第2皇子の祝福
神罰の翌朝。
バルカーボ・バルディアは、自らの叫び声で目を覚ました。
荒い呼吸を繰り返しながら、寝台の上で自分の身体を確かめる。
腕がある。
脚もある。
指も。
爪も。
皮膚も。
すべて、元のままだった。
あの黒い椅子に押し潰されたはずの肉体には、傷一つ残っていない。
何度も壊され。
何度も癒され。
痛みに耐えきれず、意識を手放そうとしても許されなかった。
だというのに。
今の身体は、神罰を受ける前と何一つ変わっていなかった。
「夢……?」
声が震える。
だが。
頭の奥に、あの女神の声が蘇った。
『今日、この結界で味わったこと』
『それらは、毎日同じ時刻に、あなたの中で再演される』
「違う……」
夢ではない。
あの痛みも。
あの悪夢も。
自分を見下ろしていた女達の冷たい眼差しも。
すべて鮮明に覚えている。
そして最後に見た。
三日月のような女神の笑みも。
「禍津神……」
バルカーボは寝台から飛び降りた。
寝衣のまま。
靴を履くことさえ忘れ。
私室を飛び出す。
「神官を呼べ!」
廊下にいた侍従達が振り返った。
「宮廷神官を全員集めろ!」
「今すぐだ!」
「私は、禍津神の呪いを受けた!」
帝国宮殿に隣接する太陽神殿。
その中央祭壇で。
バルカーボは集められた神官達を前に、昨夜の出来事を叫ぶように語っていた。
「女達が現れた!」
「ローゼンバーグの女共だ!」
「奴らは私を、奇妙な空間へ閉じ込めた!」
「そして、あの禍津神が……」
バルカーボの顔が恐怖に歪む。
「私を呪ったのだ!」
神官達は顔を見合わせた。
宮廷神官の多くは、帝国貴族の出身だった。
神殿へ多額の寄進をした家の子息。
宮廷内の派閥争いに勝ち抜いた者。
皇帝や皇妃の覚えが良く。
神意を読み取る力よりも、政治的な立ち回りによって地位を得た者達。
その頂点に立つ神官長もまた、侯爵家出身の男だった。
とはいえ。
彼らも、何もしなかったわけではない。
神官長はバルカーボを祭壇の前へ座らせると、複数の神官へ命じた。
淡い光が灯る。
呪詛を見つけ出し。
邪なる力を祓うための神聖魔法。
神官達は順番にバルカーボへ奇跡を施した。
だが。
神聖な光は、何にも触れることなく消えていった。
肉体には傷がない。
魂が濁っている様子もない。
邪悪な力に蝕まれている気配もない。
むしろ。
バルカーボの生命力は、異様なほど安定しているようにさえ見えた。
「殿下」
神官長は慎重に口を開いた。
「お身体から、呪詛の気配は感じられません」
「貴様の目が節穴なのだ!」
バルカーボが怒鳴る。
「私は確かに見た!」
「クロエと名乗る女が、私を椅子に縛りつけた!」
「リンという女が薬を使い!」
「セリアという女が、私に悪夢を見せた!」
「そして禍津神ルミナが!」
祭壇へ声が響き渡る。
「毎日、同じことを繰り返すと告げたのだ!」
再び。
神官達は顔を見合わせた。
名前まで具体的だった。
しかし。
話の内容はあまりにも現実離れしている。
帝国宮殿の内部へ、誰にも気づかれず三人の女が侵入した。
皇子を別の空間へ連れ去り。
神が直接姿を現した。
そして何の痕跡も残さず、元の場所へ戻した。
そのようなことが、本当に起き得るのか。
「殿下」
神官長が恐る恐る尋ねた。
「昨夜は、お酒を召されていたのではありませんか?」
「私が酔って夢を見たと言いたいのか!」
「い、いえ」
神官長は慌てて頭を下げる。
「ただ、強い恐怖によって、お心がお疲れになっている可能性もございます」
「私の気が触れたと言うのか!」
「決して、そのような意味では……」
神官長は言葉を濁した。
だが。
神官達の考えていることは、バルカーボにも分かった。
自分の話を信じていない。
帝国第二皇子が、悪夢に怯えて錯乱したと思っている。
「ならば、別の方法で調べろ!」
バルカーボは神官長の胸倉を掴んだ。
「禍津神の呪いを見つけろ!」
「それが貴様らの仕事だろう!」
神官長は困り果てた。
それでも皇族の訴えを、ただの気の迷いとして終わらせるわけにはいかない。
しばらく迷った末。
ひどく嫌そうに口を開いた。
