黒衣の堕天使 リン
クロエとセリアが穿った中央陣へ、リンは真っ先に飛び込んだ。
二条の光が通り過ぎたあとには、幾重にも重ねられていた障壁の残滓が淡く宙を漂い、抉れた大地から白煙が立ち昇っていた。整然と並んでいたはずの兵列は中央から大きく引き裂かれ、盾を失った兵士や爆風に転がされた者達が、互いを押し退けるようにして立ち上がろうとしている。
「ありがと!」
背後の二人へ片手を振り、リンはそのまま速度を上げた。
戦場にはひどく不釣り合いな姿だった。黒と白を基調としたナースドレス。腰には薬瓶や医療器具を収めたポーチが並び、背後へ長く垂れた薄布が風を孕んで翻る。白い前髪は目元へ深く落ち、青い瞳はほとんど見えない。
走りながら腰へ手を伸ばし、細長い無針アンプルを一本取り出す。首筋へ押し当てると、小さな作動音とともに薬液が体内へ送り込まれた。
「筋力増強」
二本目。
「神経強化」
三本目。
「それから――循環促進」
心臓が強く跳ねた。鼓動が一気に速まり、熱を帯びた血液が全身を駆け巡る。引き上げられた筋肉と神経へ、それに見合うだけの血流を送り込む。リンが地面を蹴った瞬間、細い身体からは想像もつかない勢いで土が弾けた。
「来るぞ!」
「止めろ!」
中央陣を立て直そうとしていた兵士達が、慌てて武器を構えた。弓兵が矢を番え、後方では魔道士達が杖を掲げる。
リンは腰の器具入れから、使い慣れたメスを抜いた。
「今日のボクは、ちょっと怖いよ……?」
「撃て!」
弓弦が一斉に鳴る。その直前、リンの意識へ強い感情が飛び込んできた。
――当たれ。
右。
身体を沈める。数本の矢が白い髪を掠めるように通過し、そのまま背後の地面へ突き刺さった。
今度は左から、肌を刺すような敵意。
――殺す。
顔を向けると、既に火球が生まれていた。大きく横へ跳び、燃え盛る塊を避ける。炎が地面へ着弾し、熱風がナースドレスの裾と背後の薄布を大きく巻き上げた。
さらに背後から殺意が膨らむ。リンは振り返るより先に横へ飛び、風の刃をやり過ごした。
「なんだ、あいつ……!」
「撃つ前から避けてるぞ!」
相手の思考を読んでいるわけではない。本当に心を覗くためには、相手と視線を合わせなければならない。その性質は以前と変わっていない。
ただ、ドールズとなってから、自分へ向けられた強すぎる感情だけは、以前よりずっと遠くから感じ取れるようになっていた。殺意。敵意。憎悪。何をするつもりなのかまでは分からない。だが、どちらから強い感情が向けられたのかさえ分かれば、あとは目で見て避ければいい。強化された今の身体なら、それで十分だった。
もっとも――。
「……あれ?」
鈍い衝撃がリンの肩を叩いた。
隊列の奥から放たれた石弾だった。リン個人を憎んでいたわけでも、強い殺意を抱いていたわけでもない。号令に従い、ただ狙って撃っただけ。その程度の薄い感情までは拾いきれない。
だが、石弾が身体へ触れた瞬間、淡い光が小さく波打った。勢いをほとんど失った石弾が横へ弾かれ、乾いた音を立てて地面を転がる。
リンは肩を軽く回した。
「……うん。平気」
痛みらしい痛みすらない。
「クロエの付与、ちゃんと効いてるね」
「囲め! 飛び道具が駄目なら直接やれ!」
剣、槍、斧。複数の兵士が一斉に距離を詰める。
リンは逃げず、むしろ真正面からその中へ飛び込んだ。
動きは決して美しくない。剣を避ける時は必要以上に大きく跳び、槍が迫れば強化された脚力に任せて無理やり射程の内側へ入り込む。着地も荒い。シオンの剣技や、セリアの体術とはまるで違う。力と速さだけで成立させている、素人じみた戦い方だった。
けれど、メスが人体へ触れる瞬間だけは、恐ろしいほど正確だった。
「ぐっ……!」
一人目の腕へ、短く刃を走らせる。それだけで指から力が抜け、剣が落ちた。
次の槍兵へは身体ごとぶつかるように接近し、脚の一点だけを切る。
「な……っ!?」
男の膝が唐突に崩れ、その場へ倒れ込んだ。
