第76話 戻りの印
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 本小説の主人公
オスカー・ウォーカー エマの弟
ローワン・ウォーカー エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった
マルタ・リード 治療師 エマに治療を教えた
オルブライト・ケイン 白鹿のギルド長
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
ガイ・ラザフォード 白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者
ミレイ・アスター 白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ
サイモン・レック ダンジョンでエマ達を襲撃した謎の男
イレーネ・ヴォス 白鹿のギルドを襲撃した謎の女
ガロン・レイス ダンジョンでエマ達を襲撃した一人
ラウル・ゼイン 東水門で襲撃してきた一人
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
白い扉から離れても、靴底には粉が残った。
踏むたびに、乾いた白が敷石の上で薄く潰れる。敵の足音はもう聞こえない。けれど、消えた音の向こうに何もないとは思えなかった。通路の奥は暗く、崩れた粉がまだ空気の中を漂っている。灯りを動かすだけで、壁の筋が別のものに見えた。
ノルが先へ出ようとした。
エマは荷の革紐を握り直し、声をかけた。
「ノルさん。手甲を外してください」
ノルは足を止めたが、振り返っただけだった。
「戻ってからでいい」
「ここで見ます」
「皮一枚だ」
「皮一枚で済んでるか、私が見ます」
ノルは眉を動かした。言い返す顔ではあった。だが、この場所で押し問答をする方が時間を食うと悟ったのだろう。剣を持っていない方の手を差し出した。
手甲の縁に、細い裂け目があった。
サイモンの針を受けた場所だ。金具の継ぎ目に白い粉が入り、革の内側まで湿っている。血か、汗か、薬か。見ただけでは判じられない。
エマは布を噛ませて留め具を外したが、指が滑った。その時ようやく、自分の手も粉と血で汚れていることに気づいた。
内側の皮膚には、浅い赤い線があった。
深くはない。だが、サイモンの針は傷の深さだけで見ていいものではなかった。六階層で、ニナの腕が遅れた時のことを思い出す。灯りを横切った細い針。弾いたはずなのに、遅れて入ってくる毒。
エマは酒精を含ませた布で、傷の周りだけを拭いた。
ノルの指が小さく強張る。
「痺れは」
「ない」
「指、開いてください」
ノルは黙って従った。
ノルが親指、人差し指、中指と開いていく動きに、遅れはなかった。爪の色も悪くなく、汗は出ているが戦闘の後なら不自然ではない。
それでも、エマは傷口から目を離せなかった。
「リディアに見せます」
「そうする」
返事が素直だったので、今度はエマの方が一瞬だけ言葉を探した。
ノルは視線を逸らさずに言った。
「お前がそれを見逃すとは思っていない」
「なら、先に出してください」
「悪かった」
エマは手甲を戻さず、布で包んで荷の上に括った。手甲の内側に毒が残っているかもしれない。ここでつけ直す方が危ない。
「手は出したままで。色が変わったら言ってください」
「言う」
「色が変わる前でも、違和感があれば」
「承知した」
後ろで、ガイが片膝をついたまま口元を動かした。笑うには、少し足りなかった。
「俺も見てもらっていいか。肩が、さっきから勝手に主張してる」
「主張しなくても見ます」
エマはすぐにそちらへ移った。
ミレイがガイの横に膝をつき、背が倒れないよう支えている。ガイの口元にはいつもの軽さが残っていたが、目は笑っていない。肩口の布は赤く染まり、端から重く垂れ始めていた。
「脱がせる?」
ミレイが聞く。
「ここでは脱がせません。止血だけ足します」
ガイが小さく言った。
「命拾いした」
「縫うのは館です」
「それを先に言うか」
「逃げられたら困るので」
「逃げない。たぶん」
「たぶんは禁止です」
エマは厚い布を重ね、革紐で肩の上から押さえた。強く締めすぎると腕が鈍る。緩いと血が増える。指で布の沈み方を確かめると、ガイの呼吸が一度だけ乱れた。
