第12話
アンはサミン国の国費留学生としてイーレスに行くことになった。
マクレードの方でも、まだアンのことを公にしたくはないらしい。
よって今回は派手なドレスも、護衛もなしだ。
市民達に混じって乗合馬車に乗り、町の宿に泊まり、1人でイーレスまで行くのだ。
全てが初めてのことで、本来ならば用意の段階からアンは浮かれているはずなのだが、今回ばかりはそうはいかなかった。
原因はわかっている。ルーセルだ。
――アンはいつも、僕に何も言ってくれない――
ふと手を止めると、彼の声がいつも頭に割り込んできて、アンの心をかき乱す。
このまま行ったら、ルーセルはどう思うだろうか。
アンは慌てて頭を振った。
だからと言って、会えば余計に傷つけるだけだ。
「なにしてるの」
びくっとしてアンは息を呑んだ。
が、すぐに声の主がユーリであることを思い出す。
アンは昼間だが私服を着て、自分の部屋にいた。
明日がもう出発の日だ。
そのため今日は仕事を休みにしてもらったのだ。
そして用意が終わってほっとしている所で、ユーリがやって来ていたのだった。
「あ…何か忘れてるような気がして…」
アンはすぐにそう言ったが、ユーリはごまかせなかった。
「ルーセル様のこと考えてたんでしょ」
すっかり見透かされてしまっている。
アンは黙って頷いた。
「ねぇアン。私もいろいろ考えた。そんなもやもやしてる状態で行ったって、絶対にいい経験は出来ないと思うわ」
「……」
アンは茶色の大きなかばんを見下ろした。
ユーリは彼女の隣に腰を降ろし、元気づけるように笑う。
「行ってらっしゃいって、言ってもらいたくない?」
「……うん」
アンは少し涙目になりながら頷いた。
ルーセルの元へ帰りたい。2人で笑い合うことが出来た、あの日々に。
「私、ルーセルと話してくる」
ユーリはにっこりと笑った。
「そうよ!いってらっしゃい!」
アンはルーセルの自室へ向かった。
そろそろ日が傾きかける時間だ。
彼の部屋をノックするが、いないようだ。
彼女はしばしの逡巡の後、ドアの前に座り込む。
どうせもう用意は全て終わっている。
今戻ったら、またここへ来る勇気が沸いてこないかもしれない。
ありがたいことにこの階を通る者はほとんどいない。
せいぜい部屋を掃除するメイドくらいだ。しかも掃除の時間はもう過ぎている。
「そうだ、何言うか考えておこう…」
とにかく、今考えていることを伝えるんだと自分に言い聞かせた。
どうしてイーレスに行くのか。
それからどうして…ルーセルに会うと怖いのか。
多分それは…自分の心の弱さから。
「ルーセルが悪いんじゃない」
いや、それだけではだめだ。
「近くにいると、また傷つける」
それも何か違う。
「傷つけるのが…怖いから」
そう、そうだ。
傷つけて、嫌われるのが怖いから。
「……好きだから」
すとん、と、胸の中のごちゃごちゃがあるべき場所にしまわれたような気がした。
「…大丈夫」
確かな胸の高鳴りを感じて、アンは口元に笑みを浮かべた。
「アン?」
ばっとアンは顔を上げた。
いつのまにか辺りは暗くなっている。
どうやら、待っている間に眠ってしまっていたらしい。
「何してるの…?」
通路の向こうから、人影が近づいてきていた。
明かりに照らされた、怪訝な表情の主は…ルーセル。
アンは慌てて立ち上がった。
と、ルーセルがびくっと歩みを止めた。
「話がしたくて」
構わずアンは言葉を続ける。
「あ……。もしかして、ずっと待ってた?」
口元に手を当てて、ルーセルは戸惑った顔をした。
「う、うん」
かすかなばつの悪さを感じながら、アンはそれだけ答える。
ルーセルは驚いている。
「ごめっ…。あ!お腹空いてない?」
「へ、平気平気」
という事は、もう夕食も終わったのだ。
もしかしたら、ケリー達は心配しているかもしれない。
けれどユーリはどこにいるか知っているのだから、それは大丈夫だろうと思い直す。
とにかく今は、ルーセルに話をするのが1番だ。
「あ、じゃあ…」
どこかぎこちなくルーセルが近づいてきて、部屋のドアを開けた。
カーテンはまだ閉まっていなくて、月明かりが部屋を浮かび上がらせていた。
ルーセルの部屋は端にベット、反対側に机、中央にテーブルと、2脚だけいすがあった。
アンは2、3歩部屋の中央へ進む。
バタン
ドアの閉まる音に、彼女は飛び上がりそうなほどびっくりした。
今更ながら、自分はとんでもない事をしてしまったのではないか、という気がしてくる。
ルーセルは、手持ちぶさたに部屋の中央に進み、アンの方を振り向いた。
そのままずっと黙っている。
「…あのね」
1度大きく息を吸い込んでから、アンは思い切って話し出した。
「私…私ルーセルのことが好きなの」
ルーセルが大きく目を見開いた。が、言った本人はもっと驚いた顔をした。
どうして最初に出てくる言葉がこれなのだ!
