小早川秀秋の最後とその後
小早川秀秋は、関ヶ原の戦いから2年後の1602年10月18日に亡くなっている。
三日前の10月15日には実兄で家臣の木下俊定、延貞も亡くなったため、
小早川家は断絶し改易となった。
そのため、豊臣秀頼を支えられるような豊臣家一門はいなくなった。
秀頼は、加藤清正、浅井幸長ら豊臣縁故の「大名」が支えていくことになる。
彼らには、秀頼を関白にする力もコネも意思もなかった。
それを持っていたのは、北政所のみだった。
1601年、秀頼は権大納言に任ぜられる。
1602年、正二位に任ぜられる。
1603年、秀頼と千姫の結婚を見届けたのちに、北政所は落飾して高台院となった。
江戸幕府も立ち上がり、朝廷との交渉役も徐々に幕府に引き継がれていった。
秀頼は、内大臣に任ぜられる。
1605年、右大臣に任ぜられる。
家康との会見を拒否している。
1607年、右大臣を辞退している。この時点で、関白の目が完全になくなる。
1611年、加藤清正と浅野幸長と守られて上洛し、家康と会見した。
1614年、大阪冬の陣が起こる。秀頼に付いた大名はほとんどいなかった。
1615年、大阪夏の陣が起き、豊臣家は滅亡する。
小早川秀秋がどうやって死んだのかは、よくわかっていない。
兄弟3人まとめて死亡しているのに、北政所や他の兄達は何も書き残していないからだ。
また、他の兄達が生きており、小早川家には秀包の子供の元鎮もいたが、断絶したとして
改易されている。
小早川秀秋が生きていたら、歴史はどう変わっていたのだろうか。




