第20話「手放した数字」
扉の向こうは、光だった。
目が慣れるまで少しかかった。
8層クリアの証明台——白い石でできた台座が、通路の先に置かれていた。
手を置くと、計算蟲が感知する仕組みだ。
手を置いた。
台座が光った。
それだけだった。
派手なことは何もなかった。
でも、光ったのを見た瞬間、息を吐いた。
吐くまで、止めていたことに気づかなかった。
ガルドが隣に立った。
腕の傷が増えていた。岩喰いにやられたものと、崩落の縁で擦ったものが混じっていた。
俺の手も、小さく切れていた。
いつ切れたか、わからなかった。
「終わったな」
ガルドが言った。
「ああ」
しばらく、それだけだった。
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出口に向かって歩きながら、ガルドが口を開いた。
「さっきのやつ、どう思った」
「さっきというのは」
「四方向崩落。俺に従ったやつ」
俺は少し間を置いた。
「計算が出なかった」
「出なかったから俺に任せた」
「そうだ」
「怖かったか」
石畳を踏む音が続いた。
出口の光が少しずつ近づいていた。
「計算が出なかったことが——怖いというより、気持ち悪かった」
「気持ち悪い」
「自分の判断を使えなかった。お前の判断を借りた。それが」
「それが?」
俺は歩きながら考えた。
「嫌じゃなかった、というのが、気持ち悪い」
ガルドが少し笑った。
「なんだそれ」
「自分でもわからん」
「お前がわからんって言うの、最近増えたよな」
「そうか」
「前は絶対言わなかった。数字で全部説明しようとしてた」
俺は返事をしなかった。
否定できなかった。
「俺に任せて、うまくいったのが気持ち悪いんじゃないと思うぞ」
「じゃあなんだ」
「うまくいったことが、嬉しかったんじゃないか」
一歩、間が空いた。
「——それとこれとは話が違う」
「どう違う」
「嬉しいという感情と、計算を手放したことへの違和感は別の問題だ」
「でも同時に起きてたんだろ」
返事をしなかった。
ガルドはそれ以上追いかけなかった。
こういうとき、こいつは待てる。
出口の光が目の前まで来た。
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地上に出た。
昼の光が眩しかった。
空に雲はなかった。
石畳が乾いていて、足音が朝より高く響いた。
ガルドが空を見上げた。
「生きてる感じがする」
「毎回言うな」
「今日は三倍くらいそう思う。四方向崩落、まじでやばかった」
「お前が動いたから抜けた」
「俺が動いたけど、お前がついてきたから抜けた。俺一人だったら多分、お前のことが頭に浮かんで迷ってた」
俺は少し止まった。
「俺のことが浮かんだから動けたのか」
「そう。いつも重なるのはお前の顔だから」
見ていないのに重なる。
7層から続いていることだ。
「なぜ俺の顔が重なる」
「わからん。でも——お前が困ってるとき、首の後ろがぞわっとして、お前の顔が来る。それだけだ」
「俺が困っていないときは」
「来ない」
俺は《命運読み》をガルドに向けた。
[ガルド・ロア 生存率:89% 脅威度:A 直感値:——ERROR——]
エラーのまま。
でも今日、このエラーが俺の命を繋いだ。
「一つだけ聞く」
「なんだ」
「直感が外れたことが一度だけある、と言っていた。友人が死んだとき」
ガルドの歩調が変わった。
止まらなかったが、一瞬だけ変わった。
「ああ」
「そのとき——首の後ろは反応しなかったのか」
ガルドはしばらく黙っていた。
俺も黙っていた。
石畳の足音だけが続いた。
「反応した」
低い声だった。
「反応したのに——俺は動かなかった。あいつじゃなくて、別の方向に行った。計算したわけじゃない。ただ、その方向に行きたかっただけだ。そしたら——」
ガルドが口を閉じた。
俺は何も言わなかった。
言う必要がなかった。というより——言えることがなかった。
少しの間、二人で歩いた。
「だから」
ガルドが続けた。
「お前の顔が重なったとき、外したくない。それだけだ。計算とか直感とか関係ない。外したくない」
俺はガルドの横顔を見た。
「——わかった」
それだけ言った。
ガルドは頷かなかった。でも、肩の力が少し抜けた気がした。
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広場を通りかかったとき、水晶球の前に人だかりができていた。
昼間に人だかりができるのは、珍しい。
何かが映っているらしく、観客席から声が上がっていた。
「8層クリア! 命運鑑定士、片瀬司!」
計算蟲の声が広場まで聞こえた。
どよめきが起きた。
「あの命運鑑定士、また番狂わせか!」
「8層だぞ、8層! 生還率どんだけだよ!」
「オッズ見ろ、オッズ! いくらついてる!」
ガルドが俺の肩を叩いた。
「沸いてるな」
「ああ」
「オッズ、いくらだろな」
「帰りに確認する」
人だかりを横目に歩いた。
自分のクリアが実況されているのを、通りすがりに聞く。
妙な感覚だった。
水晶球の前で、一人だけ立ったまま動いていない人間がいた。
荷運びの中年の男だった。
11話で、配当窓口の前で震えていた男だ。
今日も、震えていた。
でも今日のは、違う震えだった。
男は水晶球を見ながら、隣にいた別の男の腕を掴んでいた。
何かを言っていたが、聞こえなかった。
ガルドが小声で言った。
「また賭けてたのかな、あの人」
「たぶん」
「毎回賭けてるのか」
「知らない」
「でも毎回勝ってたら、そりゃ震えるよな」
俺は男を見た。
男が振り返った。
俺と目が合った。
一瞬だった。
男は俺が誰かわかっていないかもしれない。
でも、会釈した。
深く、ゆっくり。
俺は少し止まった。
返した。
会釈を、返した。
それだけだった。
ガルドが何も言わなかったのが、少しありがたかった。