だか、もうヤケだとばかりにアンは思いつくことから話していった。
「好きだから嫌われたくなくて、傷つけるのが怖いから、傍にいられなかった。でも、そんなのはおかしいと思ったの。ルーセルに嫌われたら、私は生きていけなくなっちゃうの。…それって異常でしょ?だから、離れる時間が必要だと思った。ルーセルが誰かと、結婚しても、大丈夫なように。私が強くなるために、もっと世間を知るために、イーレスに行こうと思ったの」
そこでようやく、ルーセルの顔を見た。
彼は、ぽかんとした表情でアンを見つめている。
もうこの顔も見れないかもしれないんだ、という事に、アンは突然気がついた。
口が勝手に言葉をつむぐ。
「帰って来たい。…でも無理かもしれない。……だから、今夜はルーセルと一緒にいたいの。最後の思い出に」
アンは真っ直ぐ視線を上げた。
大好きな人の答えを待つために。
「いない?」
父の元から高級ワインを盗んでアンとユーリの部屋へやって来たギルは、アンの不在を聞いてその場にへなへなと崩れ落ちた。
「んだよそれ。ルーセルもいないしさぁ」
「まぁまぁ、とりあえず入ったら?」
「なんでお前そんな嬉しそうなの」
恨めしげにギルはユーリを見上げた。
すでに私服のユーリはにっこり笑って肩をすくめてみせる。
仕方なく立ち上がると、ぶつぶつと呟きながらもユーリに促されて部屋に入った。
アンの持ち物はほとんど無くなり、急に殺風景になったその部屋には、大きな旅行かばんがぽつりと置かれていただけだった。
それにはあまり視線を向けず、いすにどかっと腰を下ろす。
「俺はなぁ、大変だったんだぞ?親父は今日ずーっと家にいたし、まぁ、いつもいるんだけどな?」
この部屋にずっと1人でいたならユーリはどんなに気が滅入ったことだろう。そう考えるとやってられなくて、ギルは口を開き続ける。
「だから目を盗んでここまで来るのがさぁ。そしたら入り口で8時以降は女子のところには行かせられないとか言うから折角持ってきたつまみだってさ」
「ギル」
空のコップを差し出して、ユーリがにっこりと微笑んだ。
「……なに」
ユーリはおかしくてたまらないとばかりにさらににっこりと笑った。
「大丈夫。ギルの苦労の甲斐あってか、びっくりニュースがあるわよ」
「ニュースぅ?」
胡散臭げにギルは聞き返す。
この状況でどんなニュースなら笑えると言うのだ。
ギルの手からワインを取り上げると、ユーリはいすに座って自分でコルクを開け始めた。
「そう、私たちの作戦は〜、どうやら成功したようよ?」
「……まじで?」
「まじ。大まじ。ほら、飲む?」
「もっちろん!」
ユーリの向かいに座って、ギルはコップを差し出した。
「かんぱーい!!」
カン、と小気味いい音が響く。
飲みっぷりのいいユーリを見ながら、ふと思いついてギルは尋ねた。
「あ?……つーことはアンは今……」
「共に一夜を過ごして直らない仲はアリマセーン」
「………」
「………」
「………」
「…なによ?」
「ユーリってそういうキャラだったっけ?」
「でした」
「え〜?」
ギルは頭をかく。一杯ですでにハイテンションになっているユーリが、けたけたと笑う。
「まあいいじゃん。細かいことは気にしない〜♪」
ギルはひくひくと口元をひきつらせた。
「おい…もしかしてもう酔っ払ってる?」
「え〜?どこが〜?」
「酔ってる」
がく、とギルは頭を抱えた。
こんな…一杯だけで酔っ払うなんて、後が怖い…このまま飲み続けたらどうなるか…
「ギル?今日はめでたい夜なのよ?そんな難しい顔してないで〜」
ちらっとユーリの顔を見ると、まじめに考えてる自分が馬鹿らしくなってくる。
こういうのは羽目を外した者勝ちだ。
「それもそーだな!」
彼はやけとばかりにグラスをあおった。
その夜、女子寮で聞こえた不思議な歌声は、怪談話として後々まで語り継がれることとなる。