黒衣の堕天使 リン②
毒霧の中を、黒い影が駆ける。
リンが指先を払うと、薄く白い粉末が風に乗って広がった。そのまま敵兵の懐へ潜り込み、逆手に握ったメスを鎧の隙間へ走らせる。喉元、脇の下、関節、腹部。人体の構造を知り尽くしているリンにとって、重装備の兵士であろうと狙う場所はいくらでもある。
「次――」
そう呟いた、その時だった。
足元から緑色の光が立ち昇る。一本、二本と増えた光の柱は瞬く間にリンの周囲を囲み、そのまま壁のように繋がっていった。
「……?」
リンは即座に後方へ跳ぶ。だが、緑の光はそれより早く完全に閉じ、周囲から戦場の喧騒が消えた。
毒霧も、兵士達も、遠くで響いていた剣戟の音さえ聞こえない。
「結界……?」
メスを構えたまま周囲を見回し、リンは眉を寄せた。
外から見れば、それほど広い範囲を囲まれたわけではなかったはずだ。しかし中へ閉じ込められてみれば、空間そのものが引き延ばされたかのように広い。走り回って戦うには十分すぎるほどの広さがあり、その中央に一人の男が立っていた。
金色の髪に、澄んだ青い瞳。整いすぎているほど美しい顔立ち。
細身の身体を活かせる軽装ではあるが、喉、胸、脇腹、肘、膝といった要所だけは確実に装甲で守られている。しかも、その鎧には緑と金の華美な装飾が施されていた。
男は静かに細身のレイピアを構える。
リンは相手を一瞥し、小さく息を吐いた。
「……なるほど。ボク専用ってわけだね」
狙いたい場所が、ことごとく守られている。
ならば、まずはいつも通り。
腰の薬品ケースへ指を伸ばし、軽く弾く。無色の霧が、空間へ広がっていった。
致死性の毒。
普通の人間なら、吸い込んだ時点でまともに戦い続けることはできない。
だが軽剣士は、何の躊躇いもなく毒霧の中へ踏み込んできた。
速い。
リンは横へ跳びながら、白い前髪の隙間から青い瞳を覗かせる。
相手の心を読む。
――けれど。
「……少ない」
驚くほど、余計なものがなかった。
恐怖も、怒りも、勝利への執着も薄い。殺意すら、ひどく希薄だった。
そこにあるのは、ただ戦闘のための思考だけ。
【前進】
【刺突】
【離脱】
【再接近】
あまりにも単純。だからこそ、行動そのものは読みやすい。
リンは刺突の軌道を先読みし、半歩だけ身体をずらす。レイピアの切っ先が白衣の脇を掠めた。
すれ違いざま、逆手のメスを走らせる。狙いは膝。機動力さえ奪えば、いくら速かろうと問題ない。
だが、甲高い音とともに刃が弾かれた。
装甲。
「そこまで対策済みか」
軽剣士は即座に反転する。
床を蹴る音と同時に身体が沈み、細身の影が低く滑り込んできた。リンは思考を読んで一歩引き、続く刺突を首を傾けるようにしてかわす。そのままメスで脇腹を狙うが、そこにも薄い装甲が滑り込んだ。
何度か攻防を繰り返す。
毒を散らしながら距離を取り、読心で軌道を予測し、メスで急所を狙う。
それでも、崩せない。
だが毒は、もう十分すぎるほど撒いている。
この空間には逃げ場もない。
そう考えたところで、リンは違和感に気づいた。
「……あれ?」
軽剣士の呼吸は乱れていない。
足運びにも変化がない。
これだけ濃い毒霧の中を走り回っているにもかかわらず、まるで何も吸っていないかのように動き続けている。
その時。
どこからともなく、得意げな声が響き渡った。
『あなたの得意な毒は、そいつには通じないわよ! それに、あなたより速く動けるように作ってあげたの! ぜーーったいに勝てないんだから!』
「……ラクシュ様か」
リンは一瞬だけ天を仰ぎ、小さく笑った。
「それくらいで、ボクが諦めるとでも?」
軽剣士が動く。
【右へ踏み込む】
【フェイント】
【左肩へ刺突】
読める。
リンは一歩ずれた。
――はずだった。
「……っ!」
鋭い痛みが肩を走る。
レイピアの切っ先が、白衣を裂いて浅く肉を抉っていた。
読み違えたわけではない。
相手が、先ほどより速い。
リンはすぐに《神癒》で傷を塞ぎ、再び距離を取った。
だが、その後も軽剣士の動きは少しずつ洗練されていった。
最初は命令の羅列にしか見えなかった思考にも、僅かな変化が生まれている。
【回避方向を予測】
【次は追撃】
【メスを持つ右手を警戒】
「……思考が増えてる」
また一歩。
また一手。
戦いながら、相手はリンという存在を覚えていく。
「学習……してるの?」
次の刺突が腿を浅く貫いた。
リンは歯を食いしばりながら身を引き、再び《神癒》を使う。
致命傷にはならない。
だが、確実に消耗させられていた。
読める。
分かる。
それでも、追いつけない。
「これは……ちょっと、まずいかな」
その瞬間だった。
結界の外から、一筋の光が飛んできた。
緑色の壁に触れる。
弾かれるかと思われた光は、そのまま何事もなかったかのように結界を抜け、リンへ向かって一直線に飛んできた。
「えっ!?」
避ける間もない。
光はそのままリンの胸へ吸い込まれた。
「……あれ?」
身体の奥に、自分ではない何かが入ってくる。
だが、不快ではない。
むしろ、よく知っている気配だった。
「エミリア様? どうして……」
頭の内側へ、聞き慣れた声が響く。
『不甲斐ない貴方のために、見本を見せに来たのよ』
次の瞬間。
身体の主導権が、ゆっくりと切り替わった。
リンの纏う空気が変わる。
