第四黒薔薇人形 ランカ
意識が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
バランは重い瞼を開き、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。
「……ここは」
見覚えがない。
古びた自宅でも、長年過ごしてきた工房でもなかった。磨き上げられた家具と上質な調度品が整然と並び、自分には到底縁のない上等な客室のように見える。
記憶を辿ろうとするが、どうにも頭がはっきりしない。
「確か、儂は……」
身体を起こそうとした、その時だった。
さらりと何かが頬へかかる。
「……?」
髪だった。
しかも、見慣れた自分の髪ではない。長く柔らかな金髪が、視界の端で揺れている。
邪魔そうに手で払おうとして、バランの動きが止まった。
「…………?」
目の前にある手が、おかしい。
小さい。
細い指には傷も火傷の痕もなく、何十年も鉄と炎を相手にしてきた鍛冶師の手とは思えないほど、肌はきめ細かく滑らかだった。
「……なんじゃ、これ」
恐る恐る腕を見る。細く、しなやかで、太く筋張った自分の腕とは似ても似つかない。
嫌な予感を覚えながら、さらに視線を下へ落とした。
身につけているのは、装飾のない簡素なワンピース。そこから伸びる脚も小さく細く、やはり傷一つない。
もう一度、手を見る。
腕を見る。
脚を見る。
そして、頬へ落ちてきた金髪を見る。
「…………なんじゃこれぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
甲高い少女の絶叫が、部屋中に響き渡った。
「…………!」
自分の口から飛び出した声に、バラン自身が固まる。
「こ、声まで……!?」
直後、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
扉が開き、エミリアとルミが姿を現す。どうやら隣の部屋で、バランが目を覚ますのを待っていたらしい。
「起きたのね」
「お目覚めになられましたか」
「お前さんら!」
バランはベッドの上からエミリアを指差した。
「これは何じゃ!?」
「何って?」
「儂の身体じゃ!」
「ああ、それね」
エミリアは、まるで大したことではないように頷いた。
「貴方にふさわしい、新しい身体よ」
「……新しい身体?」
「ええ。自分で見た方が早いわ」
そう言って、部屋の隅に置かれた姿見を指差す。
嫌な予感しかしなかった。
それでもベッドから降り、覚束ない足取りで鏡へ向かう。
歩幅が違う。目線も低い。何より、身体が驚くほど軽い。
やがて姿見の前へ立ち、バランは完全に固まった。
「…………」
鏡の中にいたのは、小柄な少女だった。
長い金髪。整った幼い顔立ち。見知らぬ少女が、自分とまったく同じ動きで呆然と鏡を見つめている。
右手を上げる。
鏡の少女も右手を上げる。
頬を抓る。
鏡の少女も頬を抓る。
「…………」
ゆっくりとエミリアを振り返った。
「なんで儂、女になっとるんじゃ!」
「だから言ったでしょう? 私の配下になるのなら、美しさは必要だって」
「そういう意味じゃったのか!?」
「他にどんな意味があるのよ」
「分かるわけないじゃろうが!」
叫んだところで、ついに力尽きた。
バランはその場に膝をつき、がっくりと項垂れる。
「……孫のためなら、どんな恥辱にでも耐えようとは思っとった」
「大袈裟ね」
「覚悟はしとったんじゃ……。じゃが、尊厳まで奪われる覚悟はしとらんかった……」
「あら、ちゃんと言質は取ったわよ」
バランがゆっくりと顔を上げる。
「……何?」
「貴方のすべてを私に捧げるって」
「…………」
「なら、私の理想に、私の美学に合わせてもらうのは当然でしょう?」
「当然なわけあるか!」
エミリアは堂々と胸を張った。
「異議は聞かないわ」
「悪魔じゃ……」
心の底から絞り出したような声だった。
だが、当のエミリアはむしろ満足そうに頬へ手を添える。
「こういうのも、一度やってみたかったのよね。他の三人は素直すぎたのよ。何をしても受け入れてくれるんだもの」
うっとりと笑う。
「今回はちゃんと悪っぽくていいわぁ……」
『普通に前もって説明してあげればいいじゃないですか……』
(嫌よ。それじゃ悪の女王っぽくないでしょう?)
