ローゼンバーグ王国 視察7日目 ④
セリアは、目の前の光景から目を離せなかった。
悪を名乗る女王。
邪神国家の支配者。
異端審問の対象。
そのはずのエミリアが、孤児院の庭で子供達に囲まれている。
子供達は笑っていた。
食べている。
走っている。
手を洗い、遊び、叱られ、また笑っている。
エミリアの言葉は相変わらず乱暴だった。
悪の幹部。
悪の組織。
正義を打ち倒す。
そんな言葉が、子供達の間を飛び交っている。
本来なら、看過できないはずだった。
太陽神インティの神官として。
異端審問官として。
邪神に染まった国を見極める者として。
けれど。
セリアは、その光景を否定できなかった。
子供達は、救われているように見えた。
その事実が、何よりもセリアを苦しめた。
セリア自身も、孤児だった。
帝国の戦乱で家族を失った。
炎。
怒号。
逃げ惑う人々。
泣き声。
血の匂い。
その全てを、今でも忘れられない。
幼いセリアには、何が起きているのか分からなかった。
ただ、昨日まであったはずの家がなくなり、昨日まで隣にいたはずの家族がいなくなった。
その日から、セリアは一人になった。
けれど、運は悪くなかった。
いや。
今思えば、奇跡に近かったのかもしれない。
セリアは、まともな孤児院に引き取られた。
そこは、太陽神インティの教会を兼ねた小さな孤児院だった。
決して裕福ではなかった。
食事は質素で、寝具も足りず、冬には寒さで何度も目を覚ました。
新しい服など、滅多に手に入らない。
院長である神父も、いつも疲れた顔をしていた。
それでも。
そこには、愛があった。
神父は、身寄りをなくした子供達を決して見捨てなかった。
食事が少ない日は、自分の分を子供達へ分けた。
熱を出した子がいれば、夜通しそばにいた。
怖い夢を見て泣く子供がいれば、静かに祈りを捧げながら背を撫でた。
神父は、決して偉大な人間ではなかったのかもしれない。
強大な神聖魔法を使えるわけでもない。
大きな寄付を集められるわけでもない。
権力を持っていたわけでもない。
それでも、セリアにとっては、光だった。
暗闇の中で、初めて手を伸ばしてくれた人だった。
だから、セリアは思った。
自分も、あの人のようになりたい。
泣いている誰かに手を伸ばせる人になりたい。
家族を失い、帰る場所を失い、何もかも分からなくなった子供に。
大丈夫だと。
まだ生きていいのだと。
そう伝えられる人になりたい。
やがて、セリアには癒しの加護の素質があると分かった。
優れた素質だった。
神父は、まるで自分のことのように喜んだ。
「お前は、きっと多くの人を救える」
そう言って、セリアの頭を撫でてくれた。
孤児院を離れる日。
神父は泣いていた。
誇らしげに。
寂しそうに。
それでも、笑っていた。
セリアはその笑顔を見て、心に誓った。
神父様のように、人のために尽くそう。
皆を笑顔にできる人になろう。
太陽神インティの光の下で、救いを届ける者になろう。
だが、神殿での生活は、セリアが思っていたほど美しくはなかった。
平等であるはずの神殿には、格差があった。
神の前では人は等しい。
誰もがそう教えられていた。
けれど現実には、血筋があった。
家柄があった。
後ろ盾があった。
寄付の額があり、親の地位があり、出身の教会による扱いの差があった。
孤児であるセリアは、最下層だった。
掃除。
雑用。
古い衣。
冷たい視線。
施しを受けて育った者。
拾われた子供。
そう呼ばれることもあった。
それでも、セリアは折れなかった。
神父の言葉があった。
人を救いたいという願いがあった。
自分の境遇など関係ない。
救われた自分が、今度は誰かを救う番なのだと信じた。
日々の修練を重ねた。
祈りを欠かさなかった。
癒しの術を磨いた。
神学を学び、礼法を覚え、神官として必要な知識を叩き込んだ。
少しずつ。
本当に少しずつ。
セリアは階位を上げていった。
そして、ついに神官の位を得た。
巡礼として国々を巡り、人を救うことを許された。
その時、セリアはようやく神父に近づけたのだと思った。
これで、多くの人を救える。
泣いている人に手を伸ばせる。
助けを求める声に応えられる。
そう信じていた。
けれど、現実はそこでも違っていた。
癒しの力は、誰にでも自由に使えるものではなかった。
優先されるのは、貴族だった。
有力者だった。
神殿に多くを寄付した者だった。
重要な人物。
失えば困る人物。
神殿にとって価値のある人物。
そうした者達が、まず癒される。
もちろん、それにも理由はあった。
国を動かす者が倒れれば、多くの民に影響が出る。
寄付をする者がいなければ、神殿の施しも続かない。
癒しの力にも限界がある。
誰もが救われるわけではない。
理屈は分かる。
分かってしまう。
だからこそ、苦しかった。
目の前に泣いている子供がいても。
怪我をした老人がいても。
熱にうなされる貧しい母親がいても。
セリアの力は、常に自由ではなかった。
施しをしようにも、物資には限りがある。
一人の神官が運べる量など、たかが知れている。
巡礼で向かう場所や順番も、神殿によって決められていた。
どこへ行くか。
誰を癒すか。
何日滞在するか。
どれだけ配るか。
全てを自分で決めることはできない。
救いの手が、間に合わなかったことも何度もあった。