「……魔法使いも呼びましょう」
その言葉に。
周囲の神官達が、わずかに顔をしかめた。
バルディア帝国において。
魔法は、それほど重く見られていない。
帝国が信じるものは。
鍛え上げられた肉体。
大量の兵士。
強固な鉄。
そして。
それらを正しく動かす軍事力だった。
火を起こし。
風を操り。
土を動かす。
魔法にも一定の価値は認められている。
だが。
帝国にとって、それはあくまで補助に過ぎない。
戦争を決めるのは、魔法ではない。
兵力と鉄である。
それが、帝国の常識だった。
まして。
神の奇跡を借り受ける神官達から見れば。
己の魔力を使うだけの魔法使いなど、一段も二段も劣る存在だった。
やがて。
一人の宮廷魔法使いが神殿へ連れて来られた。
灰色の法衣をまとった、痩せた中年の男。
神官達よりも低い位置で膝をつく。
「第二皇子殿下を調べよ」
神官長が命じる。
「禍津神の呪いを受けられたと仰せだ」
「承知いたしました」
魔法使いは顔を上げた。
バルカーボへ近づくと。
目を閉じ。
指先へ意識を集中させる。
使ったのは。
周囲に魔法的な力が残っているかを調べるための、簡単な探知魔法だった。
それが何の魔法なのか。
どのような効果があるのか。
そこまで見抜くことはできない。
ただ。
魔法が使われているか。
魔力が残っているか。
それを確かめるだけの術だった。
しばらくして。
魔法使いが眉を寄せた。
「何かあるのか?」
神官長が尋ねる。
「はい」
魔法使いは慎重に答えた。
「殿下には、何らかの力が働いております」
神官達の間に、わずかな緊張が走った。
「呪いか?」
「分かりません」
魔法使いは首を横に振る。
「私に分かるのは、殿下の周囲に、非常に安定した力が存在しているということだけです」
「安定している?」
「はい」
「殿下を害する力なのか?」
「それも、私には……」
魔法使いは、もう一度バルカーボを見た。
「少なくとも」
「その力が殿下を蝕んでいるようには感じられません」
「では、何の役にも立たぬではないか」
神官長が吐き捨てた。
魔法使いは、反論することなく頭を下げる。
「申し訳ございません」
「下がれ」
「はっ」
魔法使いは立ち上がった。
だが。
神殿を退出する直前。
もう一度だけ、バルカーボを振り返った。
害を与える力ではない。
むしろ。
あまりにも整いすぎている。
何かが。
バルカーボの肉体を、正常な状態へ保とうとしている。
それだけは。
魔法使いにも分かっていた。
しかし。
それが何のためなのかまでは、読み取れない。
彼にできるのは。
そこに、何らかの魔法的な力が存在すると示すことだけだった。
神官長は考え込んだ。
神聖魔法では、呪いは見つからない。
魔法使いは何らかの力を感じたというが、害があるかどうかさえ分からない。
だからといって。
帝国皇子を、このまま私室へ帰すわけにもいかなかった。
「本日は、この神殿でお過ごしください」
神官長が提案する。
「何?」
「ここは太陽神の御前」
神官長は祭壇の奥に立つ、巨大な神像を示した。
光と生命を司る神。
帝国が最も篤く信仰する太陽神の像だった。
「この神殿は、帝国内で最も神聖な場所です」
「仮に邪なる神の力が殿下へ及んでいるとしても」
「太陽神の御光の下までは、届かないでしょう」
バルカーボは神官長を睨みつけた。
信じているわけではない。
だが。
一人で夜を迎えるよりはましだった。
「……分かった」
低い声で答える。
「だが、今夜何かが起きれば」
バルカーボは神官達を見回した。
「貴様ら全員、ただでは済まさんぞ」
その日。
バルカーボは太陽神殿の奥に留め置かれた。
神官達は交代で様子を見守った。
昼の間。
異変は起きなかった。
バルカーボは落ち着きを失ってはいたが、会話は成立していた。
食事も取った。
昨夜の出来事を、何度も繰り返し説明した。
そのたびに神官達は頷いた。
だが。
誰も信じてはいなかった。
日が傾き始める。
神殿の床に伸びた柱の影を見つめながら。
バルカーボの呼吸が、少しずつ荒くなっていった。
「もうすぐだ……」
「殿下?」
「来る」