『そういうところですよ……』
呆れた声を無視し、エミリアは上機嫌のままバランを眺めていた。
だが、バランの方はそれどころではない。
改めて自分の腕を見る。
「……しかし、これではお前さんの望みを叶えることはできんの」
「あら?」
「見てみい、この腕を。こんな細腕で鉄を打てるわけがないじゃろう。儂の鎚すらまともに振れるかどうか――」
「それについては問題ないわ」
「何?」
エミリアは隣へ視線を向ける。
「ルミ」
「はい」
ルミはベッドの横へ歩み寄った。
そこには、アイゼルから持ってきたバランの鎚が置かれている。
「……おい」
ルミが柄を掴み、何気ない動作で持ち上げた。
「少々失礼いたします」
「待て、何を――」
ひょい。
鎚が投げられた。
「なっ!?」
長年染みついた習慣だった。
飛んできた自分の鎚を見た瞬間、反射的に手が伸びる。
だが、すぐに気づいた。
(待て!)
今の自分は小柄な少女だ。
「馬鹿者! 受け取れるわけが――!」
慌てて身体を逸らしたため、伸ばしていたのは片手だけだった。
その小さな手に、鎚の柄が収まる。
「――っ!」
腕ごと持っていかれる。
そう思った。
「…………」
何も起きなかった。
バランは片手を前へ伸ばしたまま固まっている。
その手には、自分が何十年も使い続けてきた鎚が、しっかりと握られていた。
「…………は?」
重さは分かる。
重心も、柄から伝わる感触も、間違いなく自分の鎚だ。
それなのに片手で持てる。それどころか、驚くほど軽い。
恐る恐る持ち上げ、手首を返す。鎚は何の抵抗もなくその動きについてきた。
「なん……じゃ、これ」
「言ったでしょう?」
エミリアが満足そうに笑う。
「その身体は、黒薔薇人形――ブラックドールズよ」
「ブラック……ドールズ?」
「ええ。禍津神ルミナが作り上げた、神造の肉体よ」
「……禍津神?」
エミリアの視線が、隣に立つルミへ向いた。
つられるように、バランもそちらを見る。
「…………」
先ほどまでと、何かが違う。
姿は同じだった。
だが、そこに立つ存在から放たれる気配がまるで違う。
静かに佇んでいるだけなのに、部屋の空気そのものが張り詰める。
人ではない。
頭で考えるより先に、本能がそう理解するほどの神威だった。
ルミ――いや。
禍津神ルミナが、悠然と微笑む。
「気に入ってくれたかしら?」
「…………」
バランは自分の細い腕を見る。
片手で握った鎚を見る。
そして、もう一度ルミナを見る。
「……話がどんどん大きくなっとらんか?」
「あら、今更でしょう?」
エミリアは楽しそうに笑った。
やがて神威が消え、そこには再びいつもの穏やかなメイド姿のルミが立っていた。
「さて。ついでだから、私についても話しておきましょうか」
「……まだあるのか」
「大事なことよ」
エミリアは自分の胸元へ手を添える。
「今ここで貴方と話している私は、この世界の人間ではないわ」
「…………は?」
「この身体はエミリア・ローゼンバーグのもの。でも、今この身体を動かしている私の名は、橘蓮」
「タチバナ……レン?」
「異世界から、この世界へやって来た人間よ」
バランはしばらく黙った。
「……今日は儂を驚かせんと死ぬ日なのか?」
「失礼ね。大事な説明でしょう?」
「量を考えろ、量を」
エミリアは聞かなかったことにした。
「貴方に見せた刀も、玉鋼も、冶金について話したことも、私が元いた世界の知識よ」
「……なるほど」
そこでバランの表情が変わる。
「では、あの時お前さんが妙に刀に詳しかったのも?」
「私の知識と経験ね」
「経験?」
「あら。ちゃんと覚えてたのね」
「やはり何か隠しとったな!」
「約束したでしょう? 私のために鎚を振るうなら教えてあげるって」
エミリアは意地の悪い笑みを浮かべる。
「今から教えてあげるわ」
「どうやってじゃ?」
「私には、ルミナから与えられた能力がいくつかあるの。その一つが――憑依」
「憑依……?」
「他人の身体へ入り、その身体を私が動かせる能力よ」
バランが一歩退く。
「待て。今さらっと恐ろしいことを言わんかったか?」
「ブラックドールズの場合は、それだけじゃないわ」
エミリアは自分の頭を指先で示した。
「私が貴方へ憑依すると、互いの知識や経験を共有できるのよ」
「……共有?」
「私の知っていることを貴方が知る。貴方が知っていることを私も知る。口で説明するより、ずっと早いでしょう?」
「いや、待て。まさか今から――」
「試してみましょう」
「人の話を聞け!」
抗議を無視して、エミリアは目を閉じる。
意識を集中させた。
――憑依。
◇
「…………!」
瞬間。
バランの中へ、見知らぬ記憶が流れ込んできた。
知らない街。
見たこともない建物。
異質な文化。
そして、炎。
刀鍛冶の工房だった。
既に火の入った炉。職人によって用意された玉鋼。赤く熱せられた鉄を前に、一人の男が鎚を握っている。
橘蓮。
『……お前さん、本当に打ったことがあるのか!』
(だから刀には詳しかったでしょう?)
