王国へ迫る影
ガルドス率いる帝国軍が。
北砦へ攻撃を開始する。
その少し前。
帝国第三皇子グラゼルは。
五千の精鋭と。
千の支援兵を率い。
帝国とローゼンバーグ王国を隔てる。
大山脈の麓へと到着していた。
空は。
既に夕暮れを迎えようとしている。
傾いた陽光が。
切り立った山肌を赤く染め。
その下へ広がる深い森には。
夜を先取りしたような。
濃い影が落ちていた。
風が吹くたび。
木々の葉が重なり合い。
ざわざわと。
低い音を立てる。
まるで。
山そのものが。
これ以上進むなと。
警告しているかのようだった。
ローゼンバーグ王国の北部を守る。
天然の要害。
大山脈。
麓から見上げても。
その頂は見えない。
幾重にも連なる岩峰が。
雲の中へ突き刺さり。
人の歩みを拒む急斜面が。
どこまでも続いている。
街道など存在しない。
騎馬が通れる道も。
荷車を進ませられる平地もない。
帝国が長きにわたり。
北砦を正面から攻める以外の手段を持てなかった理由が。
目の前にあった。
だが。
グラゼルが率いる軍勢に。
動揺は見られなかった。
兵士達は。
かつてヴァレリア騎士公国に属していた者達を中心とする。
選り抜きの精鋭。
騎馬と荷車は。
後方の野営地へ残してきた。
身につけているのは。
山中を進むための軽装と。
最低限の武器。
黒鉄重装兵団の兵士達も。
今は重厚な鎧を脱ぎ。
背負えるだけの荷を担いでいた。
その後ろには。
工作兵。
補給兵。
衛生兵。
斥候。
合わせて千人の支援部隊が続いている。
六千人もの軍勢。
それでも。
山麓へ響くのは。
風が木々を揺らす音と。
僅かな装備の擦れる音だけ。
誰一人。
無駄口を叩かない。
誰一人。
命令なく隊列を乱さない。
前方の兵が止まれば。
手信号が後方へ送られ。
六千の軍勢が。
一つの生き物のように。
静かに足を止める。
グラゼルは。
山の入口と思しき場所を見渡した。
鬱蒼と生い茂る草木。
絡み合った蔓。
人の背丈を超える茂み。
道と呼べるものなど。
どこにも見当たらない。
「どこに道があるのだ?」
グラゼルが。
傍らに立つ男へ問いかけた。
日に焼けた顔。
伸び放題の髭。
獣皮を継ぎ合わせた外套。
背には。
古びた弓を負っている。
地元の狩人。
ゼルクの報告によれば。
狩りだけではなく。
表立っては語れない荷を。
山の向こうへ運ぶ仕事にも。
手を染めていた男だという。
その男が。
大山脈を越える抜け道を知っている。
偶然得られたその情報から。
今回の作戦は始まった。
「ま、待ってくだせぇ」
狩人は。
額の汗を拭いながら。
慌てて周囲を見回した。
「確か」
「ここいらに……」
腰を屈め。
草を掻き分ける。
絡みつく蔓を払い。
低い枝の下へ潜り込み。
山肌に沿って。
少し先へ進んでいく。
やがて。
「あった」
狩人の声が上がった。
兵士達が。
その先へ視線を向ける。
草木の奥。
剥き出しになった土が。
細く。
山中へ続いていた。
二人が。
辛うじて横へ並べる程度。
長い年月をかけて。
人や獣の足に踏み固められた。
細い道だった。
道の両脇には。
背の高い草が生い茂り。
少し進んだだけで。
深い森の中へ消えている。
ロギウスが。
僅かに目を細めた。
「これが」
「大山脈を抜ける道だと?」
「元々は」
「あっしら猟師しか使わねぇ獣道だったんでさぁ」
狩人は。
何度も頭を下げる。
「けど」
「このご時世でしょう?」
「砦の関所を通れねぇ奴や」
「人に見られちゃ困る荷を運ぶ奴が」
「少しずつ使うようになりまして」
「それで」
「昔よりは道らしくなったんでさぁ」
グラゼルは。
山道の奥へ目を向けた。
