第二節「治天の君」(四)
源頼政と平頼盛が八条院御所を辞した後、八条院は事実上の女房筆頭格である八条院(高倉)三位局に、普段通りの状況を装う様に指示した。
「三位局、不意の御幸なれば、取り片づけたる暇もなき体に装いなさい。そなたたちの装束も、いささかうち乱れたるがよいでしょう」
「承りました。これ、いざ」
三位局は五条局(美福門院加賀)等の女房たちを呼ぶと、源氏物語や信貴山縁起を無造作に床へ拡げさせた。
「双六もここへ。院は、歌や(漢)詩などはつゆ知り給はぬ御方なれば、それとなくお心に触れさせ奉るには、双六を用いるほか無きほどに」
八条院の言葉を聞いて、不敬と知りつつも女房達は思わず笑いあった。
暫くして、困惑顔で三位局が八条院に後白河法皇の到着を告げた。
「女院、院のお渡りにておはします。……されど、御消息になき関白殿も御同道にておはしまする。如何取り計らいいたしましょう」
「関白殿とな?」
一瞬、八条院は後白河法皇の企みかと疑ったが、微行の理由が関白松殿基房も監修に加わっている『年中行事絵の費用』であった事を思い出して考え直した。
それに、後白河法皇と平清盛が継承を争っている藤氏長者の件で、松殿基房は渦中の人物である。
院と平氏を激しく相争わせる為に唆すには都合が良い。
「……ま、深くもなし。院の御心いかにおはしますとも、こちらも院にお話し易くなるでしょう」
三位局は八条院の言葉を受けると頭を下げ、院と関白を案内すべく御前を辞した。
左上右下の有識故実により、案内された後白河法皇は上座に、院の右手に置かれた几帳の向こうには八条院。院の左手には関白である松殿基房が座った。
『相変わらずの塵屋敷よの、八条院御所は。御兄妹の血は争えぬか』
床に絵草紙や双六が置かれたままの様子を見て、基房は心のなかで毒づいた。
実際、後白河法皇の異母妹である八条院も世間体に無頓着・横着、臣下に対しては身分を超えて優しいところは、『建春門院中納言日記』でよく知られているところである。
物が乱雑に置かれた状況は、八条院御所に於いて珍しい事ではなかった。
「この度は微行賜はり、誠に畏き御事に侍り。院におかせられましては、御息災におはします由、悦び聞こえ上げ侍り」
八条院は厳かに挨拶を後白河法皇に申し上げた。
院は、八条院の畏まった言葉に笑うと
「よいよい。ここには朕と女院、関白しかおらぬ。堅苦しい物言いは不要ぞ」
と返した。
「ところで、五条局(美福門院加賀)は居るかの」
八条院が後ろに控える五条局に頷くと、五条局は院に返答申し上げた。
「恐れながら、此方に控えておりまする」
「五条局か。(娘の)建春門院中納言の様子はどうじゃ」
「はい……未だ気が塞ぎ、籠もっておりまする」
「然様であるか。朕も時折、建春門院を思い出しては悲しくなるぞよ。どうか中納言を温かく見守っておくれ」
「勿体ないお言葉でございます」
思わぬ院の気遣いに、五条局は声を震わせて御礼を申し上げた。
院は五条局の御礼に頷くと、八条院を見た。
「この度は煩わせてすまぬ。是非にも、今年の内に年中行事絵を仕終わらせたくての。費えが足らぬのじゃ」
言葉とは裏腹に悪びれもせず、後白河法皇は扇を煽りながら八条院に金の無心をした。
「とりわけ、宋より取り寄せたる、(顔料の)群青(藍銅鉱)や辰砂(硫化水銀)、緑青(孔雀石)が足らぬのじゃ。
宋との取引の為、砂金などあらば大変ありがたいのだが」
後白河法皇の言葉を聞き、几帳の向こうの八条院は、扇で口元を隠しながら少し呆れた感じで笑った。
「ほほほ。砂金とあらば、奥州にこそございましょう。それに、宋の商人の欲しがるものならば、硫黄でもよろしいのでは。今は院の御領なる島津荘より、幾らなりとも納めさせ給はばよろしきに。のう、関白殿」
