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転調、クレッシェンド

休息を終え。


兵達が再び行軍の準備を整え始めた頃だった。



前方の森から、一人の男が姿を現した。



「ゼルク」



グラゼルが声を掛ける。



ゼルクは肩へ付いた葉を払いながら、何事もなかったように一行のもとへ戻ってきた。


休息の間に、一人で先の様子を確かめに行っていたのだ。



「どうだった?」


「二つ先の分岐までは見てきた」


ゼルクは顎で進行方向を示した。


「足場の悪い場所はいくつかある。だが、工作兵を先に回せば通せる程度だ」


「王国側の気配は?」


ロギウスが尋ねる。



「ねえな」


ゼルクは即答した。


「少なくとも、この道へ気づいてる奴はいねえよ」



「そうか」



グラゼルは満足げに頷いた。



それ以上、誰もゼルクへ問いを重ねなかった。



山猫のゼルク。


東方の戦場でも幾度となく敵地を駆け、誰よりも早く道を見つけてきた男だ。


一人で偵察へ出て。


必要な情報だけを持って戻る。



いつものことだった。



「行軍を再開する」



命令が伝わり。


六千の軍勢が、再び山の奥へと動き始めた。




初めのうちは。


何も変わらなかった。



月明かりの中。


兵達は黙々と山道を進んでいく。



だが、しばらくすると。



「うおっ――!」



短い声と共に、一人の兵士が前のめりに倒れた。



「どうした?」


「あ、ああ……悪い」



兵士は顔をしかめながら立ち上がった。


足元には、半分ほど土へ埋もれた小石がある。



「こんなもんに躓いたのか?」


「足元見ろよ」



周囲から小さな笑いが起こった。



ただ、それだけのことだった。



長時間歩き続けているのだ。


疲れれば足も上がらなくなる。


ましてや夜の山道。


石の一つに躓くことなど、珍しくもない。



隊列は再び進み始めた。



だが。


少しして、また一人。



今度は、道を横切る木の根へ足を取られた。



さらにその先では、道の端へ足を置いた兵士の足元が突然崩れた。


幸い、隣を歩いていた兵が腕を掴み、崖下への転落は免れたものの、二人とも地面へ倒れ込み、後続の足が止まる。



「工作兵!」


誰かが怒鳴った。


「ここ、確認してなかったのか!」



呼ばれた工作兵が戻ってくる。


崩れた足場を調べ、僅かに眉を寄せた。



「……おかしいな」


「何がだ?」


「この辺りは確認したはずなんだが」



「見落としたんだろ」



そう言われれば、反論することもできなかった。



夜だ。


山だ。


兵も工作兵も疲れている。



全ての危険を見つけ、取り除くことなど最初から不可能なのだから。



だが。


それから先も、似たようなことが続いた。



処理したはずの倒木から枝が道へ張り出している。


それを避けた兵がぬかるみに足を取られる。


荷を固定していた紐が突然切れる。


踏みしめた石が転がり、後ろの兵を巻き込む。



一つ一つなら。


ただの事故だった。



けれど。


あまりにも多い。



「また止まったのか?」



前方で、グラゼルが苛立ったように振り返った。



ロギウスが後方から届いた報告へ目を通す。



「足場が崩れ、三名が負傷しました。いずれも軽傷とのことです」


「ならば進ませろ」


グラゼルは即答した。


「夜明けまでに山を越えねばならぬ」


「些細な事故の度に足を止めていては、間に合わん」



ロギウスは僅かに黙った。



言っていることは間違っていない。


だが、兵達の歩調は明らかに落ち始めていた。



「殿下」


「多少、速度を落とした方がよろしいかと」


「負傷者だけではありません。兵達にも疲労が見え始めています」



「この程度でか?」



グラゼルは、思わずそう返していた。



そして。


自分の口から出た言葉に、ほんの僅かに違和感を覚える。



足は軽い。


肩も重くない。


喉も乾いていない。


空腹も、眠気もない。



倒木によって傷めた左手首さえ、包帯の下では負傷したことなどなかったかのように完全な状態へ戻っている。



女神の祝福。



その恩寵によって、グラゼルの身体には疲労というものが存在していなかった。



だからこそ。


目の前の兵達が感じている苦痛が。


以前よりも、少しだけ遠くなっていた。



「精鋭とはいえ、人です」


ロギウスは静かに言う。


「山へ入ってから休息も僅か。足場の悪化も重なっております」


「分かっている」



グラゼルは前を向いた。



だが。


立ち止まりたくはなかった。



夜明けまでに山を越える。


北砦の背後へ出る。


帝国軍を勝利へ導く。



そして。


女神との賭けに勝つ。



その先にあるものを、今のグラゼルは以前よりも鮮明に思い描くことができた。



皇帝。


帝国。


大陸。



やがては、それすら越えて。