木々と岩に遮られ。
数十歩先すら見通せない。
それでも。
人が繰り返し通った痕跡だけは。
確かに残されていた。
「六千が通れるのか?」
ロギウスが尋ねる。
狩人の顔が。
明らかに強張った。
「こ、このままじゃ無理です」
「途中には」
「一人ずつしか通れねぇ場所もありますし」
「崩れやすい斜面も」
「足場の悪い岩場もありやす」
ロギウスが。
グラゼルへ視線を向ける。
だが。
その答えを待つより先に。
一人の男が。
細い山道へ踏み込んだ。
斥候隊長。
山猫のゼルク。
山野を音もなく駆け。
僅かな痕跡から。
人や獣の動きを読み取る男。
ゼルクは。
道へ片膝をつき。
指先で。
踏み固められた土に触れた。
折れた枝。
擦れた岩肌。
草木の倒れた方向。
一つずつ。
確かめていく。
やがて。
道の先へ目を向けたまま。
静かに口を開いた。
「狩人の話に」
「嘘はありません」
「ここ数日のものだけでも」
「複数人が往来した痕跡が残っています」
グラゼルが尋ねる。
「軍を通せるか?」
「このままでは不可能です」
ゼルクは。
迷いなく答えた。
「ですが」
「工作兵を先頭へ置き」
「枝を払い」
「足場を補強し」
「狭い場所を広げながら進めば」
土を払い。
ゆっくりと立ち上がる。
「夜明けまでに」
「王国側へ抜けることは可能でしょう」
ロギウスが。
今度は工作兵達へ目を向けた。
「確認しろ」
「はっ」
数人の工作兵が。
直ちに山道へ入る。
岩を叩き。
地面の硬さを調べ。
木々の間隔や。
斜面の角度を確認する。
しばらくして。
先頭の工作兵が戻ってきた。
「通行可能です」
「幅の足りない箇所はありますが」
「その場で拡張できます」
「崩落の危険がある場所も」
「縄と杭で補強可能です」
「予定どおり進めば」
「夜明け前には反対側へ到達できるかと」
グラゼルの口元へ。
満足そうな笑みが浮かんだ。
「やはり」
「勝利の女神は」
「俺に微笑んでいるようだな」
その言葉に。
狩人だけが。
落ち着かなさそうに周囲を見回した。
グラゼルが。
男へ視線を向ける。
「お前」
「先に進め」
「へ?」
狩人が。
間の抜けた声を漏らした。
「い、いや」
「あっしは道の場所まで案内すれば」
「それで終わりだと……」
「成功報酬だ」
グラゼルの声は。
穏やかだった。
「王国側の出口まで案内した時点で」
「約束の金を支払う」
「そんな」
狩人の視線が。
周囲をさまよう。
逃げ道を探すように。
だが。
どこを見ても。
立っているのは。
ヴァレリアの精鋭達だった。
「ここまで来て」
「断ることはないな?」
グラゼルが。
僅かに笑う。
狩人の喉が。
大きく鳴った。
「ひ……」
「ひいっ……」
「わ、分かりました」
「案内」
「させていただきやす……」
狩人は。
何度も頭を下げ。
諦めたように。
山道へ向き直った。
グラゼルが。
片手を上げる。
「工作兵を前へ」
「ゼルク」
「お前は狩人と共に先導しろ」
「道を広げながら進む」
「補給部隊は中央」
「衛生兵は前後へ分けろ」
「斥候は左右と後方の警戒を怠るな」
「今夜中に」
「この山を越える」
命令が下された瞬間。
六千の兵士が。
一斉に動き始めた。
工作兵が。
鋸。
斧。
縄。
杭を運び出す。
前方では。
細い木が切り倒され。
張り出した枝が払われる。
足場の悪い場所には。
土と石が詰められ。
緩んだ斜面へ。
杭が打ち込まれていく。
狩人が見つけた細い獣道が。
瞬く間に。
軍を通すための侵入路へ。
姿を変え始めた。
その作業に。
混乱はない。
怒号も。
罵声もない。
何をするべきか。
誰もが理解している。
一本の縄を張る者。
