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聞こえない不協和音

狩人が姿を消した後も。


帝国軍の行軍は続いていた。



先頭に立ったゼルクは、木の幹へ刻まれた浅い傷や、不自然に積まれた小石、苔の一部だけが剥がされた岩肌を確かめながら、複雑に枝分かれする山道を選んでいく。


狩人から目印の見分け方を聞いていたという言葉に、偽りがあるようには見えなかった。



途中。


落ち葉の下へ隠れていた古い罠が、何度か発見された。


道の端へ足を踏み出した兵が、崩れた足場に巻き込まれることもあった。


傷んだ橋や、ぬかるんだ斜面では。


工作兵達が補強を施すため、進軍を止める場面もあった。



だが。


いずれも、六千の軍勢を止めるほどの事故ではない。



工作兵達が道を整え、負傷した兵を後方へ送り。


長く伸びた隊列は、着実に山の奥へと進んでいった。



分岐を一つ。


また一つと越えていく。



道は険しい。


しかし、通れない道ではない。



先導するゼルクを信じ、工作兵達が細かな障害を取り除きさえすれば、夜明けまでに山を越えられる。


その見通しは。


今のところ、何一つ崩れていなかった。



やがて。


月が夜空で最も強く輝く刻を迎えた。



木々の隙間から差し込む白い光が、帝国兵達の歩く山道を淡く照らしている。



グラゼルは。


添え木で固定された左手首へ目を向けた。



痛み止めのおかげで、倒木に打たれた直後よりは幾分ましになっている。


それでも。


僅かに指へ力を込めたり、手首を動かしたりするだけで、骨の奥から鈍い痛みが返ってきた。



「ロギウス」



呼びかけられたロギウスが、すぐにグラゼルの傍へ寄る。



「はっ」



「ここで一度、休息を取る」


「兵達へ伝えよ」



ロギウスは周囲の地形を確認し、次に、長い行軍で疲労を蓄え始めた兵達を見渡した。



予定していた場所より、僅かに早い休息だった。


だが、山へ入ってから兵達はほとんど歩き続けている。


小さな負傷を負った者も増え始めており、この先も同じ速度を保つためには、一度足を止める必要があった。



「承知いたしました」



命令が、前後の部隊へ伝えられる。



一本の長い線となっていた兵列は、比較的道幅の広い場所を中心に、幾つかの集団へ分かれていった。



兵達は背負っていた荷を下ろし、水を口に含み、固い携帯食を噛み始める。


靴紐を締め直す者。


痛む足を揉む者。


木の幹へ背を預け、僅かな時間でも目を閉じようとする者。



敵国へ侵入するための秘密の行軍である以上、火を焚くことは許されない。


灯りも声も、必要最低限に抑えられていた。



それでも。


張り詰めていた緊張が僅かに緩めば、兵達の間には、いつもの軽口が戻ってくる。



「おい、オルディン」


「俺の分だけ、少なくないか?」



携帯食を片手にしたドレヴァンが、補給物資を確認しているオルディンへ、不満そうに声を掛けた。



オルディンは帳簿から顔を上げることもなく、淡々と答える。



「先ほど、一つ余分に取っただろう」



「見てたのかよ」



「私が見ていないと思ったのか?」



「相変わらず、食い物に関しては誤魔化しが利かんな」



「食い物だけではない」



横から。


レグナスが口を挟んだ。



「お前の考えていることは、大抵誰にでも分かる」


「次は酒を要求するつもりだろう」



「……何故分かった?」



ドレヴァンが本気で驚いた顔をしたため、近くにいた兵達から小さな笑いが漏れた。



「山越えの最中に、酒など渡せるか」



オルディンが、呆れたように言う。



「王国を落とした後なら、好きなだけ飲ませてやる」



「言ったな?」


「今の言葉、忘れるんじゃねえぞ」



「お前が生きていればな」



レグナスの言葉に。


今度は、先ほどよりも大きな笑いが起きた。



グラゼルは、その様子を満足そうに眺めていた。



疲労はある。


負傷者も出ている。



それでも、士気は崩れていない。



ヴァレリア騎士公国より集められた精鋭達は、長年にわたり、共に幾つもの戦場を越えてきた者達だ。


