ステージ6『深淵』(30話)
「ゼノ……兄ちゃん」
強くゼノに抱きついていたリンが不安そうに顔をあげる。
その顔は涙でぐしゃぐしゃになり、声すらかすれていたが、大きな瞳は確実にゼノを捉えていた。
だからこそゼノは、
「大丈夫だよ、リンたん。僕は世界一足が速いんだから」
にっこりと無邪気に笑って、抱きつくリンの両腕を自分からそっと離した。
長い黒髪がふわりと舞い、ゼノは背を向ける。
「行ってくるね」
誰にいったのかはわからないが、ゼノはそれだけいうと駆けだした。
「ゼノ兄ちゃん! ありがとう!」
走るゼノの後ろからリンがありったけの声で叫んだ。
ゼノは片手を挙げ、それに答えるとあっというまに村から姿を消した。
タイムリミッドは翌朝。
◆◆◆
天界
「チッ、たった3人に何を手こずっている……」
天上閣の一室で苛立った声をあげたのは、細い眼鏡をかけた60歳くらいの男。
世界から生み出されたゼノの力を狙うその男は、天界の指示に従わず、強大な力を我が手中に収めて自身が頂点に君臨しようと企んでいた。
その部屋にはもう一人滞在しており、40歳過ぎの赤黒いマントを身に纏った男は、ソファに腰かけ優雅にお茶をいただいていた。
「聞いているのかっ、ロイル」
「大きな声を出さずとも、聞こえている」
「聞こえているなら……」
「だから、俺を探したのだろう」
手に持っていたカップをソーサーに戻し、ロイルは眼鏡の男を冷ややかに見た。
冷酷非道と呼ばれたこの男、ロイル。その残忍さから天上閣を追放されたのはもう何十年も前だったが、眼鏡の男はその行方を調べ、大金を積んだ。
腕は確かであり、目的の為ならどんなことでもする。そして目的を必ず果たす、それがロイルという男だった。追放されはしたが、裏で仕事をしているのは知っていた。
眼鏡の男は素性を隠して動いていたロイルをようやく見つけ出し、私利私欲のために密かにここへ呼んだ。
「ああ、そうだ」
射抜かれる鋭い眼光に、眼鏡の男は一瞬怯んだが、すぐに平常を取り繕い話を進める。
手段は選ばない、世界より生まれた者を捕らえてこいと指示を出す。その力さえあれば、天界など容易く手に入る、自分の思うがままに全てを動かせると、眼鏡の男は下品に笑みを作る。
「承知した」
音もなく立ち上がったロイルは、マントを翻すと頭からフードを深くかぶる。正体がばれないように顔を完全に隠す。
とはいえ、男が追放されたのは随分昔のこと、ロイルの顔など、もう殆ど誰も覚えてはいないだろう。
「残りの報酬は、世界が生んだ者と引き換えだ」
手付金として払った金額以上の報酬を用意すると、眼鏡の男は部屋を出ていくロイルに声をかけた。
「ああ。それより、……俺は手段を選ばない、いいな」
「構わん、どんな手を使ってもよい」
「それだけ確認できれば十分だ。お前の望みを叶えてやる」
温度のない声でそれだけ言い残すと、ロイルは静かに部屋を後にした。
ロイルの去った部屋で、眼鏡の男は冷たい汗を拭う。
「座っているだけだというのに、なんという殺気だ……」
物静かにお茶を飲んでいただけ、ただそれだけなのに、ロイルから溢れでる殺気と冷気は、部屋を空気を凍らせていた。それはまるで人の温もりなど微塵もなく、ただ冷たく。
だが男は、ロイルが出て行った扉を見つめながら、口角を緩めて下品な笑みを見せた。
「世界の力さえあれば、私は天界の王となれる……、くっ、ははは、私を愚弄した者たちを跪かせてくれるわ」
両手を広げて、男は高らかに笑いながら、自らが天界に裁きを下す日を夢に見ながら一人笑った。
◆◆◆
地平線から太陽が昇る前の夜明け前、ゼノはかつて村であった場所に一人立ち尽くしていた。
「……なんで」
小さな紙袋をしっかりと手に握りしめ、ゼノは信じられない、信じたくない光景を目にし、言葉と光を失った。
建物は半壊や全壊、そして無数に倒れる人と、大量の赤い血の海。
息をしているものは誰一人としていない。
ただただ呆然と立ち尽くすゼノは、ゆっくりとかつて村だった場所で静かに辺りを見回した。昨日まで話し声も笑い声も、活気も熱も、騒がしさも温かさもあったはずなのに、全部全部無くなっている。
地に倒れる人々が、ゼノが最も嫌いな色に染まっている。黒く赤く流れたその血液は、ゼノに恐怖と怒り、絶望と闇を与える。
ぐしゃりと握りつぶした紙袋を手に、ゼノが天を向く。
「……嫌だ、僕はその色が嫌いなんだ。──僕にその色を見せないでぇぇぇ!」
固く瞳を閉じたゼノは、空に向かって悲痛に叫ぶ。何よりも嫌いな赤、その色を見たくないから、奪いたくないから、ゼノは戦わない。自分勝手でもエゴでも、誰に何と言われようとも、ゼノはそれを拒否する。
だから、ゼノには二人がいる、ライラとイズ。自分の出来ないことをしてくれる大切な二人。
黒髪が風に舞い、ゼノは手が白く色を失うまで強く握りしめた。
『ごめんなさい』声にならなかった声が、世界に溶けるように浸透した。二人の手は汚して、自分は真っ白でいる、……それが罪であると知っている。けれど、自分には出来ない……、どうしてもしたくないと、ゼノは奥歯を噛み締めて、眼下に広がる赤い海に背筋が凍りつくような感覚を持つ。
「……どうして」
こんなことが。絶対に見たくなかった光景を目の前に、ゼノはゆっくりと視線を走らせて、とある場所でその視線を止めた。
「リンたん!」
大声をあげ、ゼノが走る。




