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バルディア帝国

夜明け前。


バルディア帝国宮殿。


皇帝のみが使用を許される大会議室に、重い鐘の音が響いていた。


帝国の緊急招集を告げる鐘。


戦争。


反乱。


皇族の死。


国家を揺るがす異変が起きた時にのみ、鳴らされるものだった。


長大な卓の最奥。


巨大な帝国旗を背にして。


皇帝ガルディオス・バルディアが座っていた。


灰色の髪。


鋭い眼光。


老境へ差しかかりながらも衰えを感じさせない、鍛え上げられた大柄な身体。


剣と鉄によって帝国領を広げ続けてきた。


バルディア帝国の皇帝だった。


その隣には、第一皇妃が座っている。


通常であれば。


皇妃が軍議に出席することはない。


だが。


今回、神罰を受けた第二皇子バルカーボは。


彼女の実子だった。


「それで」


ガルディオスが口を開く。


低い声が、静まり返った会議室へ広がった。


「バルカーボは、どうなっている」


報告のために呼ばれた神官長が、深く頭を下げた。


「現在は、太陽神殿の奥にて休まれております」


「休んでいる?」


第一皇妃が鋭く問い返す。


「昨夜、あれほど苦しんだというのに?」


「夜明けと共に、症状は収まりました」


「傷は」


「ございません」


「精神は」


「今は、落ち着きを取り戻されております」


神官長の答えを聞き。


第一皇妃は、わずかに息をついた。


しかし。


神官長は続ける。


「ただし」


「昨夜味わわれた苦痛を、すべて覚えておられます」


第一皇妃の表情が強張った。


「そして」


神官長の声が震える。


「今夜も、同じことが起きる可能性が極めて高いかと」


卓を挟み。


帝都に残る皇子達が並んでいた。


第三皇子。


グラゼル・バルディア。


現在の皇位継承権第一位。


戦死した第一皇子ヴォルガンに代わり。


帝国軍を背負う立場に最も近い男。


精悍な顔立ち。


厚い胸板。


軍服の上からでも分かる、鍛え抜かれた身体。


皇帝によく似た鋭い眼差しで、神官長を見据えていた。


その隣には。


第五皇子ロギウス・バルディア。


兄のグラゼルよりも細身で。


軍人というより、文官を思わせる容貌をしている。


だが。


帝国軍の補給と移動計画を管理し。


幾つもの戦線を支えてきた実務家だった。


ロギウスの前には。


すでに幾つもの書類が広げられている。


さらに、その隣。


第六皇子ザルガン・バルディア。


前線経験を持つ皇子。


武勇も軍才も。


皇子として恥じるほど低くはない。


ただ。


兄達のように。


帝国の勝利を疑わない人間ではなかった。


戦場で人が死ぬところを。


何度も見てきた。


それゆえに慎重。


悪く言えば臆病。


帝国軍では。


その二つを、しばしば同じ意味で使っていた。


そして。


第七皇子ガルドス・バルディア。


バルカーボと同じく、第一皇妃から生まれた皇子。


兄よりも若く。


兄とは対照的に、武勇を好む武闘派だった。


卓の上で拳を握りしめ。


いつでも立ち上がれるよう、浅く椅子へ腰かけている。


末弟である第八皇子ユーリスの姿はなかった。


生まれつき身体が弱く。


このような夜明け前の緊急会議へ出席できる状態ではない。


今も宮殿の離れにある自室で、床に伏していた。


「確認する」


ロギウスが書類から顔を上げた。


「第二皇子を襲った者は、三名の女」


「はい」


「いずれも、ローゼンバーグ王国の者を名乗った」


「殿下のお話では」


神官長が答える。


「クロエ」


「リン」


「セリア」


「その三名であったとのことです」


ロギウスは羽根ペンを動かす。


「侵入経路は」


「不明です」


「宮殿の門を通った記録は」


「ございません」


「城壁を越えた痕跡は」


「発見されておりません」


「転移魔法の痕跡は」


神官長は言葉に詰まる。


「宮廷魔法使いにも調べさせましたが」


「何も残されていないと」


ロギウスの手が止まった。


「帝国宮殿の最奥へ侵入し」


「皇子一人を、外から隔絶された空間へ連れ去り」


「神罰を与え」


「誰にも気づかれず帰還した」


「そして」


ロギウスは神官長を見る。


「痕跡は一切ないと」


「その通りです」


会議室に。


短い沈黙が落ちた。


「くだらん」


それを破ったのは。


第三皇子グラゼルだった。


「何がくだらないのです」


第一皇妃が睨みつける。