いつもなら目元を覆っている白い前髪へ手を伸ばし、無造作に撫でつける。隠されていた両の瞳が完全に露わになり、その顔には普段のリンからは想像もできない、自信に満ちた不敵な笑みが浮かんだ。
「さあ――悪の矜持のレッスン開始よ」
軽剣士が再びレイピアを構える。
「まったく、こんな相手に梃子摺るなんて……」
『相手が速すぎるんですよ!』
「思考を読んで、先読みしなさい」
『先読みしても捉えられません!』
「捉えられないなら、あちらから捉えられに来てもらえばいいのよ」
『……へ?』
エミリアは口元を吊り上げた。
「我慢しなさい」
そして、青い瞳で相手を見る。
その瞬間、思考が流れ込んできた。
【直進】
【目の前で一旦停止】
【フェイント】
【左半身へ刺突】
「へぇ……心を読むって、こんな感じなのね」
『エミリア様、何を……』
「ここまで分かってるなら、こうすればいいのよ」
軽剣士が床を蹴った。
金色の髪が後ろへ流れ、細身の身体が一直線に加速する。途中で僅かに重心をずらし、目の前で一度だけ踏み込みを止める。
フェイント。
だが、エミリアは動かない。
次に来る軌道へ、むしろ左手を差し出した。
『エミリア様!?』
軽剣士が予定通り左半身へ踏み込み、レイピアを突き出す。
切っ先が、リンの左掌を正面から貫いた。
鮮血が散る。
『痛い、痛い――って……痛くない?』
リンは戸惑った。
完全に憑依されている今、自分には痛みがない。
けれど、身体の奥を通して伝わってくる。
エミリアが、相当な痛みを堪えていることだけは分かった。
『……エミリア様に、痛みが!?』
「こういう時は、痛くても笑うのよ」
エミリアは、不敵な笑みを崩さない。
「それが美しさよ」
その姿から、悪を貫く揺るがない矜持が伝わってくる。
そして、その奥にあるものまで――リンには、ちゃんと伝わっていた。
その魂の高潔さに、改めて心酔する。
『……やっぱりボク、エミリア様のこと大好きです!』
「悪に改めて見惚れたのね。仕方ないわ」
エミリアは、まるで当然のことのように言い切った。
それから、レイピアを引き抜こうとする軽剣士へ視線を戻す。
「リン、癒しなさい」
『はい!』
《神癒》が発動する。
レイピアが刺さったまま、裂けた左手の肉が急速に塞がっていく。
同時にエミリアは指を閉じた。
強化された筋肉が収縮し、細い刀身を手の中で締め上げる。
軽剣士が後方へ踏み込み、全身を使ってレイピアを引く。
抜けない。
腰を落とし、もう一度強く引き抜こうとする。
それでも動かない。
エミリアは、露わになった両目を細めた。
「ほら。捕まえた」
軽剣士の思考が、一瞬乱れる。
【離脱不能】
【武器固定】
【対処――】
「さて……こんなに速いってことは、何かを犠牲にしてるのかしら?」
軽剣士がレイピアを手放そうとする。
その瞬間、エミリアが前へ踏み込んだ。
地面を蹴り、相手との距離を一気に潰す。
右手が伸びる。
軽剣士の手首を掴む。
逃がさない。
指先が食い込み、さらに握力を強めた。
硬質な音が響く。
軽剣士の手首が、握力だけで押し潰された。
相手の身体が僅かに崩れる。
その瞬間を逃さず、エミリアは腰を落とした。レイピアを固定した左手はそのままに、右腕一本で軽剣士の身体を持ち上げる。
金色の髪が宙へ舞った。
「よっ、と」
身体を捻る。
遠心力を乗せる。
そして、一気に振り下ろした。
轟音。
軽剣士の身体が地面へ叩きつけられ、大地に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。衝撃で華美な装甲が砕け、破片が周囲へ散る。
「筋力を強化したリンの力は、ドールズの中でも一、二を争うのよ?」
エミリアは地面に沈んだ相手を見下ろした。
「ずいぶん脆い人形さんね」
『ボク、こんな力あったんですね……』
「貴方、自分の身体のことくらいちゃんと把握しなさい」
青い瞳が、再び相手の心を覗き込む。
そこには、先ほどまでの整然とした戦闘思考はなかった。
【想定外】
【武器喪失】
【拘束】
【次の行動――】
【次の行動――】
思考が乱れている。
与えられた戦闘知識の中に、答えがない。
何をすればいいのか。
どう動けばいいのか。
判断そのものが止まり始めていた。
エミリアは小さく笑う。
「こんな程度で混乱して、何もできなくなるなんて……まるで赤ん坊ね」
倒れた神造人間の胸元へ、片足を乗せる。
そのまま、体重をかけた。
さらに踏み込む。
鈍い音が響き、残っていた鎧が大きく砕ける。亀裂はその下まで走り、神造人間の身体ごと地面へ深く沈み込んだ。
動かない。
エミリアは足元を一瞥すると、もう興味を失ったように顔を上げた。
「ほら」
不敵に笑う。
「悪って、本当に美しいでしょう?」
『……はい!』
その返事に満足したように、エミリアは僅かに笑った。
「次ね、ルミナ」
その言葉と同時に、リンの身体から淡い光が抜けていく。
エミリア――蓮の魂は、結界の向こうから伸びてきたルミナの神力に導かれ、次の戦場へと消えていった。
身体の主導権が戻る。
リンはしばらく、その光が消えていった先を見つめていた。
両目を露わにしたまま、頬を赤く上気させる。
どこか名残惜しそうに。
少しだけ切なそうに。
「……エミリア様」
その声だけが、静かになった結界の中へ残った。
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