職人に教えられながら、蓮が赤熱した鉄へ鎚を振り下ろす。
甲高い音。
舞い散る火花。
鉄が形を変えていく感触。
だが、剣匠だったバランが見れば、状況はすぐに分かった。
『炉もある! 玉鋼も用意されとる! ほとんど職人がお膳立てしとるではないか!』
(だから、一から刀を作ったなんて言ってないでしょう?)
『あれだけ意味深に隠しておいてこれか!』
(実際に打ったことはあるもの)
『言い方というものがあるじゃろうが!』
それでも、蓮が刀について調べた知識は本物だった。
刀身の構造。焼き入れ。刃文。反り。
実物を見て、職人から説明を受け、興味の赴くままに調べ続けた記憶が次々と流れ込んでくる。
『……なるほどのう』
(何?)
『本当に好きだったんじゃな』
(格好いいもの)
『結局そこなのか……』
だが、知識が流れるのは一方だけではなかった。
(…………)
今度は蓮の側へ、バランが何十年も積み重ねてきた経験が流れ込んでくる。
炎を見る。
ただ赤いわけではない。
僅かな色の違いから、鉄の状態を読む。
鎚を落とす。
手へ返ってくる感触。響く音。火花の散り方。
それらすべてが、鉄の状態を伝えてくる。
(……すごい)
どこへ鎚を入れれば、鉄がどう動くのか。いつ炉から出し、どこまで熱を加え、いつ水へ入れるのか。
言葉にすれば単純な工程の一つ一つに、何十年という経験が積み重なっていた。
(鉄って、こんなふうに見るのね)
『何じゃ?』
(色だけじゃない。音も、火花も、鎚から返ってくる感触も……全部使ってる)
『当たり前じゃろう』
(私には当たり前じゃないわよ)
蓮は、その感覚を楽しむように笑った。
(面白いわ。これならもっと色々作らせられるわね)
『やっぱり自分で作る気はないんじゃな!』
(言ったでしょう? 悪の女王は、自分で作るものじゃないわ。優秀な配下に作らせるものよ)
『…………』
少しの沈黙。
『はっ。とんでもない主を持ったもんじゃ』
(今頃気づいたの?)
◇
憑依が解ける。
バランはゆっくりと目を開いた。
「…………」
自分の手を見る。
細く、小さな手。
だが、その中には何十年も積み上げてきた自分の技術が、確かに残っている。
それだけではない。刀を始めとした、今まで知らなかった武器。金属。技術。その先へ繋がる新しい知識まで、頭の中に存在していた。
「……なるほどのう」
「どう?」
エミリアが楽しそうに尋ねる。
「ブラックドールズも悪くないでしょう?」
「……まあ、身体については認めてやってもよさそうじゃな」
「あら。随分と偉そうね」
「勝手にこんな姿にしといて何を言っとる」
「それはそれとして――」
エミリアが人差し指を立てた。
「最後に、一番重要なことよ」
「……まだあるのか?」
「当然でしょう?」
エミリアは真剣な顔で、バランを上から下まで眺める。
「私のドールズには、美しさだけじゃなく、私の悪の矜持に相応しい振る舞いも身につけてもらうわ」
「悪の……矜持?」
「ええ。貴方の職人としての矜持は気に入っているわ。そこはそのままで結構よ」
「なら、何が問題なんじゃ?」
「まず、その立ち方」
「ん?」
「駄目」
「何がじゃ?」
「脚をそんなに開かない。ガニ股も駄目。さっき姿見まで歩いた時の歩き方も全部駄目よ」
「…………」
「それから座り方、食事の作法、身のこなしも確認しないといけないわね」
「待て待て待て。何の話をしとるんじゃ?」
「貴方の教育よ」
「何故、儂がそんなものを!」
「今の貴方は私のドールズなのよ? 私の悪の矜持に相応しくない振る舞いを、そのままにしておくわけにはいかないでしょう?」
「儂の歩き方が何でお前さんの悪の矜持に関係するんじゃ!」
「関係するわ。私が気になるもの」
「一番面倒な理由が出てきおった!」
エミリアは気にも留めず、顎へ指を添えてバランを見る。
「口調は……」
「口調まで変えさせる気か!?」
「いいえ」
「……お?」
「そのままでいいわ」
思わぬ答えに、バランが目を瞬く。
「のじゃロリはありね」