横薙ぎに振るわれた斧を大きく屈んで避け、すれ違いざまに腕へ刃を滑らせる。傷口は小さい。それでも斧を握る手は言うことを聞かなくなった。
「腕が……!」
「何をした!?」
リンは剣術を知らない。体術も習っていない。けれど人体なら知っている。どこを傷つければ指が動かなくなるのか。どこを断てば脚が身体を支えられなくなるのか。どこまでなら命を奪わず、それでも戦い続けられなくできるのか。それだけは、誰より正確だった。
兵士達の間を高い身体能力で強引に突っ切りながら、リンは空いた手で腰の小瓶へ触れた。蓋を外し、細かな粉末を散らす。走るたび、避けるたび、土煙に紛れる程度の量を少しずつ。
その途中。
――痛い。
リンの眉が僅かに動いた。それでも足は止めない。
剣を避け、メスを振るう。
――死にたくない。
一瞬だけ、口元から笑みが消えた。
「……なんだ?」
少し離れた場所で、一人の兵士が喉へ手を当てた。息を吸う。もう一度、大きく吸う。それなのに身体へ力が入らない。
「おい、どうし――」
声を掛けた隣の男も、言葉の途中でふらついた。
一人。また一人。
兵士達が次々と膝をつき、そのまま地面へ倒れていく。
「毒だ!」
ようやく誰かが叫んだ。
リンが散らしていた粉末だった。
元になったのは、この世界に自生する、前世の梅によく似た果実。果肉は食べられるが、種には強い毒がある。現地でも種を口にするなという経験則は知られていたが、リンは前世で学んだ医学と薬学の知識から、その性質へ目をつけた。
この世界の素材を、この世界にはなかった考え方で扱う。
リンにとって、それも薬を作ることと大差はない。
倒れていく兵士達を見ながら、少しだけ寂しそうに微笑む。
「今日は弛緩剤じゃないんだ」
声はいつもと変わらず穏やかだった。
「そのまま、お休み――永遠にね」
周囲にいた兵士達の顔から血の気が引いた。
リンは彼らを気にすることなく、足元へ倒れている一人の前へしゃがみ込む。先ほど脚を切られ、まだ意識を保っていた兵士だった。
「ねえ。醜悪公はどこにいる?」
「…………」
男は何も答えない。
リンは僅かに顔を上げた。その拍子に、目元を覆っていた白い前髪が揺れる。
隙間から、青い瞳が覗いた。
男の視線と重なる。
「――っ」
瞬間。
今まで感じ取っていた曖昧な感情とは違う。男の思考そのものが、リンへ流れ込んできた。
北側。後方の陣。あの方を知られてはいけない。答えるな。北にいることだけは――。
「分かった。あっちだね」
「な……」
男の顔が強張る。
リンは立ち上がると、北側へ向けて大きく手を振った。
「ランカ!」
少し後方から中央へ入ってきていたランカが振り返る。
「北の方の陣にいるみたいだよ!」
ランカの目が一瞬だけ大きく開き、それから力強く細められた。
「……恩に着るぞ、リン!」
「うん。行ってきて!」
ランカは北へ向かって走り出す。既に中央陣には大きな穴が開いている。リンが作った道を抜け、そのまま目的の相手へ一直線に向かっていった。
その背中を見送ったリンは、小さく息を吐いた。
周囲の兵士達は、もう近づいてこない。
「離れろ!」
「毒の中へ入るな!」
「風上へ回れ!」
リンを中心に、大きな空白ができていた。毒が漂う範囲へ踏み込まなければいい。風上へ逃げれば届かない。そんなことを考えているのは、心を読まなくても分かる。
「……これで終わると思ってるの?」
リンは首を傾げ、足元へ視線を落とした。
空中へ散らした毒とは別に、もう一種類。走りながら撒いていたものがある。毒のように空へ留まらず、その多くが地面へ落ち、リンが走り回った範囲へ薄く広がっていた。
以前、セリアとの喧嘩でも使った爆発性の花粉。
「こういう時、風の魔法が使えたら楽なんだけどなぁ……」
心底残念そうにぼやく。
けれど、使えないものは仕方がない。ならば、別の方法で風を起こせばいい。
小さな火種を取り出す。
「まあ、これでいいか」
指先から、火が落ちた。
次の瞬間。
轟音が戦場を震わせた。
リンを中心として爆炎が一気に膨れ上がり、大地が揺れる。地面に転がっていた盾や武器が跳ね上がり、離れた場所の兵士達まで思わず腕で顔を覆った。