あと一日早ければ。
もう少し薬があれば。
もう少し食料を持っていれば。
もう少し自分に権限があれば。
そう思ったことが、何度あったか分からない。
それでも。
人々はセリアを見て、涙を流して感謝した。
美しい神官様。
聖なる癒し手。
太陽神に愛された方。
そして、いつしか。
人々はセリアを、聖女様と呼ぶようになった。
その呼び名は、重かった。
嬉しくなかったわけではない。
誰かの希望になれるなら、それは誇るべきことだった。
けれど同時に、苦しかった。
聖女と呼ばれても。
救えない者はいた。
手を伸ばせない者はいた。
間に合わない命はあった。
神の光を掲げても、照らしきれない場所はあった。
そんな中。
太陽神インティより神託が下された。
邪神に染まった国を見極めよ。
ルミナを国教とした国。
悪を名乗る女王が支配する国。
ローゼンバーグ王国。
セリアは、そこへ向かった。
邪神の国へ。
悪の女王の国へ。
そして今。
セリアは、その国の孤児院で、子供達の笑い声を聞いている。
現実へ意識が戻る。
庭では、エミリアが子供達に囲まれていた。
黒衣を翻し、悪の首領のように振る舞っている。
「隊列が乱れているわ! そんなことで私の悪の幹部が務まると思っているの?」
「ならべー!」
「こっちー!」
「正義の味方が来たぞー!」
「悪の組織、作戦会議ー!」
子供達が走る。
笑う。
転ぶ。
起き上がる。
また笑う。
院長が見守り、手伝いの者達が食べ終わった皿を片付けている。
庭の隅には、まだ黒薔薇ソーセージの香ばしい匂いが残っていた。
セリアは胸元の聖印を握る。
太陽神インティの印。
自分を救った光。
自分を導いた信仰。
自分が生きる意味にしてきたもの。
そのはずだった。
けれど、目の前の光景は。
あまりにも、自分の理想に似ていた。
孤児達が、飢えずに食べている。
手を洗うことを覚えている。
遊びながら、学んでいる。
誰かに怯えるのではなく、明日を楽しみにしている。
孤児院の院長は、疲れた顔ではなく、穏やかな顔で子供達を見守っている。
そして、その中心にいるのは。
太陽神の神官ではない。
聖女でもない。
慈悲深い王でもない。
邪神を国教とした国の、悪を名乗る女王だった。
セリアは、エミリアを邪神ルミナの信徒だと思っていた。
いや、そうでなければおかしいと思っていた。
邪神を国教にした。
太陽神教を退けた。
王国の中心にルミナの名を据えた。
ならば、エミリアは邪神に魅入られた者であるはずだった。
だが。
見れば見るほど、違和感が増していく。
エミリアは祈らない。
ルミナを讃えない。
神の名を掲げて民を縛ろうともしない。
ルミナ教の教義を語る時でさえ、それは信仰というより制度のようだった。
自由であれ。
好きに生きよ。
美しくあれ。
その教えを、エミリアは神聖なものとしてではなく、自分の国を動かすための旗印として使っているように見えた。
邪神を崇めているのではない。
邪神すら利用している。
その考えに至った瞬間、セリアは背筋に冷たいものを覚えた。
信仰によって狂っているなら、まだ理解できる。
邪神に魅入られ、信仰に溺れ、善悪を失ったというなら、まだ断じることができる。
だが、エミリアは違う。
少なくとも、セリアにはそう見えた。
エミリアは、信仰で動いていない。
神のためでもない。
教義のためでもない。
ただ、自分の美学に従っている。
美しくないものを嫌い。
泣いている者を、美しくないと断じ。
弱者を踏みにじるだけの悪を、くだらないと切り捨て。
必要なら水を通し、食べ物を与え、職を作り、子供を育てる。
そして、それを救済とは呼ばない。
支配と呼ぶ。
悪と呼ぶ。
セリアには、それが恐ろしかった。
同時に。
目を逸らせなかった。
なぜなら、その結果として。
子供達は、笑っていたからだ。
セリアが神父のもとで見たかったもの。
セリアが神官として目指したもの。
セリアが聖女と呼ばれながら、なお届かなかったもの。
それが今、目の前にある。
悪の女王の周りにある。
信仰が、揺らいだ。
小さく。
しかし、確かに。
太陽神インティへの敬意が消えたわけではない。
神父への感謝が薄れたわけでもない。
自分を導いた光を、否定したいわけではない。
けれど。
セリアは、初めて思ってしまった。
もし、救いに必要なのが、正しい祈りだけではないのなら。
もし、泣いている子供に必要なのが、神の名ではなく、食べ物と水と手を差し伸べる誰かなのだとしたら。
もし、その誰かが悪を名乗っていたとしても。
その手は、救いではないと言えるのか。
「……私は」
セリアは、小さく呟いた。
自分でも、何を言おうとしたのか分からなかった。
信仰を守る言葉か。
エミリアを否定する言葉か。
それとも、認めたくないものを認める言葉か。
庭では、子供達がまた歓声を上げている。
エミリアが外套を翻し、悪の首領として高らかに笑っていた。
セリアは聖印を握る手に力を込める。
まだだ。
まだ、結論を出してはいけない。
目の前の光景だけで、信仰を揺らしてはならない。
エミリアは危険だ。
この国は邪神を国教としている。
太陽神インティの神託が間違っているはずがない。
そう思おうとした。
そう思わなければならなかった。
しかし。
その時だった。
孤児院の門の方から、小さなざわめきが起こった。




