽やかなステップで、豚鬼の突進を横に滑るように避けたのだ。まるで風に踊る紙のように。
「ほぉ、召喚術ですか。天然術者とは、獣人族にしては珍しいですな。クレスで生まれ育ったとったら〈獣巫女〉扱いされてたかも知れんわ。惜しいことしましたなあ」
声だけが、背後から聞こえた。咄嗟にシャトンは振り返るより早く、さらなる魔方陣を地面に広げた。
今度は一頭ではない。十、二十……路地を埋め尽くすほどの豚鬼の群れが、雪崩のように行商人に殺到した。
「…………」
さすがに魔力を使い過ぎて気分が悪い。倒れそうになるのを、なんとか我慢してその場に平然と立っているふりをする、シャトン。
闇市の売人や客が悲鳴を上げて逃げ散る。これなら、絶対に避けられないだろう。
しかし、行商人は笑みを深めたまま、軽く足を踏み替えただけだった。そしてそのまま、群れの間を縫うように、まるで踊るかのように軽やかに躱す。
豚鬼の腕が空を切り、牙が空しく噛み合う。巨体同士がぶつかり合い、転倒する。だが、行商人の足は止まらない。むしろ、群れを掻い潜りながら、どんどんシャトンに近づいてくる。
(嘘だろ……)
まるで無人の野を行くがごとき足さばきで、豚鬼の群れを軽々と躱しながら、司令塔であるシャトンに迫ってくる。
最後の豚鬼の棍棒が空振りした瞬間、行商人の姿がシャトンの目の前にあった。
「はい、おしまい」
軽い一撃。拳ではなく、掌底だった。シャトンの視界が、真っ白に染まった。
……意識が戻った時、彼女は薄暗い幌馬車の荷台に転がされていた。手足は縛られていない。代わりに、柔らかな毛皮が敷かれていた。
「……ここ、どこ」
掠れた声に、前の御者席からあの行商人の声が返る。
「お目覚めでっか? いや、おもろい召喚術やったで。才能あるわ」
反射的にシャトンはその背中を睨みつけたが、行商人は気にも留めず、半顔を向けて、にこにこと続ける。
「こんな裏路地でくすぶっとるのはもったいないわ。仕事に応じた飯と給金、あと寝床も保障するんで、うちで働きや。名前は?」
一瞬、黙ろうか適当な偽名を答えようかと思ったが、無駄な抵抗だと思って正直に答えた。
「……シャトン」
「ええ名前や。『よろず商会』へようこそ、シャトン。これから読み書き、算盤、ちょっとした諜報術……まあ、色々と実践をまじえて教えたるわ」
馬車の荷台は、緩やかな揺れを繰り返していた。
いつの間にか陽が落ちていたのか、外の闇が窓から覗き込み、遠くの街灯りがぼんやりと過ぎ去っていく。
シャトンは体を起こし、頭の痛みを堪えながら、ようやく口を開いた。
「……あの、仲間たちは? みんな、置いてけぼりなの?」
彼女の声は小さく、かすかに震えていた。十一歳の少女にとって、あの孤児たちは家族のような存在だった。
共に路地を駆け回り、食い扶持を分け合い、時にはねぐらにしている廃墟やバラックで、肩を寄せ合って寒い夜をしのいだ。
『豚鬼』を召喚できる自分がリーダー格だったのは確かだが、それでも彼らは同じ砂を噛む仲間だと思っていた。心配しないはずがない。
行商人は、荷馬車を引くロバの手綱を握り葉煙草をくゆらせながら、ふっと笑った。黒髪の下から、糸のように細い目がシャトンを見つめる。
「ああ、あいつら? だったら、さっさと荷物まとめてトンズラこいたわ。お前さんが倒れた瞬間、蜘蛛の子散らすみたいに脇目も振らずに。まあ、賢い選択だわな」
シャトンの耳がピクッと動いた。白い毛並みの尻尾が、ぴくりと萎れる。
「……え、そんな。みんな、仲間じゃなかったの? あたし、みんなのために……」
言葉が途切れる。
利用されていたのか。自分の召喚術が便利だったから、リーダーに据えていただけなのか……。
路地の掟、裏切りの掟。頭ではわかっているつもりでも、十一歳の心には、まだそれが重すぎた。肩が落ち、視線が荷台の床に落ちる。ガックリと、少女の小さな体が縮こまった。
行商人は内心で舌打ちした。
――損得勘定を考えて、友人でも見捨てる決断ができるのが、この世界で生き残るコツだ。逆に、敵でも利用できるなら権謀術数を駆使して、ナイフを懐に握手をする。それがこの世界の交渉術である。
だが、そんな冷徹な理屈を、こんな子供に正面からぶつけるほど腐ってはいない……つもりである。子供に未来を信じさせるのが大人の沽券であり役割だろう。
彼は「ふ~~っ」と煙を吐き出し、多少なりとも気の利いた言葉を探した。
せめて今は、気休めでもいい。
「まあ、落ち込むことはないでっしゃろ。人生なんぞどう転ぶかは本人次第や。出会いも別れもひっくるめて人生ってやつや。シャトン、お前さんも、これからは新しい仲間ができるかもな。本当の仲間ってのは、どんな時でも見捨てないもんやで。損得抜きで、ただ一緒にいるだけでいいみたいな……馬鹿みたいにまっすぐな奴が、この広い空の下のどこかにいるもんや。いつか出会えるとええなあ」
シャトンは顔を上げ、行商人の顔をじっと見た。へらへらとした笑みに、嘘は感じなかった。少なくとも、今は。
「……本当?」
「ああ、自分、子供相手には嘘はつかんで。さあ、着くまで寝とけ。なんせ明日からびしばし商売教えるんで、忙しくなるから覚悟しときや。とりあえず接客用に愛嬌覚えや。……そうや、語尾に『にゃ』を付ければ受けるで!」
「はあああっ!? ふざけてるの!」
そんな軽口を叩きながらも馬車は夜の道を進み続ける。
やがてシャトンは毛皮に体を預け、目を閉じたが胸の奥の火は、まだ消えていなかった。
失望の向こうに、かすかな希望が混じり始めていた。
◇ ◆ ◇ ◆
……ずいぶんと懐かしい思い出がよみがえってきましたにゃ。ひょっとして、これが噂に聞く走馬灯って奴ですかにゃ?