「……何を言っとるんじゃ?」
「むしろそこは残しましょう。見た目との組み合わせが素晴らしいもの」
「何一つ理解できんぞ……」
「でも、最低限の女性らしさは付け加えないと駄目ね」
「だから何故じゃ!」
エミリアは満面の笑みを浮かべた。
「貴方とクロエは、同じ匂いがするわ」
「……誰じゃ、それは」
「会えば分かるわ」
その笑顔を見た瞬間、バランの背筋に嫌な予感が走った。
「これからたっぷりと、お勉強の時間よ」
「な、何のお勉強じゃ……?」
「まずは歩き方から始めましょうか」
「嫌じゃ!」
「異議は認めないわ」
「またそれか!」
エミリアは上機嫌だった。
「やっぱり、のじゃロリ枠っていいわね」
「何なんじゃぁぁぁぁぁぁっ!?」
◇
数日後。
「出来たわ!」
エミリアは上機嫌で、一着の衣装をバランの前へ広げた。
「貴方のためにデザインした制服よ」
「…………」
黒を基調としたゴシック調の衣装だった。
小柄な身体に合わせたスカートに、白を差し色として加えた意匠。可愛らしさを持ちながらも過度に華美ではなく、エミリアの美意識によって細部までまとめられている。
デザインを仕上げたのはエミリア自身だが、実際に仕立てたのは王国の服飾ギルドだった。
数日前のバランなら、見た瞬間に叫んでいただろう。
だが今は、衣装を一瞥しただけだった。
「……好きにすればいいのじゃ」
「あら。随分と聞き分けがよくなったわね」
「もはや、こんな服にすんなり着替えられるようになった儂自身が怖いわ……」
歩き方。
立ち方。
座り方。
食事の作法。
数日間、エミリアによる容赦のない指導を受け続けた結果、服装程度では抵抗する気力も湧かなくなっていた。
「では、着替えてきなさい」
「はいはいなのじゃ……」
「返事は一回」
「はいなのじゃ……」
しばらくして、黒い制服へ着替えたバランが戻ってくる。
長い金髪は左右で結い上げられ、綺麗なツインテールに整えられていた。数日前まで無造作に垂らしていた髪も丁寧に手入れされ、歩くたびに柔らかく揺れる。
立ち方も、もう以前とは違った。
脚を大きく開くこともなく、背筋を伸ばし、小柄な身体に似合う自然な姿勢で立っている。
本人が望んで身につけたものではない。
数日間、エミリアに直され続けた結果だった。
「ええ」
エミリアは上から下まで眺め、満足そうに頷く。
「やっぱり似合うわね」
「そうかそうか。よかったのう……」
「それで、最後に――」
「まだあるのじゃ!?」
ついにバランが声を上げた。
「服も着た! 歩き方も直した! 飯を食う時の姿勢まで散々直された! まだ儂に何をさせる気じゃ!」
「そんな大したことじゃないわよ」
エミリアは涼しい顔で答える。
「名前を変えるだけ」
「……名前?」
「ええ」
改めて目の前の少女を見る。
「バランという名前は、今の貴方にはもう似合わないわ」
「…………」
「これから貴方は――ランカよ」
「ランカ?」
「ええ。これからは、そう名乗りなさい」
「…………」
しばらく沈黙が続いた。
やがてバラン――ランカは、力なくその場にぺたんと座り込む。
ツインテールがふわりと揺れ、脚は自然に横へ流れた。
数日前なら絶対にしなかった座り方。
だが今では、本人が意識するより先に身体がそう動いてしまうほど、この数日間の教育が染みついていた。
「……もはや、名前くらいならどうでもいいのじゃ」
「あら?」
「ランカでも何でも、好きに呼べばいいのじゃ……」
エミリアは、その座り方を見て満足そうに微笑む。
「随分、様になってきたじゃない」
「うるさいのじゃ!」
ランカは反射的に言い返し、深々と溜息を吐いた。
「……早く鍛冶場に立ちたいのじゃ」
「ええ。もちろんよ」
エミリアの口元が上がる。
「そのために貴方を手に入れたんだもの」
こうして。
剣匠バランは、その名を終えた。
第四の薔薇人形――ランカ。
新たな身体と、新たな名を得た鍛冶師は、再び鎚を振るうことになる。
感想、御意見いただけると嬉しいです