だが、爆発そのものが目的ではない。
爆風によって、地面へ落ちていた粉が一斉に舞い上がる。そして、空気中へ漂っていた毒も巻き込まれた。
リンの周囲だけに留まっていた毒の霧が、猛烈な風に乗って外側へ押し広げられていく。
「――え?」
距離を取っていた兵士の頬を、風が撫でた。
次の瞬間、その表情が凍る。
「息を止めろ!」
遅い。
一人が喉を押さえ、その隣で弓が落ちる。さらに後方で兵士が膝をつき、また一人、また一人と崩れていった。
毒を孕んだ風が、陣の中を駆け抜ける。
死を運ぶ風となって。
その中を、ランカは何事もなかったように北へ走り続けていた。シオンも、クロエも、セリアも足を止めない。ドールズの身体にとって、この程度の毒は脅威にならない。
リン自身は少し事情が違う。
強化薬を効かせるため、普段より身体の抵抗を落としている。だが、自分で作った毒へ何の備えもしていないはずがない。事前に対抗する薬は仕込んである。
それでも完全に何も感じないわけではなく、喉の奥に僅かな違和感が残った。
――あとで癒せばいい。
そう考えた、その時だった。
――苦しい。
リンの表情が僅かに強張る。
――痛い。
――嫌だ。
――死にたくない。
次々と流れ込んでくる。
一つではない。二つでもない。
数える余裕などない。
百を超えている。
それだけは、嫌でも分かった。
リンの顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。額へ浮かんだ汗が頬を伝う。
――助けて。
――まだ死にたくない。
――怖い。
声。
いや、声ではない。
心を読んでいるわけでもない。殺意を感じ取っていた時と同じだった。
恐怖。苦痛。絶望。
死を目前にした感情があまりにも強すぎるせいで、それがまるで言葉のような形を取ってリンの中へ流れ込んでいる。
そして本当は、今、初めて聞こえたわけではなかった。
矢を避けた時も。兵士達の間を駆け抜けた時も。毒を吸った者が倒れた時も。
――痛い。
――怖い。
――死にたくない。
最初から、ずっと聞こえていた。
リンは僅かに俯いた。
「……ルミナ様が言ってた通りだね」
小さな声だった。
「際限なく人の心なんて読めたら……壊れちゃう」
ルミナから力を与えられた時、そう言われた。だから、心を読むには相手と目を合わせる必要がある。必要な時、必要な相手だけ。
そうでなければ、人は他人の心に耐えられない。
今になって、その意味がよく分かった。
ドールズとなって広がった力は、相手の思考まで無制限に拾うものではない。それでも、これほど多くの強い感情を一度に浴び続けるだけで、頭の中が押し潰されそうになる。
それでも、意識を閉じるつもりはなかった。
敵意を感じ取れなければ、この数の中をあの速度で走り抜けることはできない。少しでも早く、少しでも広く、ランカ達が自由に動ける道を作るために。
こうなることは、最初から分かっていた。
だから。
――今日のボクは、ちょっと怖いよ……?
あの言葉は、敵だけへ向けたものではなかった。
やがて爆炎と土煙が薄れていく。
黒く焦げた地面。吹き飛ばされた武器。あちこちに倒れる兵士達。
その中心で、リンはまだ立っていた。
「……いたた」
頬へ触れる。
指先に、僅かな痛み。
爆発の熱を完全には防ぎきれなかったらしく、白い肌へ小さな赤みが残っている。
リンはむっと眉を寄せた。
「クロエの嘘つき。何が『防御の付与は完璧だよ』だよ。やけどしちゃったじゃないか」
指先に淡い光が灯る。頬の赤みが消えていく。ついでに喉へ残っていた違和感も、身体へ入り込んだ僅かな毒も、爆発で受けた細かな負担もまとめて癒した。
数秒後。
そこには、傷一つ残っていない。
リンは小さく息を吐くと、目元へ落ちた前髪をそのままに、メスを握り直した。
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