バルカーボは椅子から立ち上がる。
「奴らが来る」
「殿下、ここは太陽神の神殿です」
神官長が言い聞かせる。
「いかなる邪なる力も、神聖なる御光の前では――」
夜を告げる鐘が鳴った。
その瞬間。
バルカーボの身体が跳ねた。
「ぐ、ぁ……!」
何もない空間へ背中を押しつけるように。
床へ倒れ込む。
両手を振り回し。
見えない何かから逃れようとする。
「やめろ!」
バルカーボが叫んだ。
「その椅子を近づけるな!」
神官達が駆け寄る。
だが。
バルカーボの身体には、何も起きていない。
傷もない。
拘束もされていない。
それでも本人は。
確かに何かに縛りつけられているかのように、激しくもがいていた。
「潰すな!」
「やめろ!」
「治すな!」
「もう治さなくていい!」
神官長が神聖魔法を使う。
柔らかな光が、バルカーボの身体を包んだ。
何の効果もなかった。
「薬を使うな!」
「痛い!」
「空気が……!」
「触れるな!」
神官達が身体を押さえようとする。
その手が触れた瞬間。
バルカーボは喉が裂けそうな声を上げた。
「離せ!」
「痛い!」
「皮膚が!」
「全身が痛い!」
神官達は慌てて手を離した。
「眠らせろ!」
眠りへ導く神聖魔法が使われる。
だが。
バルカーボは意識を失わない。
目を閉じることさえ許されないかのように。
何もない場所を凝視し続けている。
「私は皇族だぞ!」
突然。
バルカーボが叫んだ。
「尊ばれるべき血だぞ!」
何者かの言葉を聞いたように。
顔を引きつらせる。
「やめろ……」
「私は道具ではない!」
「番号で呼ぶな!」
「私はバルカーボ・バルディアだ!」
瞳から涙がこぼれ落ちる。
「分かった!」
「もう分かったから!」
「エミリアを侮辱したのは私が悪かった!」
神官長の表情が変わる。
「エミリア……?」
「妾にすると言ったことも謝る!」
「ローゼンバーグを馬鹿にしたことも!」
「だから、もう悪夢を見せるな!」
その場にいた神官達が息を呑んだ。
これは。
ただの錯乱ではない。
少なくとも。
バルカーボは、彼らには見えない何かを見ている。
「ルミナ様!」
バルカーボは祭壇へ額を擦りつけた。
「お許しください!」
「もう二度と逆らいません!」
「助けてください!」
太陽神の神殿で。
帝国皇子が、禍津神へ許しを請うていた。
神官長の顔から血の気が引く。
「神意を読める者を呼べ」
一人の若い神官が呟いた。
神官長が振り返る。
「何だと?」
「我々では分かりません」
若い神官は震えていた。
「神意を、本当に見ることのできる者を」
宮廷の神官ではない。
家柄もない。
爵位もない。
政治にも関心を持たず。
古い祭祀と祈りだけを守り続けている老神官がいた。
有力貴族へ媚びることもなかったため。
宮廷から遠ざけられていた男。
それでも。
帝国の神官達の中で。
本当に神意を見ることができる、数少ない一人だった。
老神官が祭壇へ入った時。
バルカーボは、まだ見えない苦痛に喘いでいた。
老神官は足を止める。
まだ。
バルカーボへ近づいてすらいない。
「……何という」
杖を握る手が震えた。
「何という濃さだ」
神官長が駆け寄る。
「何か分かるのか?」
老神官は答えない。
ゆっくりと。
バルカーボへ視線を向ける。
神を見るための目を開く。
その瞬間。
老神官の身体が大きく揺れた。
バルカーボの魂を覆っていた。
月。
夜。
死。
転生。
輪廻。
人の身では理解しきれないほど濃密な神の意思が。
幾重にも絡みついている。
逃がさない。
壊さない。
死なせない。
狂わせない。
忘れさせない。
ただ。
毎日。
同じ苦しみを与えるために。
一柱の神が。
一人の人間の魂を、直接掴んでいた。
「見るな……」
老神官が呻く。
両手で顔を覆った。
「これ以上、見てはならぬ……」
「何が見えた!」
神官長が問い詰める。
「殿下には、何が起きている!」
老神官は膝をついた。
荒い息を繰り返す。
その目には。
隠しようのない恐怖が浮かんでいた。
「呪いではない」
「何?」
「これは、呪いではない」
老神官は、震える声で答えた。
「祝福だ」
神殿が静まり返った。