この程度の山道と、幾つかの不運だけで、弱音を吐くような兵ではない。



だが。


グラゼルが、この場所で休息を命じた理由は。


兵を休ませるためだけではなかった。



自らへ与えられた祝福。



その力を、落ち着いた状態で確かめるためでもある。



祝福を受けた後。


グラゼルは自らの腕へ小さな切り傷を作り、日付が変わると同時に、傷が跡形もなく消えることを確認していた。



しかし。


骨を痛めた可能性があるほどの負傷は、今回が初めてだった。



どのような傷であろうと、本当に元の状態へ戻るのか。



行軍を続けながらではなく。


足を止めた状態で、その瞬間を確かめておきたかった。



グラゼルは、頭上の月を見上げる。


そして。


ロギウスが持つ携帯用の刻時計へ、さりげなく視線を向けた。



針は間もなく、新たな一日の始まりを示そうとしている。



兵達が水を飲み。


僅かな食事を取り。


行軍再開に備えて、荷を整えている中。



刻時計の針が。



午前零時を指した。



その瞬間。



グラゼルの身体から、全ての痛みが消えた。



まず。


左手首の骨の奥へ沈んでいた鈍痛が、何の余韻も残さず消え去った。



続いて。


長い行軍によって足へ溜まっていた疲労。


筋肉の張り。


荷を背負い続けた肩の痛み。



それらが。


一日の出来事そのものを否定するように、跡形もなく失われていく。



僅かな食事では満たしきれなかった空腹も。


乾いていた喉の渇きも。


睡眠を求めていた身体の重さもない。



まるで。


十分な食事と休息を取り、清潔な寝台から目覚めた直後のように。


身体の全てが、完全に満たされていた。



グラゼルは、固定された左手首を、包帯の下で慎重に動かした。



痛みはない。



腫れも。


熱も。


骨の違和感さえ、残っていなかった。



治癒したのではない。



負傷そのものが存在しなかった状態へ。


肉体を戻されたのだ。



さらに。


グラゼルは、自らの身体に起きた別の変化へ気づいた。



首筋や背中へまとわりついていた汗が、消えている。


長時間の行軍によって生じていた肌のべたつきも、細かな垢や汚れも、跡形なく取り除かれていた。



しかし。


軍装には泥が付着したままだった。


靴も湿った土に汚れ、左手首を固定している包帯と添え木も、何一つ変わっていない。



祝福が戻したのは。


あくまで、グラゼル自身の肉体だけだった。



「これほどとは……」



思わず。


声が漏れた。



女神の力を疑っていたわけではない。


小さな傷が消えることも、既に確かめている。



それでも。


傷と疲労だけでなく。


空腹も、渇きも。


身体へ付着した不浄さえも、一日の終わりと共に祓われる。



その奇跡は。


グラゼルが想像していた以上のものだった。



「殿下?」



ロギウスが、訝しげに顔を向ける。


近くにいたドレヴァンやレグナスも、グラゼルの様子を窺っていた。



「何かございましたか?」



「いや」



グラゼルは、何事もなかったように答えた。


固定された左手首へ一度だけ視線を落とし、僅かに笑う。



「薬が効いたようだ」


「痛みが消えた」



「それは何よりでございます」



ロギウスは安堵したように頭を下げ、それ以上は追及しなかった。



グラゼルも。


祝福の全てを語ろうとはしなかった。



まだ。


皆へ明かす時ではない。



女神と交わした賭けに勝ち。


その寵愛を、完全に自らのものとした時。



その時こそ。


世界は、真の奇跡を知ることになる。



帝国の皇帝などという。


一国の支配者に過ぎない、小さな座ではない。



国も。


民も。


人も。



いずれは神さえも自らの前へ跪かせ、この世の全てを統べる、唯一の帝王となる。



それこそが。


女神より選ばれた自分へ、与えられるべき未来なのだ。



グラゼルは、夜空に輝く月を見上げた。



「傷だけでなく、不浄まで祓うか……」



その口元へ。


満足げな笑みが浮かぶ。



「実に、女神らしい祝福よ」