女神に認められた者として、世界の全てを手にする未来。



ここで足を止めることは、その未来から遠ざかることのようにすら感じられた。



「進ませよ」


グラゼルは命じた。


「可能な限り速く」



「……承知いたしました」



命令が伝えられた。



疲労した兵達は、再び歩調を速める。



だが。


全員が同じ速度で歩けるはずもなかった。



前へついていく者。


少しずつ遅れる者。


負傷者を支える者。


工作兵の作業によって足止めされる者。



六千人の長い隊列は、次第にさらに長く伸び始めていった。



「俺、ちょっと後ろ見てくるわ」



ドレヴァンが朱槍を肩へ担ぎながら言った。



「随分伸びてやがる」


「このままじゃ、後ろの連中が置いていかれるぞ」



レグナスが横目で見る。



「お前が行って、余計に騒がしくしなければいいがな」


「うるせえ」


「俺が行った方が元気出るんだよ」


「どういう理屈だ」


「俺が元気だからだ」



レグナスが呆れたように息を吐く。



いつものやり取りだった。



ドレヴァンは豪快に笑うと、そのまま後方へ向かって歩いていった。




それから。


さほど時間は経たなかった。



轟音が。


山を揺らした。



一瞬。


大地そのものが沈んだのかと思うほどの音だった。



「何だ!?」


「後ろだ!」



兵達が一斉に振り返る。



遥か後方。


木々の向こうから、大量の土煙が月明かりの中へ立ち上っていた。



岩が転がる音。


木々が折れる音。


それに続いて、人々の叫び声が響く。



「全軍停止!」



ロギウスが即座に叫んだ。



報告は、ほどなく届いた。



「落盤です!」


「後方の道が完全に崩落!」


「隊列が分断されました!」



「規模は?」


「現在確認中ですが……およそ千名!」


「後続約千名が、崩落の向こう側へ取り残されています!」



グラゼルの表情が険しくなる。



「指揮官は?」


「朱槍のドレヴァン様が、後方に残っております!」



「ドレヴァンが……」



レグナスの表情から、先ほどまでの軽さが消えた。



ロギウスはすぐに命じる。



「工作兵を回せ」


「復旧に必要な時間を算出しろ」


「負傷者の数も確認させろ」



「はっ!」



伝令達が走り出す。



しかし。


崩落は予想以上に大きかった。



岩。


土砂。


倒れた木々。



道そのものが、広い範囲にわたって埋まっている。



軍勢を再び通せる状態へ戻すには、相当な時間が必要になる。



ただ。


崖際には人一人が辛うじて通れるだけの足場が残っていた。



軍を通すことはできない。


荷を運ぶことも難しい。



それでも、身軽な伝令が命懸けで行き来する程度ならば可能だった。



やがて。


一人の伝令兵が、本隊側へ戻ってきた。



「報告!」


男は荒い息を整えながら、グラゼルの前へ膝をつく。



「ドレヴァン様より伝言です」



「申せ」



「『こっちは俺がまとめる』」


「『道が開き次第、必ず追いつく』」


「そして――」



伝令兵が顔を上げる。



「『俺達に構わず、殿下達は先へ行け』と」



グラゼルは。


崩落した後方へ視線を向けた。



ロギウスが口を開く。



「殿下」


「ドレヴァンの意図は理解できます」


「ですが、私は一度ここで合流を待つべきかと考えます」



グラゼルが振り返る。



「千名は少なくありません」


ロギウスは続けた。


「補給兵、工作兵も相当数が後方へ残っております」


「ただでさえ、行軍には予定以上の遅れが出ている」


「これ以上、軍を分散させた状態で未知の山道を進むのは危険です」



正論だった。



本来ならば。


一度、態勢を整えるべき場面だった。



「復旧には、どれほどかかる?」



グラゼルが尋ねる。



近くにいた工作兵が答えた。



「分かりません」


「一刻では難しいかと」


「場合によっては、それ以上――」



一刻。


それ以上。



グラゼルは月を見上げた。



時間が。


失われていく。



「殿下」


ロギウスが重ねる。


「夜明けへ多少遅れたとしても、戦力を保つことを優先すべきです」



グラゼルは、すぐには答えなかった。



以前の自分なら。


どうしただろう。



そんな考えが、ほんの一瞬だけ頭をよぎる。



だが。


身体は疲れていない。



まだ歩ける。


まだ進める。



そして、ここで立ち止まる時間が。


ひどく惜しく感じられた。



何より。



ドレヴァン自身が。


先へ行けと言っている。



その言葉は、今のグラゼルが欲していた答えと、あまりにも綺麗に重なっていた。



「進む」



ロギウスが顔を上げる。



「殿下」


「ドレヴァン自身が、先へ行けと言っている」


「ここで我々まで止まれば、奴が後方を引き受けた意味がなくなる」



「しかし――」


「千名は失われたのではない」