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神殿の配当窓口の前を通ると、リーセが立っていた。
今日は外套を着ていなかった。
神殿の制服のままだった。
フードもない。
昼の光の中に、そのまま立っていた。
「クリアしましたね」
「ああ」
「連続崩落、来ましたか」
「二度。四方向も来た」
リーセの目が少し動いた。
「四方向……データにない」
「なかった。計算が出なかった」
「どうしたんですか」
俺はガルドを見た。
ガルドは頭の後ろに手を組んで、空を見ていた。知らないふりだ。
「ガルドに任せた」
リーセがガルドを見た。ガルドはまだ空を見ていた。
「……直感で」
「そうだ」
「抜けた」
「抜けた」
リーセはしばらく何も言わなかった。
石畳の継ぎ目を見ているような、遠い目をしていた。
「よかった」
小さかった。
本当に小さかったので、聞こえなかったふりをしようとした。
でも聞こえた。
「お前が非公式で入ったのは、俺のためだと言った」
「……はい」
「なぜそこまでする」
リーセが顔を上げた。
「神殿の仕事です」
「非公式で入るのは仕事じゃない」
「……」
「上層部に知られたくなかったと言った。それは仕事の範囲を超えている」
リーセは少し間を置いた。
石畳を見た。また俺を見た。
「片瀬さんが、計算蟲の盲点を体系的に突いているのを最初に見たとき——」
「7話だ」
「そうです。そのとき思ったのは、この人が死ぬのは惜しい、ということでした」
「管理主任として」
「……最初は、そうでした」
最初は。
俺はその二文字を頭に入れた。
「今は」
リーセが少し止まった。
口が開いて、閉じた。
また開いた。
「今は——惜しい、という言葉では足りない気がしています」
風が路地を抜けた。
リーセの髪が少し揺れた。
外套を着ていないから、いつもより表情が見えやすかった。
《命運読み》を流した。
[リーセ・ヴァルト 生存率:99% 脅威度:E 観察:強 賭け:強 ——揺れ:大]
「微細な揺れ」が「揺れ:大」になっていた。
何に賭けているのか。
今日は、少しわかった気がした。
でも確認しなかった。
「9層のデータを頼む」
リーセが少し息を吐いた。
安堵か、別の何かか、判断できなかった。
「準備します」
「ありがとう」
「……どういたしまして」
今日も、二人とも言うつもりじゃなかった言葉だった。
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夕方、ギルドに寄った。
掲示板に今日のクリア報告が貼り出されていた。
命運鑑定士・片瀬司。8層クリア。生存率最終値——
隣に、ドランがいた。
今日は掲示板の前に立っていなかった。
俺が入ってきたのを見て、立ち上がった。席から。
「待ってたのか」
「ああ」
ドランは依頼票を一枚、俺に差し出した。
受け取った。
開いた。
手書きだった。
ドランの字で、8層の情報が書いてあった。
蘇生から戻った冒険者から集めたものらしく、三人分の証言が順番に書かれていた。
岩喰いの出現パターン。崩落の多い区間。通路の構造。
俺はそれを読んだ。
読み終えた。
「使えるか」
「使える。特に通路の構造——データには出ていなかった」
「そうか」
ドランは短く言った。
それだけで終わらせようとした。
「なぜ集めた」
ドランが少し止まった。
「8層に入るつもりだ」
俺は顔を上げた。
「生存率を確認するか」
「……頼む」
ドランが俺の目を見た。
初めてだった。頼む、と言って、目を見たのは。
《命運読み》を流した。
[ドラン 生存率:61% 脅威度:D 感情値:――(覚悟、と呼べる何か)]
61%。
6層のとき、俺の最終値が68%だった。
それより低い。
「61%だ」
「低いな」
「低い。でも——」
俺は少し考えた。
「34%のときより、お前は変わっている。その6層のとき俺が出した最終値より低いが、俺とお前では条件が違う」
「何が違う」
「俺にはガルドがいる。お前は一人で入るつもりか」
ドランが黙った。
「一人で入るつもりだったなら——やめろ。61%は一人で乗り越えられる数字じゃない」
「じゃあどうする」
「情報を集め続けろ。数字が上がるまで」
「いつ上がる」
「わからない。でも上がる条件は作れる」
ドランは俺を見た。
《命運読み》の「覚悟、と呼べる何か」が、少し変わった気がした。
数値じゃない。端の滲みの、質が変わった。
「……お前、なんで俺にそこまで言う」
「お前の情報が役に立ったからだ」
「それだけか」
俺は少し考えた。
「34%を無視して、三度蘇生されて、それでも諦めなかった。そういう人間が死ぬのは——計算上、惜しい」
ドランが少し笑った。
初めて見た笑い方だった。
ざまぁでも侮蔑でもない、ただの笑いだった。
「計算上、か」
「そうだ」
「……わかった。もう少し集める」
ドランは席に戻った。
また依頼票を読み始めた。
でも今日は、背中が違った。
昨日までと、何かが変わっていた。
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宿への道を歩きながら、今日を整理した。
8層クリア。
計算を手放した瞬間があった。
ガルドが俺の命を繋いだ。
リーセが「惜しいという言葉では足りない」と言った。
ドランが情報を持ってきた。
全部、数字の外から来た。
でも全部、今日の計算に組み込まれていた。
計算の外にあるものを、計算に入れる。
それが——俺の戦い方になっていた。
いつからそうなったのか、わからない。
でもなっていた。
上着の内ポケットに手を当てた。
リーセの図が入っていた。
ドランの依頼票も、一緒に入れた。
9層のデータは、まだ来ない。
でも来る。
——数字は嘘をつかない。
夜の石畳が、足の下で続いていた。




