きみの名4
僕には好きな人がいる。
いや、いた。
そう自覚するようになったのは、故郷の事を懐かしそうに話す彼女の笑顔に、胸が痛むようになったからだ。
彼女がその話をする時、必ずそこには彼女の愛した人間がいる。
どんな男なんだろうと、初めはそれだけだった。
僕は彼女との約束を破り、告白をせずに彼女の故郷へとお忍びで出掛けることにした。
そして。
「ジュリ」
そう呼ばれ、彼女は嬉しそうに、本当に嬉しそうに、その男の腕に飛び込んだ。
僕とそんなに歳も変わらない、育ちの良さそうな男だった。
政略結婚という不条理に、真っ直ぐな怒りを表すのを簡単に想像できるような。
そうして僕は自覚した。
彼女を愛し始めていた自分を。
僕は約束を思い出す。
想いを伝えて、全部終わりにしようと言った彼女の言葉を。
ジュリはあの男に想いを伝えるのだろうか?
そう思ったらいてもたってもいられなかった。
気付いたら、彼女の体を抱きしめて、好きだと告げていた。
けれども彼女は、何も答えてはくれなかった。
望んだ答えも、恐れていた答えさえ。
失意のうちに僕は国へと戻り、ほどなくして彼女も帰ってきた。
どんなに僕がほっとしたか。
「ジュリ」
そう言って名前を読んだ僕に、彼女は明るい笑顔を浮かべた。
あの男に向けたのと同じ顔。
その瞬間、頭をかすめたのはいつかのジュリの言葉だった。
「声もそっくりなんです」
それ以来、僕は彼女の名前を呼ばなくなった。
ジュリはどんどん笑わなくなっていった。
望まぬ結婚のせいだと言う事ははっきりしている。
卑怯な話だけれど、彼女がこの結婚を断れない事はわかっていた。
でも、どこか追い詰められたようなその顔に、いつか彼女はいなくなってしまうのではないかという不安を覚えた。
耐えられないと、そう思った。
はっきりとした答えが欲しかった。
僕らの関係は変わる可能性があるのか?ジュリの心が、変わる望みはないのか?
そして…とうとう。
愛してると言った僕の言葉に、ジュリははっきりとした拒絶を示した。
ああ…全ては僕が壊してしまった。
僕が何も言わなければ、僕達はきっといい夫婦になれた。
感情に流される事なく、国を第一に思えるいい国王夫妻に。
子供も生まれて、彼女は家族に対しての愛情を自分にも与えてくれただろう。
今となっては愚かな話だが、最初、僕は彼女を愛せないと言った。
彼女もそう言ったではないか。
なのに、自分は彼女の心を求めてしまった。
どうして僕は、彼女を愛してしまったのだろう?
お披露目のバルコニーへと続く長い廊下。
とても静かで、外のざわめきはここへは聞こえてこない。
「本当にいいの?このまま、結婚して」シャルティンが言った。
よくない。
そういう答えを望んでいるのはわかった。
でも、望み通りにはしてやらない。
何しろもう今日は結婚式で、私達は後戻り出来ない所まで来ているのだから。
「はい」
自分は酷く卑怯なやり方で、彼の事を縛ろうとしている。
「本当に?愛してもいない男の妻になるのに」
彼が唇を歪める。自分には耐えられない、とでも言うように。
「愛してます」
咄嗟に口をついて出た。
言葉にして伝えるのははじめてだ。
あまりに心地良くて、私は自然と笑みを浮かべる。
シャルティンの顔を見上げた。
「だから、覚悟して下さい。私はあなたを振り向かせてみせます」
「…ちょっと待って」
シャルティンが突然立ち止まり、2人を案内する為に先を歩くメイドを止める。
彼女は不思議そうに、けれど言われるままに柱の影に身を潜める。
私に体を向けて、シャルティンが首をかしげた。
「今なんて言った?」
「あなたを愛してると」
その言葉は私を強くしてくれた。
真っ直ぐに彼の瞳を見つめる事が出来る。
彼は目を丸くしている。息をするのも忘れているようだ。
その様子がおかしくて、私は軽く笑う。笑った拍子に目から何かがこぼれ落ちて、自分が泣いている事に気付いた。
「ちょ…ちょっと待って。愛してるって?君が?僕を?」
せわしなく手を2人の間で動かしている。
「だって…君は故郷に残した恋人を愛してるって!」
責めているような口調に、私も声が大きくなる。
「あれは…嘘です。本当はずっと前から、あなたの事を好きでした。でも、他に好きな人がいるって言われたら、そう言うしかないじゃないですか!」
「…そんな」
悲痛なシャルティンの声。
泣きそうになるのを、私は懸命に堪えた。
「どんなに時間がかかっても構いません。…私のことを、好きになってくれませんか」
わかって欲しい。私を好きになってくれたら、幸せになれるって事を。
「ジュリ」
心臓が大きく打った。
何だってこう、この人は心臓が破裂するような事ばかり言うんだろう。
シャルティンが私の手を取る。
咄嗟に俯く。泣き顔はあまり見られたくない。
しかし彼は、さらなる爆弾を落としてくれたのだ。
「結婚しよう」
そのまま抱きしめられそうになって、私は慌てて飛びのいた。
「……ジュリ?」
「ど……どうして!?」
「どうしてって?」
彼はひたすら驚いていた。
「だって、か、彼女は!」
「彼女って?」
困り果てた顔。
「だから、シャルティンがずっと好きだった人は!」
ああ、どうして私がこんな事を言わなくてはならないのだ。
「とっくに終わってる。今は、君がいい」
「な、だっ、あ、でも…」
「うん?」
「だ、だって私をずっと、彼女の代わりにしてたじゃないですか」
シャルティンの顔が強張る。
「そんな事してない」
怒らせたとわかっていても、ここで引き下がる訳にはいかなかった。
「でも、私の国でだって……」
「あれは君に言ったんだ!」
驚いて彼の顔に目を向ける。
そこには、あの日と同じ、真剣な彼の顔があった。
瞳の中には、私しか映っていない。
いや、しっかり私が映っていた。
「じ、じゃあどうして…名前を呼ばなかったんですか」
シャルティンが気まずそうに視線を反らす。
「……名前を呼ぶと、君が嬉しそうに笑うから。他の誰かを僕に重ねてると思ってた」
「そんなこと…!」
「わかってるよ。でも君は言ったんだ。僕と、好きな奴の声が似てるって」
「……なまえ」
「え?」
「名前を、呼んでください」
「……ジュリ」
これ以上ないくらいに、優しく甘く、彼が私の名前を呼ぶ。
堪えきれずに、涙がぽろぽろとこぼれだした。
「他に何か言いたい事は?」
促されるように、私は顔を上げた。
「私のことを…好きですか?」
彼が優しい笑みを浮かべ、そして耳元でささやいた。
「大好きさ」
ゴホン、と背後で遠慮がちな人の気配。
「すみませんが2人共…王が早く来いと」
シャルティン編、完結です。ここまでお付き合い下さりありがとうございました。
更新が遅くなってしまいましたが、待っていて下さった方、本当にありがとうございます。
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