近衛家と、南九州の薩摩国・大隅国・日向国に跨る全国屈指の大荘園である島津荘の所有権を含む藤氏長者の座を争いながら、鳶に油揚げで後白河法皇に横取りされた松殿基房は、八条院の毒を含んだ物言いに顔を真赤にした。
「はっはっはっ、あれは朕が暫し預かっているだけじゃ。それに、島津荘からの漕運が平氏一門に妨げられてなかなか送られて来ぬ。奥州の砂金も……」
不意に後白河法皇は黙り込んだ。
「如何されましたか?」
「いや、何でも無い。……奥州であるか。今から奥州に申し付けても届くのは来春になろう。何か代わりは無いものかの」
「さすれば……鉄(銑鉄)でありましたら、幾らかお譲りしても宜しゅうございます。ですが、一つお願いがございます」
「ほう、女院の希望であれば疎かにはしまい」
「先程、院は一時預かられていると仰られました。その証に、関白殿のお子である左近衛中将殿(藤原師家)が次の関白であるとお示しくださいませ」
「なに?」
「え?」
全く予想もしなかった八条院の要求に、礼儀も忘れて後白河法皇と松殿基房は瞠目した。
一般的には、政治的野心がなく政略的な動きも殆どしなかったとされる八条院だが、実際は全く違う。
政治に対する天性の直感力と強烈な自負心は、後白河法皇にも全く引けを取らない。
関白の同席という想定外の状況を受け入れて、双六を用い使嗾しようとした計画を簡単に捨てると、より強烈な一手を即興で編み出す。
まさに、似た者兄妹であった。
「恐れがましく侍れど、治天の君として定めをお守り頂くのは、いとめでたき御事でございます。
昨今は、朝廷の定めも世の倣いに歪められる事多く、これを一つ一つ治天の君が正されるのは、誠に正しき御業と信じ申し上げまする」
思わぬ八条院の助力に、基房は深く感銘を受けた。
ここで基房の心に刻み込まれた八条院からの御恩と、それに対する忠誠心は、後に、八条院に仕える源頼政・仲家・行家と木曽義仲との血縁に導かれた動乱に松殿基房を巻き込む事になる。
「朕に、朝廷の定めの歪みを、一つ一つ正せとな」
後白河法皇の何時になく低い声色が響くと、一同に緊張が走り、誰もが顔を伏せて院の言葉を待った。
「……」
「まさによき言葉じゃ。のう関白よ!」
と後白河法皇は心底楽しそうに大きな声で笑った。
安堵した基房も、院の言葉に追従した。
「誠に、治天の君を敬ひ奉る、至誠の心に満ち満ちたる、女院の御言葉でございまする」
一気に緊張が解けた女房たちも、口々に賛同した。
弛緩した空気が一同に流れる中、八条院の後ろに控える女房たちに慌ただしく家人が注進してきた。
一読した三位局が八条院に耳打ちすると、八条院の表情が変わった。
「恐れながら、院、関白殿。東山小松第に善知識と思われる僧が訪れたとの報せがございました」
「その報せは、誰からかの」
「権中納言(平頼盛)からでございます」
「でありますれば、確かな報せと思われまする」
八条院と基房の言葉に後白河法皇も同意し頷いた。
「それでは、名残惜しいが法住寺殿に戻るとしよう。後の事は蔵人を寄越す故、万事頼むぞよ」
院は席を立ち、二三歩進んだところで突然止まると八条院に話しかけた。
「時に、三の宮(以仁王)は息災なるか」
以仁王の名を聞いて、反射的に八条院の顔は明るく輝いた。
「はい!日々に学問、手跡など勤しみ励み、健やかにいらっしゃいます」
「それは祝着至極なり。三の宮の事、双六でもしながら、またの折に物語せむぞ」
皆が平伏する中、後白河法皇は寝殿を後にした。
ここに、核心において決定的にすれ違いながら、後白河法皇と八条院の歪な同盟関係が暗黙の内に成立した。