バルカーボの叫び声だけが響いている。
「この苦しみが」
「祝福だと?」
神官長が問う。
老神官は、ゆっくりと頷いた。
「神にとっての祝福が」
「人にとって、慈悲であるとは限らぬ」
老神官は、昼間に行われた調査について尋ねた。
神官長が。
神聖魔法では呪詛を発見できなかったこと。
魔法使いが、安定した何らかの力を感じ取ったことを伝える。
老神官は目を閉じた。
「その魔法使いは、間違っておらぬ」
神官長が眉をひそめる。
「だが、害を与える力ではないと言ったのだぞ」
「その通りだ」
老神官は答えた。
「これは、この者を害するための力ではない」
「この者を」
「決して壊さぬための力だ」
神官長は意味を理解できず。
床でもがくバルカーボを見る。
「壊さない……?」
「肉体を元へ戻し」
「精神の崩壊を防ぎ」
「死による逃避さえ許さない」
老神官の声が震える。
「この者を、永遠に苦しませ続けるために」
「神が与えた恩恵だ」
神官達の顔色が変わった。
「あなた方が見落としたのではない」
老神官は続ける。
「調べ方を誤ったのでもない」
「ただ」
「探していたものが違ったのだ」
「あなた方が探していたのは」
「人を蝕む呪い」
「だが、これは」
「神が人へ与えた、紛れもない祝福だ」
神聖魔法が邪悪な力として捉えなかったのも。
魔法使いが安定した力としか感じられなかったのも。
当然だった。
肉体を癒し。
精神を正常へ戻し。
死を遠ざける。
一つ一つの働きだけを見れば。
これ以上ないほど強力な恩恵なのだから。
「あの御方は、今もこの者を見ておられる」
老神官はバルカーボを見る。
正確には。
その魂を掴んでいる存在を見ていた。
「ここに姿がなくとも」
「この者の魂を掴み」
「決して離そうとしておられぬ」
「誰だ」
神官長の声が掠れる。
「どの神が、このような……」
老神官は答えた。
「禍津神ルミナ」
その名が告げられた瞬間。
神官達が一斉に息を呑んだ。
月と死と転生を司る神。
帝国では、邪なる存在として伝えられてきた女神。
「間違いない」
老神官は言う。
「これほど濃厚な月と輪廻の神意」
「人の魔法でも」
「呪術でもない」
「神が、自らの意思によって刻んだものだ」
神官長は。
床でもがくバルカーボを見る。
「では」
「殿下の話は、すべて真実だというのか?」
「少なくとも」
老神官は静かに答えた。
「禍津神が、この方へ直接神罰を下されたことに間違いはない」
「神罰……」
その言葉に反応したように。
バルカーボが叫ぶ。
「ローゼンバーグだ!」
「ローゼンバーグの女共が!」
「私が書簡を送ったから!」
老神官の眉が動いた。
「書簡?」
バルカーボは恐怖のまま。
すべてを口にした。
ローゼンバーグ王国が禍津神を祀ったと聞いたこと。
その国は滅びると嘲笑ったこと。
女王エミリアの姿絵を見たこと。
彼女を妾として差し出せと要求したこと。
ローゼンバーグ王国へ、侮辱的な書簡を送ったこと。
神官達の顔色が変わっていく。
老神官は目を閉じた。
そして。
バルカーボに刻まれた神意へ。
もう一度だけ触れる。
そこには。
明確な怒りがあった。
月の女神自身への侮辱ではない。
神を恐れなかったことへの怒りでもない。
一人の女王を侮辱した者へ向けられた。
あまりにも個人的で。
あまりにも濃厚な怒り。
「報復だ」
老神官が呟いた。
「ローゼンバーグ王国への侮辱に対する」
「禍津神からの報復……」
誰も言葉を発することができなかった。
弱小国だと思っていた。
滅亡寸前の小国。
帝国が兵を動かせば。
容易に踏み潰せる国。
その女王を。
帝国皇子が侮辱した。
その翌日。
帝国宮殿の最奥へ。
誰にも気づかれることなく。
神が直接、報復に訪れた。
夜が明けるより早く。
帝国宮殿へ、緊急招集の鐘が鳴り響いた。
皇帝ガルディオス・バルディア。
そして。
帝都に残る、すべての皇子達へ。
第二皇子バルカーボに下された神罰が。
報告されることになった。
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