「誤解なさらぬよう」


グラゼルは落ち着いたまま答えた。


「バルカーボ兄上が受けた苦痛を、くだらないと言ったのではありません」


「敵の行動です」


「帝国皇子一人を脅すために」


「神の力を使った」


グラゼルの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。


「弱小国らしい、陰湿な手段です」


会議室の隅に控えていた老神官が。


わずかに顔を上げた。


神官長とは別に呼ばれていた。


バルカーボへ刻まれた神意を、実際に見た男だった。


「殿下」


老神官が静かに告げる。


「禍津神の御力は、王国の者が道具として使ったものではございません」


「何?」


「あれは」


老神官の喉が震える。


「人が神の名を利用したのではない」


「禍津神御自身が」


「第二皇子殿下へ、神罰を下されたのです」


グラゼルの目が細くなる。


「神が直接、手を下したと?」


「少なくとも」


老神官は答えた。


「第二皇子殿下の魂には」


「人の術ではあり得ぬほど濃厚な神意が刻まれております」


「それは呪いではございません」


「肉体を元へ戻し」


「精神が壊れることを防ぎ」


「死による逃避すら許さぬ」


「神より与えられた、祝福です」


「祝福?」


ガルドスが鼻で笑った。


「兄上が床を転げ回るものを」


「祝福と呼ぶのか」


「神にとっての恩恵が」


老神官はガルドスを見る。


「人にとっての慈悲とは限りません」


ガルドスの笑みが消えた。


第一皇妃が、強く卓を叩いた。


「その祝福とやらを解きなさい」


「できませぬ」


「なぜです」


老神官は深く頭を垂れた。


「私には」


「神の御業を消し去るほどの力はございません」


「ここは太陽神を祀る帝国の神殿でしょう」


第一皇妃が老神官を睨む。


「神殿の中でさえ、防げなかったというのですか」


「はい」


老神官は、それを認めた。


「我らが神殿に宿す力と」


「神御自身の意思とでは」


「比べることすらできませぬ」


第一皇妃が唇を噛む。


「では」


皇帝ガルディオスが尋ねた。


「バルカーボを殺せばどうなる」


神官達の空気が凍りついた。


第一皇妃が皇帝を見る。


「陛下?」


「死すら許さぬ祝福だと言った」


ガルディオスの表情は変わらない。


「ならば」


「首を落とそうと」


「心臓を貫こうと」


「死ぬことはできぬのか」


老神官は答えるまでに。


長い時間を要した。


「恐らくは」


「殺すこと自体は、可能でしょう」


「何?」


「その時には、命を落とします」


老神官は震える手で、杖を握り直した。


「しかし」


「第二皇子殿下に刻まれた祝福は」


「殿下の一日を」


「輪廻から切り取っております」


誰も、その言葉の意味を理解できなかった。


老神官は説明を続ける。


「祝福が刻まれた時より」


「一日が終わるまで」


「その時間だけが、一つの輪として閉じられている」


「その間に」


「どれほど傷を負おうと」


「心が壊れようと」


「命を落とそうと」


「朝を迎えれば」


「切り取られた輪廻が再び始まる」


第一皇妃の顔から、血の気が引く。


「では」


「バルカーボは……」


「祝福を受けた時の肉体と精神へ戻されます」


老神官は答えた。


「死も」


「老いも」


「傷も」


「その日の終わりには、すべてなかったことになる」


「ならば」


グラゼルが腕を組む。


「兄上は死なぬということか」


「ある意味では」


老神官は答えた。


「不老不死の祝福と呼べるでしょう」


だが。


その言葉を口にする老神官の顔には。


祝福を語る者の喜びなどなかった。


「ただし」


「苦痛の記憶だけは残される」


「毎夜」


「定められた時刻に神罰を再び味わい」


「どれほど壊れようと」


「朝には元へ戻る」


「死ぬことも」


「狂うことも」


「老いて終わりを迎えることもできぬまま」


「同じ一日を繰り返す」


会議室から。


完全に音が消えた。


それは。


人が望み続けてきた不老不死とは。


あまりにもかけ離れていた。


終わりのない生ではない。


終わることを許されない罰だった。


第一皇妃の指が震える。


「いつまで」


「いつまで、それが続くのです」


「分かりませぬ」


老神官は首を横に振る。


「禍津神が」


「祝福を解かれるまで」


第一皇妃は。


その答えを聞き。


目を閉じた。


バルカーボは。