足場を踏み固める者。
切り払われた枝を運ぶ者。
それぞれが。
互いの動きを妨げることなく。
正確に。
役目を果たしていく。
その様子を眺めていたロギウスのもとへ。
一人の伝令が。
駆け寄ってきた。
「報告します」
「ガルドス殿下の軍勢」
「北砦周辺への展開を完了」
「間もなく」
「攻撃を開始するとのことです」
「分かった」
ロギウスは。
短く答え。
伝令を下がらせた。
「ガルドス殿下達も」
「上手く働いてくださるようですね」
グラゼルが。
山道へ目を向けたまま答える。
「どう転ぼうとも」
「俺達のやることは変わらん」
「可能な限り」
「砦の戦力を削っていただきたいものです」
ロギウスの言葉に。
グラゼルが。
小さく笑った。
「話が」
「既に敗北を前提としているぞ」
「勝てるとお思いで?」
ロギウスは。
表情を変えずに問い返す。
グラゼルは。
北砦のある方角へ。
一度だけ視線を向けた。
山々に遮られ。
その姿を見ることはできない。
「あの砦は」
「騎兵だけで落とせる場所ではない」
「ましてや」
「今のローゼンバーグ王国に関する噂が事実なら」
「女王は」
「少なくとも無能ではない」
僅かに。
口元を歪める。
「ガルドスでは」
「勝てんだろうな」
「同感です」
ロギウスが頷く。
「ですが」
「ガルドス殿下が勝っていれば」
「我々は合流できる」
「戦いが続いていれば」
「背後から挟撃する」
「敗れていたとしても」
「一万の軍勢を退けた直後の砦なら」
「兵も設備も疲弊している」
「夜を耐え」
「勝利へ安堵した夜明け」
「そこを内側から攻めれば」
「北砦は落ちる」
「北砦が開けば」
「後続の帝国軍も」
「王国へ進入できる」
「勝っていれば、合流」
「戦っていれば、挟撃」
「敗れていれば」
「我々が落とす」
グラゼルが。
満足そうに頷いた。
「そのための」
「一万だ」
「だが」
「一つくらいは」
「こちらの手間を減らしてもらいたいものですな!」
突然。
二人の会話へ。
大きな声が割り込んだ。
声の主は。
第一兵長。
朱槍のドレヴァン。
幾度もの戦場で。
振るった槍を敵の血に染め。
いつしか。
朱槍の異名で呼ばれるようになった男だった。
「一万も連れて行ったんだ!」
「壁の一枚くらい」
「壊しておいてもらわねぇと」
「割に合わんでしょう!」
豪快な笑い声が。
山麓へ響く。
その隣で。
第二兵長が。
呆れたように肩をすくめた。
隼のレグナス。
一度の煌めきの中で。
二度の斬撃を放つ。
ヴァレリア屈指の剣士。
「壁を壊されては」
「俺達が砦へ入る時に困るだろう」
「なら門だけ残させろ!」
「ガルドス殿下に」
「そこまで器用な仕事を期待するのか?」
ドレヴァンとレグナスが。
互いの顔を見る。
そして。
声を上げて笑った。
つい先ほどまで。
僅かな物音すら立てず。
整然と並んでいた精鋭達とは思えない。
荒々しく。
遠慮のない会話。
周囲にいた古参兵達からも。
低い笑い声が漏れる。
「笑っている場合ではない」
落ち着いた声が。
その空気を遮った。
補給隊長。
百識のオルディン。
食料。
水。
武器。
薬。
兵士の疲労。
進軍速度。
軍を動かすすべての流れを。
一から百まで見通すと称される男。
オルディンは。
分厚い帳簿を閉じながら。
ドレヴァンへ。
冷たい視線を向けた。
「貴様が」
「荷の中へ忍ばせていた酒樽のせいで」
「出発が遅れるところだった」
「なに!?」
ドレヴァンの笑いが止まる。
「気づいていたのか!?」
「私の管理する荷に」
「勝手な物を入れて」
「気づかれないと思うな」
「山を越えた後の祝い酒だ!」
「勝ってから言え」
周囲から。