グラゼルは言い切った。


「道が開けば追いつく」


「本隊には、まだ五千近い精鋭がいる」



そして。


前方の闇へ視線を向ける。



「夜明けまでに山を抜ける」


「作戦を続行する」



ロギウスは、しばらく何も言わなかった。



理屈そのものは。


間違っていない。



ドレヴァンも。


同じ判断をしている。



ならば。



「……承知いたしました」



ロギウスは頭を下げた。



「本隊、行軍を再開します」



再び命令が伝わる。



五千人ほどとなった本隊は。


ドレヴァン達を崩落の向こう側へ残し、さらに山の奥へ進み始めた。




だが。


落盤を境に。


何かが変わった。



道が。


急に悪くなった。



先ほどまで以上に、兵達が足を取られる。



確認したはずの石。


処理したはずの枝。


安全だと判断した足場。



一歩踏み出した瞬間に、それらが次々と兵達の歩みを阻んだ。



「またか!」


「前を詰めろ!」


「止まるな!」



声が飛ぶ。



だが。


急かせば急かすほど、事故が増える。



疲労した兵達の足が乱れる。


荷を落とす。


誰かが躓けば、後ろの者が巻き込まれる。



速く進むために急かしているはずなのに。


行軍は、逆に遅れていった。



グラゼルの苛立ちは、少しずつ強くなる。



「何をしている!」


「精鋭だろう!」


「この程度の道で、いつまで足を止める!」



その声を聞いた兵達が、無言で歩調を速める。



だが。


彼らの身体には。


グラゼルとは違い、疲労が残っている。



そして。


一人。


また一人と。



遅れる者が出始めた。



最初は。


誰も気にしなかった。



「おい、ヘルムは?」


「さっきまで後ろにいたぞ」


「負傷者を手伝ってんじゃねえのか?」



それで終わった。



少し後。



「第五班、一人足りないぞ」


「伝令に回ったんじゃないか?」


「聞いてねえぞ」



それも。


深く考える者はいなかった。



数千人が山中を移動しているのだ。


負傷者を支える者。


工作兵を手伝う者。


伝令へ回される者。



人員の位置が多少入れ替わることなど、珍しくもない。



だが。


さらに一人。



また一人。



「……なあ」



一人の兵士が、歩きながら後ろを振り返った。



「さっき」


「俺の後ろにいた奴、どこ行った?」



答える者はいなかった。



その頃になると。


兵達は足元だけではなく、時折周囲の森へ目を向けるようになっていた。



木々。


岩陰。


闇。



月明かりの届かない場所。



何もいない。



ただの森だ。



それなのに。



何かがいる。



そんな根拠のない感覚だけが、兵達の間へ少しずつ広がっていった。




そして。


その不安は。


やがて、否定できない形を持った。



「……待て」



一人の工作兵が、突然立ち止まった。



「どうした?」



男は答えず。


道の端へしゃがみ込む。



そこには。


木の根を覆うように敷かれた数枚の板があった。



何の変哲もない。


粗末な板。



だが。


工作兵の顔から、見る見る血の気が引いていく。



「俺が敷いた」



「何?」



「これ」


工作兵が震える指で板を指した。


「さっき」


「俺がここへ敷いたんだ」



別の工作兵が近づき。


板を裏返す。



そこに残された、小さな削り跡を見た。



「……間違いない」


「俺が削った跡だ」



周囲から。


声が消えた。



彼らは。



戻っていた。



自分達が。


既に一度通った場所へ。




報告は、すぐに前方へ届いた。



「同じ場所へ戻っただと?」



グラゼルの声が低くなる。



「はい」


ロギウスも険しい表情をしていた。


「工作兵が、自分達の補修箇所であると断定しています」



グラゼルはゼルクを見る。



「どういうことだ」



ゼルクは答えず。


地面へしゃがみ込んだ。



土を見る。


木を見る。


岩を見る。



暫くして。



「……あの狩人」



低い声で呟いた。



「何か分かったか?」


「印だ」



ゼルクは、木の幹へ残された浅い傷を示した。



「ここまで、あいつから教わった印を辿ってきた」


「俺も確認してた」


「だから道そのものは間違ってねえと思ってたんだが……」



「なら、何故戻った」



ゼルクが舌打ちする。



「印の読み方を一つ間違えて教えやがったか」


「それとも」



僅かに目を細める。



「最初から、嘘を混ぜてやがったかだ」



兵達の間に、ざわめきが広がった。



だが。


ゼルクを疑う声は一つもなかった。



山猫のゼルク。



幾度もの戦場を共にした仲間。


東方の山々を、何度も軍と共に越えてきた男。



彼が間違えたのではない。



姿を消した。


あの狩人が嘘をついたのだ。