グラゼルは、左手首の包帯を外すことなく立ち上がった。



祝福の全容を知られないためでもあったが、痛みが消えたからといって、負傷直後に固定具を外せば不審に思われる。


少なくとも今は。


薬によって痛みが和らいだだけだと、思わせておけばよい。



「休息は終わりだ」


「行軍を再開する」



命令が、各部隊へ伝えられた。



短い休息によって、幾分かは楽になったものの。


兵達の疲労が、完全に抜けたわけではない。



足には重さが残り。


肩には、荷紐が食い込んだ痛みがある。


眠気と倦怠感も、身体の芯へ沈んだままだった。



それでも。


不満を口にする者はいない。



夜明けまでに山を越え、北砦の背後へ回る。



その一手によって。


帝国の勝利を決定づける。



この行軍に参加する者達は、その役目の重さを理解していた。



兵達は水筒を閉じ。


残った食糧を荷へ戻し。


再び、長い隊列を作り始めた。



完全な身体を取り戻したグラゼルは、疲労を残した兵達よりも軽やかな足取りで、先へ進む。



その違いを。


本人はまだ、大したものとは考えていなかった。



六千の軍勢が再び山の奥へ向かって動き始めた頃。



隊列の後方。


補給部隊の一角で。



一人の兵士が、積み直された荷を前に眉を寄せていた。



手元の帳簿へ記された数字と、食糧や水の容器を、一つずつ照合していく。



数は合っている。



帳簿へ記載されている物資は、現物として全て揃っていた。



予定された行程を。


予定された時間で進むことができれば。


山を越えるまで、不足する量ではない。



それにもかかわらず。


胸の内に生まれた違和感が消えなかった。



兵士は、もう一度。


帳簿の最初から、数字を確かめた。



間違いはない。



食糧も。


水も。


計算上は、十分にある。



では。


何がおかしいのか。



暫く数字を追い続けた末に。


兵士は、ようやく違和感の正体へ気づいた。



「……予備がない」



戦場で。


全てが予定通りに進むことなどない。



行軍が遅れることもあれば。


容器が破損することもある。



負傷者が増えれば、必要な水や薬も変わる。


通る予定だった道が使えず、思わぬ迂回を強いられる場合もある。



だからこそ。


百識のオルディンは、食糧にも水にも、必ず予定量とは別に予備を用意していた。



多すぎれば、行軍の妨げになる。


少なすぎれば、一つの想定外が、部隊全体の危機へ繋がる。



その均衡を見極め。


必要な余裕を確保することこそが、オルディンの役目だった。



出発前には。


補給隊長であるオルディン自身が、必ず数を確認する。



その予備が。


今回は、存在していなかった。



「食料も、水も……」



「どうかしたのか?」



背後から声をかけられ。


補給兵は振り返った。



そこには。


帝国軍の軍装を身につけた、一人の兵士が立っていた。



見覚えのない顔だったが。


その腕には、臨時伝令を示す布が巻かれている。



今回の行軍では、山中で連絡員や協力者が途中から合流する可能性がある。


それは出発前から、各部隊へ伝えられていた。



見知らぬ顔であることだけで。


疑う理由はなかった。



「いや」


「これを見てくれ」



補給兵は、帳簿を差し出した。



「何か足りないのか?」



「数そのものは合っている」


「山を抜けるまでに必要な分は、間違いなく揃っているんだ」



補給兵は、整然と積まれた荷へ視線を向けた。



「だが」


「予備がない」



「予備?」



「ああ」



補給兵は、帳簿を指で叩く。



「オルディン隊長なら、食料にも水にも必ず余分を用意する」


「戦場で、何が起こるか分からないからな」



「それなのに今回は」


「必要量しか、持たされていない」



伝令兵は帳簿を受け取ると、そこへ記された数字と、積まれた荷を順番に見比べた。



すぐに答えを返すことはなく。


補給兵と同じように、何が起きているのかを考えているように見えた。



やがて。


僅かに首を傾げる。



「今回も」