皇帝や皇妃がどれほど望もうとも。


人の手では救えない。


「父上」


グラゼルが皇帝へ向き直る。


「議論する必要はありません」


「ローゼンバーグ王国による」


「帝国皇族への攻撃です」


「神が直接関与していようと」


「いまいと」


「帝国の威信を傷つけられた事実に、違いはない」


ガルディオスは無言のまま。


息子を見つめる。


「王国を滅ぼし」


グラゼルは続けた。


「女王を帝都へ引きずり出すべきです」


「待ってください」


声を上げたのは、ロギウスだった。


グラゼルが横目で見る。


「何だ」


「分からないことが多すぎます」


ロギウスは書類を一枚取り上げる。


「ローゼンバーグ王国」


「数年前まで、滅亡寸前だった小国です」


「総兵力は五千にも満たない」


「国土も狭く」


「帝国へ正面から対抗できる軍事力はない」


「それが?」


「その国が」


ロギウスは淡々と告げる。


「帝国宮殿へ侵入し」


「皇子を襲い」


「禍津神の神罰を引き起こした」


「これまで集めた情報と」


「目の前で起きた事実が一致していません」


「弱小国であることと」


「無力であることは」


「同義ではありません」


グラゼルが腕を組んだ。


「ならば」


「怯えて見逃せと?」


「そうは申しておりません」


ロギウスは首を横に振る。


「攻めるのであれば」


「相手を知るべきだと言っているのです」


「女王エミリアが即位してから」


「ローゼンバーグ王国では、急速な復興が進んでいる」


「飢饉は収まり」


「街道が整備され」


「周辺の村々から、民が戻り始めている」


「さらに」


ロギウスは次の書類へ目を落とす。


「禍津神を正式に祀り始めた」


「神を祀った程度で」


ガルドスが吐き捨てる。


「滅びかけた国が、帝国に勝てるとでも?」


「その神が」


ザルガンが初めて口を開く。


「宮殿の奥まで入ってきた」


ガルドスが睨みつける。


「何が言いたい」


「そのままだ」


ザルガンは視線を逸らさない。


「門も」


「城壁も」


「見張りも」


「何の役にも立たなかった」


「兄上を襲った者達は」


「帝国のどこへでも入れるのかもしれない」


会議室の空気が。


一段、重くなる。


「戦う前から怯えているのか」


グラゼルが言った。


「ザルガン」


「見えない敵を恐れるのは」


ザルガンは静かに答える。


「兵として、当然のことです」


「恐れているだけでは勝てん」


「恐れを知らぬ者は」


ザルガンの声は変わらない。


「勝つ前に死にます」


ガルドスが椅子を蹴るように立ち上がった。


「だから帝国の皇子が」


「小国一つに震えて引き下がるのか!」


「誰も引き下がるとは言っていない」


「ならば攻めればよい!」


ガルドスは皇帝へ向き直る。


「父上!」


「私に兵をお与えください!」


「国境砦など」


「三日で落としてみせます!」


「帝国に牙を剥いたことを」


「ローゼンバーグの者共へ思い知らせます!」


若き皇子の声が。


大会議室へ響き渡った。


「ヴォルガン兄上は、西方で帝国の英雄となった!」


「ドルガン兄上も、東方の戦場で命を落とした!」


「兄上達だけが」


「帝国の剣ではありません!」


第一皇子ヴォルガン。


妾腹でありながら。


軍才。


統率力。


人望。


そのすべてを兼ね備え。


次期皇帝に最も近いとまで言われた男。


だが。


西方戦線において戦死した。


第四皇子ドルガンもまた。


東方侵攻軍へ加わり。


帝都へ帰ることなく命を落とした。


二人の皇子の死は。


帝国の拡張が。


決して無傷で行われてきたわけではないことを示していた。


それでも。


帝国は止まらなかった。


止まることを。


敗北と同じだと考えていた。


「ガルドス」


第一皇妃が息子の名を呼んだ。


ガルドスが振り返る。


「バルカーボは」


第一皇妃の声は。


抑えられていた。


だが。


その奥には、隠しきれない怒りがあった。


「お前と同じ」


「私の腹を痛めて産んだ子です」


ガルドスの拳に。


さらに力がこもる。


「兄が辱められ」


「終わることのない苦痛を与えられた」


「弟であるお前が」


「その仇を討たずに、誰が討つというのです」


「母上」


「この戦いの一番槍を務めなさい」


第一皇妃は告げた。


「帝国皇子として」


「そして」


「バルカーボの弟として」


ガルドスは。


その場で膝をついた。


「必ずや」