「ここからは」


ゼルクが立ち上がった。


「奴の印は使わねえ」



暗い山を見渡す。



「地形と俺の勘だけで抜ける」


「ただし」



その表情が少しだけ険しくなる。



「今までみてえな速度じゃ進めんぞ」



ロギウスは即座に頷いた。



「致し方あるまい」


「再び同じ場所へ戻るよりはいい」


「確実に進め」



「任せろ」



だが。



グラゼルだけは、月を見上げていた。



「どれほど遅れる?」



ゼルクが振り返る。



「分からん」


「分からぬ?」


「山ってのはそういうもんだ」


ゼルクは答える。


「目印なしで、夜中に未知の道を抜ける」


「下手に急げば、また同じ場所へ戻るぞ」



グラゼルの口元が僅かに歪んだ。



落盤。


分断。


事故。


道迷い。



時間ばかりが奪われていく。



「可能な限り急げ」



「殿下」


ロギウスが声を掛ける。



「分かっている!」



グラゼルは、思った以上に強い声で返した。



一瞬。


周囲が静まる。



グラゼル自身も、僅かに目を見開いた。



だが。


すぐに前を見る。



「夜明けまでに抜けなければ」


「この作戦の意味が失われる」



それも。


間違った言葉ではなかった。



だから。


誰も、それ以上は言えなかった。




行軍は続いた。



以前より遅く。


慎重に。



それでも確実に。


時間だけを消費しながら。




やがて。


別の問題が、現実のものとなった。



「……足りない」



補給部隊で、一人の兵が呟いた。



オルディンが振り返る。



「何がだ」


「水です」


「食糧も」



兵士は慌てて言葉を付け加えた。



「いえ、今すぐ不足するわけではありません」


「予定通り山を抜けていれば、十分な量です」


「ですが……」



帳簿を示す。



「この遅れが続けば」


「持ちません」



オルディンは帳簿を受け取った。



数字を見る。



計算する。



もう一度。



「……そんなはずはない」



低い声だった。



「私は遅延も考えて、予備を用意した」



戦場で。


予定通りに物事が進むことなどない。



だからこそ。


食糧にも。


水にも。


薬にも。



必ず余裕を持たせる。



それが。


百識のオルディンだった。



「予備が」


補給兵が言う。


「ないんです」



オルディンは帳簿を睨みつける。



数字は合っている。



今ここにある物資と。


記録上の数字は。



何一つ食い違っていない。



それなのに。


余裕だけがない。



「おかしい……」



その時。



「後続ではありませんか?」



横から声がした。



一人の伝令兵だった。



落盤以降。


前後の連絡を担うため、山中を動き回っている兵の一人。



オルディンが顔を上げる。



「何?」


「物資です」



伝令兵は、当然の可能性を確認するような口調で言った。



「後続には、補給兵も多く残っています」


「落盤の時には隊列もかなり伸びていました」


「物資も、相当数あちら側へ偏っていたのではありませんか?」



オルディンは黙った。



確かに。



後方にも補給兵はいた。



荷も、全てが一箇所へ集められていたわけではない。



落盤が起きた時。


誰がどの荷を持っていたのか。



そこまで確認する余裕はなかった。



「今こちらにある分が、帳簿と一致しているのでしたら」


伝令兵は続ける。


「不足したのではなく」


「予備の多くが、ドレヴァン様達の側へ残っただけでは?」



オルディンは。


再び帳簿を見る。



筋は通っていた。



自分が予備を用意していなかったのではない。



落盤によって。


軍と共に、物資まで分断された。



それならば。



説明がつく。



「……そうか」



オルディンは小さく息を吐いた。



「落盤の混乱で」


「物資の偏りまで確認していなかったか」



伝令兵は。


何も言わなかった。



ただ。


オルディン自身が辿り着いた答えを。


静かに肯定するように頷いた。



「当面は配給を絞る」


オルディンが命じる。


「後続と合流するまでだ」


「水も食糧も無駄にするな」



補給兵達が頷いた。



伝令兵も。


その場を離れていく。



誰も。


呼び止めなかった。




予備は消えたのではない。



崩落の向こう側に。


残っている。



ドレヴァン達と合流すれば。


全て元へ戻る。



そう考えれば。


何もおかしくはなかった。



五千の軍勢は。


再び山の奥へ進んでいく。



道に迷い。


仲間を失い。


食糧と水に余裕を失いながら。



それでも。



まだ。


前へ進める理由だけは。



残されていた。


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