再び笑いが起こった。
オルディンは。
その声を気にすることなく。
グラゼルへ向き直る。
「補給は万全です」
「夜明けまで進み続けたとしても」
「問題はありません」
「山を越えた先には」
「黒鉄重装兵団の装備も」
「既に運び込んであります」
「武装を整え次第」
「北砦への攻撃が可能です」
「さすがは百識だな」
グラゼルが言うと。
オルディンは。
静かに頭を下げた。
その横で。
ゼルクが。
開かれつつある山道を見つめながら口を開く。
「誰も越えられぬと言われた山へ」
「六千の軍を通す」
「この抜け道を」
「作戦へ組み込まれたことも含め」
グラゼルへ。
僅かな笑みを向ける。
「やはり殿下こそ」
「皇帝に相応しい器でしょう」
「お前まで世辞を言うのか?」
「世辞なら」
「もう少し上手く言います」
レグナスが。
小さく吹き出す。
ドレヴァンは。
ゼルクの背中を強く叩いた。
「山猫がそんなことを言うとはな!」
「今夜は雪でも降るんじゃねぇか!」
「降った場合」
「最初に崖から落とすのはお前だ」
「言うようになったじゃねぇか!」
再び。
豪快な笑い声が上がる。
長く。
同じ地で育ち。
幾度もの戦場を。
共に生き抜いてきた者達。
上官と部下。
皇子と兵士。
そこには。
確かな上下関係がある。
だが同時に。
家族にも似た。
遠慮のなさがあった。
グラゼルは。
ドレヴァン。
レグナス。
ゼルク。
オルディン。
長年。
自分を支えてきた重臣達を見回す。
そして。
楽しげに笑った。
「頼もしい奴らよ」
その時。
前方の工作兵から。
合図が送られた。
道の入口が。
軍を通せる幅まで広がったのだ。
グラゼルが。
右手を上げる。
その瞬間。
笑い声が。
消えた。
ドレヴァンが槍を持ち直す。
レグナスが隊列へ戻る。
オルディンが補給兵へ指示を出し。
ゼルクが狩人と共に。
軍の先頭へ立つ。
先ほどまでの。
荒くれ者達の姿はない。
そこにいるのは。
一つの命令で動く。
ヴァレリアの精鋭騎士団だった。
「では」
グラゼルは。
木々の奥へ続く。
薄暗い山道を見据えた。
「全軍」
「行軍を開始しろ!」
号令が。
山麓へ響き渡る。
狩人が。
怯えた様子で歩き始める。
そのすぐ後ろを。
山猫のゼルクが進む。
工作兵達が。
二人の後へ続き。
切り払われた枝を退け。
足場を固めながら。
さらに奥へ。
道を開いていく。
続いて。
五千の精鋭と。
千の支援兵が。
次々と。
大山脈へ足を踏み入れた。
夕暮れの光が届くのは。
ほんの僅かな距離まで。
数十歩も進めば。
頭上を覆う枝葉によって。
空は見えなくなった。
冷たい空気が。
鎧の隙間へ入り込む。
湿った土の匂い。
苔むした岩。
遠くで流れる。
水の音。
軍勢の足音は。
深い森に吸い込まれ。
後方にいた兵士達から。
先頭の姿は。
すぐに見えなくなった。
それでも。
彼らは迷わず進んだ。
前には。
山を知る狩人がいる。
その後ろには。
誰よりも山野に詳しい。
山猫のゼルクがいる。
道は確認された。
物資は揃っている。
山を越えた先には。
武器も用意されている。
そして。
夜が明ければ。
北砦を背後から襲い。
ローゼンバーグ王国への道を。
開くことができる。
誰もが。
そう信じていた。
狩人は。
六千の帝国兵を先導し。
深い山の奥へ。
歩みを進めていく。
その道の先に待つものが。
約束された栄光なのか。
それとも。
最初から。
彼らを迎えるために用意されていた。
何かなのか。
帝国軍は。
まだ。
知る由もなかった。
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