昔つるんでいたあの連中――もう名前も朧気だけど、あんな掃きだめみたいな町の貧民窟で這いずり回っていたなら、今頃はいいとこ男なら地回りか破落戸たちの下っ端か、女なら最下層の娼婦が関の山だろう。
それを思えば‟親方”に拾われた自分は運がいいのか悪いのか……。
などと思いながら、近くの壁に背を預ける。
「……やれやれ、ですにゃ。まさかここで藪を突いたら蛇が出て来るとは、予想外でしたにゃ」
全身が打撲と裂傷で痛いんだか苦しいんだか怠いんだかわからない。ただ、ここで倒れたら二度と立ち上がれないことを、シャトンは本能的に悟っていた。
「所詮は小物。使えん奴だったな」
倒れた――シャトンが奥の手である豚鬼突撃隊と、特殊個体である巨豚鬼により、ある意味力技でどうにか倒した――エグモント(殴られ過ぎて魔導甲冑がボコボコにひしゃげている)を邪険に蹴り飛ばすアチャコ。
「…………ぅぅ……」
わずかに呻き声が聞こえたところをみると、アレでどうにか中身は生きているらしい。
そんなシャトンの周囲には豚鬼たちが、ある者は心臓を貫かれ。ある者は全身を切り刻まれ。ある者は凍り付かされて一匹残らず絶命している。
「てっきり聖女サマ相手にするかと思ってたですにゃ?」
エグモントを無力化して、さて聖女サマたちを追いかけるか、と思ったところで不意を突かれたシャトンの憎まれ口に、忌々し気にアチャコが吐き捨てる。
「このバカモノが、礼拝堂までの隠し通路を不要に使ったので、それを塞ぐ……ついでに口封じをするつもりだったんだけど、まさかお前のような聖女のオマケに倒されるとは、つくづく無能な奴よ。貴様の位階は没収だ」
そのついでに目障りだったのか、単なるもののついでだったのかは知らないが、シャトンに不意打ちを仕掛けてきたというわけだ。
いきなり不意を撃たれたとはいえ、シャトンはそれでも可能な限り抵抗をして……しかしながら力及ばず。結局は打ち据えられて、いまや命運もつき、文字通りの風前の灯火としか言いようがない。
「にゃははは……」
壁にもたれながらシャトンは最期の時を待った。いままでに自分がやってきたことを思えば、格段に満足のいく最期だろう。何しろこの期に及んで、一片の未練も後悔もないのだから。
なぜか自然と笑い声が漏れた。
ふと、自分は何でここまでやったんだろうと考えた。
別に強制されたわけでも命を賭けるに値する大金を報酬として約束されたわけでもない。それなのに、どうして死地に一人で残るような真似をしたんだろう。逃げても良かったはずだし、いままでの自分だったら、さっさと尻に帆かけてトンズラしていただろう。
『わかりました。――無理はしないでくださいね、シャトン?』
けど、そう言った聖女サマはこっちの思惑を察した上で、それでも構わないので「逃げてもいい」と純粋に自分を心配して、離脱することを黙認する目だった。
だから、まあ、調子が狂ったのだ。あの聖女サマのお人よしっぷりと、やることなすこと、どれもこれも面白かったから。あんまり面白くて商売を抜きにして、最後まで見届けてみたいと思ってしまったのだ。
まあ、残念ながら途中で脱落になったけど、まあいいですにゃ。やっぱり最後まで面白かったから。
『本当の仲間ってのは、どんな時でも見捨てないもんやで。損得抜きで、ただ一緒にいるだけでいいみたいな……馬鹿みたいにまっすぐな奴が、この広い空の下のどこかにいるもんや。いつか出会えるとええなあ』
ふと、出会った時の‟親方”の言葉が耳の奥で蘇った。
「にゃはははははっ、本当にいるとは思いませんでした……にゃ」
ああ、いい気持ちですにゃ。そう思いながらシャトンはゆっくりと目を閉じる。
同時に力が抜け、ズルズルと頽れる――寸前、誰かがその体を優しく支えてくれた気がした。
「よう頑張ったな、シャトン。この阿婆擦れの始末は自分の仕事や」