痛みはある。
それでも、ここで顔色を見すぎると、彼は軽口で逃げる。
「歩く時はミレイさんに寄ってください」
「寄ると怒られないか」
ミレイが即座に返した。
「今は怒らない。あとで言う」
「あとか」
「覚えてたらね」
「忘れてくれ」
「無理」
ガイは諦めたように肩を落とした。動いたせいで布がずれ、エマが黙って直す。今度は、ガイも口を閉じた。
ニナは離れた場所で、短剣の鞘を確かめていた。
身をかがめる動きに遅れがある。左腕ではなく、右手で鞘に触れた。いつもなら無駄のない動作なのに、鞘の粉を払う指が途中で止まる。イレーネの刃で裂かれた袖から、細く血が滲んでいた。
「ニナ」
「収めてあります」
「短剣じゃなくて、腕です」
ニナは短剣の鞘から手を離し、困った顔をした。
「腕の話をされると、短剣の方が言い訳しやすいです」
「じゃあ、言い訳は館で聞きます」
「戻ったら怒られる気がします」
「怒る前に洗う」
「それ、マルタさんみたいです」
エマは返事をしなかった。
自分が似てきたのか、そうしなければ立っていられないのか、判然としなかった。
オスカーは、白い扉のあった方を見ていた。
扉はもう、はっきりした輪郭を失っている。だが、完全に消えたわけではなかった。壁の奥に、白い線だけが残っている。触れればまた何かが起きるのではないかと、そう思わせる程度には、そこにあった。
オスカーの杖先には、布が巻かれている。
ニナが音を抑えるために巻いた布だった。それが今は、白い粉と灰と血を吸い、硬くなりかけていた。杖を置くたびに音が小さく潰れる。歩くための杖ではなく、何かを押さえてきたもののようだった。
「オスカー」
エマは呼んだ。
オスカーは扉から目を離すまでに、間を置いた。
「足は」
「痛いというより、重いです」
「止まれる?」
「止まったら、次に動くのが嫌になりそうです」
今の自分の状態を、できるだけ正確に伝えようとする声だった。
その答えに、エマはすぐ手を出せなかった。
「曲がり角ごとに一回、短く止まる」
エマは言った。
「長く座ると立ちにくいと思う」
「はい」
「杖はそのまま。布は外さない」
「はい」
オスカーは杖を置き直した。
その時、エマは自分の右手を見た。
ローワンに握られていた手。
今は何も握っていない。けれど、白い粉の中で、あの冷たい手を探した感覚だけが残っている。父は自分を戻した。戻して、動かなくなった。
エマは荷を持ち直した。
六人分の歩幅を、もう一度目で拾う。
一人でも欠ければ、帳面の上ではただの空欄になる。けれど、それぞれに手があり、声があり、痛みを隠す癖がある。
「行きます」
ノルが先頭に立った。
「俺が前を見る。エマは中を見ろ」
「手は出したままで」
「心得てる」
「なら、隠さないでください」
ノルはかすかに袖を上げた。
それだけで十分だった。
帰り道は、来た時よりも狭く感じた。
壁が寄ってきたわけではない。足元を見なければならない者が増えただけだ。ガイの肩、ニナの腕、ノルの手、オスカーの杖。ミレイの矢筒も、いつもより低い位置で揺れている。全員がどこかをかばっているせいで、歩幅が揃わない。
灯りの端で、壁の白い筋が薄く浮かんだ。古い礼拝堂の柱跡のようにも見える。何かを支えていた場所の名残だけが残り、支えていたものはもうない。
「右へ寄れ」
ノルが低く言った。
全員がじりじりと動く。
エマは理由を聞くより先に床を見た。来た時に踏んだ跡とは別の白が壁の根元だけに新しく落ち、粉の積もり方が変わっていた。
オスカーの杖が、その手前で止まった。
「そこ、下が空いてるかもしれません」
ノルが灯りを低くした。
「見えるか」
「音が違います」
オスカーは自分の杖先を見ている。
「踏んだ時じゃなくて、粉が落ちた時の音です。軽い」
ガイが横から言った。
「耳まで使うのか。器用だな」
「器用なら、もっとうまく歩いてます」
オスカーの返しは弱かったが、消えてはいなかった。
ノルは床を避けて進路をずらした。
「助かった」
オスカーは頷かなかった。ただ、杖を置き直し、また歩き始めた。
長く止まると、本当に足が動かなくなるのだろう。
エマは横から見ていた。支える位置にはいる。けれど、触らない。触れれば楽になるかもしれない。だが、今のオスカーは楽に戻りたいのではなく、自分の足で戻ろうとしている。
途中でニナが咳き込んだ。