「いつもの戦場と同じなのか?」



「何?」



「普段であれば、予備は必要だろう」



伝令兵は、問いかけるような口調で言葉を続けた。



「敵と何日も向き合う戦なら、何が起きるか分からない」


「だが、今回の目的は、夜明けまでに山を抜けることだ」



補給兵は黙ったまま、その言葉を聞いていた。



「馬や荷車を使えない険しい山道を、六千人で進まなければならない」


「荷を増やせば、それだけ行軍は遅くなる」



「平地ならば、僅かな差で済むだろう」


「だが、この山道では、一人分の余分な荷が歩調を乱し、やがて隊列全体の遅れへ繋がる」



「だが」


「何か問題が起きた時に、予備がなければ――」



「山を越えた先には」


「集積所が用意されているんだろう?」



伝令兵は。


補給兵の言葉を遮らない程度の、静かな声で続けた。



「武器も、鎧も、追加の物資も」


「既に王国内へ、運び込まれている」



「ならば」


「ここで必要なのは、山を越えるまでの分だけだ」



補給兵は、再び物資へ目を向けた。



予定通りに進めば。


確かに足りる。



夜明けまでに山を抜けることができれば。


その先には、別の物資が待っている。



この山中だけを考えるのであれば。


予備を使う機会など、訪れないのかもしれない。



「それに」



伝令兵が。


何でもないことのように問いかける。



「オルディン隊長が」


「予備の確認を忘れると思うか?」



補給兵は。


すぐには答えられなかった。



あり得ない。



あのオルディンが。


補給の基本を忘れるはずがない。



休息中にドレヴァンが余分に取った携帯食さえ、帳簿から顔を上げることなく把握していた男だ。



そのオルディンが、予備を用意していないのなら。


忘れたのではない。



最初から。


持たせなかったのだ。



速度を落とさないため。


必要最低限の物資だけを選び。


余計な荷を、意図的に削った。



この作戦は。


僅かな遅れも許されない。



夜明けまでに北砦の背後へ到達できなければ。


作戦そのものの意味が失われる。



そう考えれば。


予備がないことにも、理由があった。



「……そうか」



補給兵は。


小さく息を吐いた。



「今回は、いつもの行軍とは違う」


「予備を持つことより、予定通り山を抜ける方が優先されたんだな」



伝令兵は。


その結論を自ら口にすることはなかった。



ただ。


補給兵が自分で辿り着いた答えを否定せず。


静かに、一度だけ頷いた。



「余計な荷を増やして、夜明けに間に合わなければ」


「予備があっても、意味がないか」



「戦場では」


「目的によって、必要なものも変わる」



「確かにな」



補給兵は。


自嘲するように笑った。



「疲れているらしい」


「こんな簡単なことにも、気づかなかった」



「いや」



伝令兵は。


その肩を軽く叩いた。



「違和感に気づくのは、補給を預かる者として正しい」


「ただ今回は、普段とは違う理由があった」



「それだけだ」



「そうだな」



補給兵は、帳簿を閉じた。



「助かったよ」


「ありがとな」



「気にするな」



伝令兵はそれだけ答えると。


動き始めた兵列の中へ、静かに紛れていった。



補給兵も。


残された荷を背負い直す。



予備はない。



だが。


それは、不足ではない。



作戦を成功させるため。


意図して削られたものだ。



そう考えれば。


何一つ、おかしなことはなかった。



少なくとも。



今はまだ。


そう信じることができた。



六千の軍勢は。


再び、山の奥へ進んでいく。



規則正しく響く足音。


乱れることのない隊列。



その秩序の中へ。


誰にも気づかれないまま。



最初の不協和音が。


静かに混ざり始めていた。



けれど。


その音はまだ。



誰の耳にも。


聞こえてはいなかった。


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