「兄上の受けた屈辱を」


「ローゼンバーグの血で雪いでみせます」


「よく言いました」


第一皇妃は。


満足するように頷いた。


そのやり取りを。


ザルガンは険しい表情で見つめていた。


ロギウスは何も言わない。


グラゼルも。


ガルドスの覚悟を止めようとはしなかった。


「もうよい」


皇帝ガルディオスが告げる。


その一言で。


会議室から、すべての声が消えた。


ガルディオスは老神官を見る。


「禍津神の祝福を」


「人の力で消すことはできぬのだな」


「はい」


「今夜も起きる」


「恐らくは」


「明日も」


老神官は答えなかった。


答える必要はなかった。


ガルディオスの指が。


玉座の肘掛けを叩く。


一度。


二度。


三度。


「帝国皇子が」


「異国の神に罰せられた」


「それを黙って見過ごせば」


「帝国は、すべての属国から侮られる」


グラゼルが静かに頷く。


「禍津神が」


「ローゼンバーグを庇護しているというのなら」


ガルディオスは続ける。


「なおさら放置はできぬ」


ロギウスが顔を上げた。


「神の庇護を受ける国が」


「帝国の国境近くに存在する」


「その力が」


「いつ帝国へ向けられるか分からぬ」


ガルディオスの眼差しには。


怒りだけではない。


帝国を率いてきた支配者としての。


冷たい計算があった。


「第二皇子一人を罰するだけで済むと」


「誰が保証できる」


老神官が口を開きかける。


だが。


その前に。


皇帝は結論を告げた。


「ローゼンバーグ王国を討つ」


第一皇妃が。


静かに息を吐いた。


ガルドスは拳を握りしめ。


グラゼルは当然の決定として受け入れた。


ザルガンだけが。


険しい顔で沈黙している。


「グラゼル」


「はっ」


第三皇子が立ち上がる。


「侵攻軍を率いよ」


「必ずや」


グラゼルは胸へ拳を当てた。


「帝国へ勝利を捧げます」


「ロギウス」


「はっ」


「兵数」


「補給」


「侵攻経路」


「すべてを調べ」


「作戦を立てよ」


「承知いたしました」


ロギウスは答えた。


表情に迷いはない。


命令が下された以上。


勝つために最善を尽くす。


それが。


彼の役目だった。


「ガルドス」


「はっ!」


「先陣を任せる」


ガルドスの目が輝く。


「国境砦を攻め」


「帝国軍の道を開け」


「必ずや!」


ガルドスは再び膝をついた。


「ローゼンバーグの砦を打ち砕き」


「兄上への手向けとして御覧に入れます!」


「女王エミリアは」


ガルディオスの声が、低く響く。


「生かして帝都へ連れて来い」


「ローゼンバーグが崇める女王が」


「帝国の前に跪く姿を示す」


「それをもって」


「バルカーボへの償いとする」


老神官の顔から。


血の気が引いていく。


第二皇子が。


何を言ったために神罰を受けたのか。


皇帝も。


皇妃も。


皇子達も。


聞いていたはずだった。


それでも。


同じことを繰り返そうとしている。


「陛下」


老神官が震える声を絞り出す。


「お考え直しください」


ガルディオスの視線が向けられる。


「あの神意は」


「人が抗えるものではございません」


「ローゼンバーグ王国へ手を出せば」


「今度は、第二皇子殿下だけでは済まぬやもしれません」


「神官」


ガルディオスは言った。


「帝国は」


「神に怯えて歩みを止める国ではない」


「しかし」


「我らが信じるものは」


皇帝は背後の帝国旗を見上げた。


「目に見えぬ神の意思だけではない」


「鉄だ」


「兵だ」


「そして」


「それらを率いる、帝国の力だ」


皇帝ガルディオスの言葉へ応じるように。


グラゼルが力強く頷く。


ガルドスの目が輝く。


帝国は。


禍津神の力を知らなかったわけではない。


警告されなかったわけでもない。


第二皇子へ下された神罰を。


その目で確認した。


それでも。


自らの力を信じた。


五万の兵。


帝国の鉄。


積み重ねてきた勝利。


小国など。


何度も踏み潰してきた。


今回も。


同じだと考えた。


「ローゼンバーグ王国を」


皇帝ガルディオス・バルディアは命じた。


「帝国の敵として」


「地図から消せ」


その日。


バルディア帝国は。


ローゼンバーグ王国への侵攻を決定した。


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