灰と白い粉を吸った喉が荒れている。エマは水袋を渡した。
「一口だけ」
「一口って、どれくらいですか」
「口を湿らせるくらい」
「それは、一口より少ないです」
「館で飲んでください」
ニナは水袋を受け取り、ほんの一口だけ飲んだ。悔しそうな顔をしたが、返す時にはちゃんと蓋を閉めていた。
「味が薄いです」
「水なので」
「知ってます」
「なら言わない」
「何か言ってないと、変に考えます」
エマは水袋を受け取る手を止めた。
ニナは視線を通路の奥に向けたまま、短く笑った。
「さっきのは、忘れてください」
「嫌です」
「え」
「腕を洗う時に聞きます」
ニナは口を開きかけ、やめた。
「……それは、逃げにくいです」
「逃がしません」
今度は、ニナが笑った。
ミレイがガイの肩を支え直しながら言った。
「こっちは会話の余裕がないんだけど」
ガイは目を細める。
「俺はある」
「あなたが喋ると揺れるの」
「存在が大きいからな」
「傷口の話よ」
「すまん」
その謝り方があまりに早くて、ミレイは一瞬だけ顔をゆるめた。すぐに前を見たが、エマには見えた。
やがて白い粉の匂いが薄くなり、乾いた石と油の匂いがした。監視所の方から人の声が聞こえ、封鎖札のある入口まで来ると、灯りが黄色く見えた。
ダンは机の向こうではなく、入口の内側に立っていた。
帳面を持っている。開いたままの紙に、朝書いた六人の名があるのだろう。領主側の見張りが二人、離れた場所でこちらを見ていた。
ダンはまずノルを見た。
次に、ガイの肩。ミレイの手。ニナの頬。エマの荷。最後に、オスカーの杖先で止まった。
何かを聞きたい顔だった。
それでも最初に出た言葉は、いつもの仕事の声だった。
「人数」
ノルが答える。
「六」
ダンは帳面に目を落とした。
「ノル・ハーヴェイ」
「いる」
「エマ・ウォーカー」
「います」
「ニナ・クラーク」
「います」
声はかすれていたが、ニナは自分で答えた。
「ガイ・ラザフォード」
ガイが片手を上げようとして、肩の痛みに顔をしかめた。
「いる。上げる手は間違えた」
ミレイが小さく言う。
「余計なことをしない」
ダンは筆を止めずに線を引いた。
「ミレイ・アスター」
「いるわ」
筆の先が最後の名の前で止まる。
ダンはオスカーを見た。
「オスカー・ウォーカー」
オスカーは杖を床に置いた。
音は布に吸われて、小さく潰れた。
「います」
その一言が、監視所の中に残った。
朝、ここを通った時も、オスカーは自分の足で立っていた。けれど、今の彼は粉をつけ、疲れを隠しきれず、杖先の布を硬く汚して戻ってきた。三週間前に運び出された少年でも、朝送り出された少年でもない。
ダンは、何かを聞こうとした。
戻ったのか。何を見たのか。なぜそんな顔をしているのか。
そのどれも、ここで聞く言葉ではなかった。
「……戻ったな」
オスカーの指が杖の柄を握り直した。
「はい」
ダンは帳面へ戻りの印を入れた。
六つ。
筆の先が紙を擦る音は小さい。けれど、エマにはやけにはっきり聞こえた。
「正面から入った者は」
ノルが聞いた。
ダンは帳面を閉じずに答える。
「白鹿以外はいない。戻りの隊もまだない。押し通ろうとした者もいない」
「封鎖は続けてくれ」
「言われなくても閉じておく」
ダンの声に疲れが混じった。
「名も顔も残す。通す理由がない者は通さない」
「頼む」
ノルは短く返した。
ダンの視線が、もう一度オスカーの杖先へ落ちた。
布の端から、乾いた白が床にこぼれている。
「その布」
オスカーは杖を引いた。
「あとで替えます」
ダンは、深く聞かなかった。
「そうか」
ダンは帳面を閉じた。
六人の名の横には、戻りの印が入っている。
封鎖札はまだ入口に掛かっていた。外の光が強くなり、赤い印の色だけが床に落ちている。
若い見張りが、入口の床を見た。
白い粉が落ちていた。杖先からこぼれたものだろう。小さな跡だった。掃けば消え、水を撒けば流れる。
「掃きますか」
見張りが聞いた。
ダンは帳面の角を指で押さえたまま、その粉を見た。
「あとでいい」
見張りは不思議そうにしたが、引き下がった。
ダンは帳面をもう一度開いた。
六つの印が並んでいる。
抜けはなかった。
けれど、その印だけでは、誰が何を置いて帰ってきたのかまでは書けなかった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




