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リリーエリカとハルジオン②

※この物語はフィクションです。

 クローゼットからエプロンドレスを取り出して、素早く着替えたリリーエリカは洗面所で顔を洗った後、部屋を静かに出て、オルフィ侯爵家の厨房へ向かって歩いていった。廊下を歩きながらリリーエリカは頭の中で、前世の世界の放課後教室に来ていた高学年の子達に見せてもらった家庭科の宿題のことを思い出していた。


 放課後教室に来た子ども達が宿題だと言って見せてくれた家庭科のプリント。確か、あの時のプリントには人間が健やかに育つには5つの栄養素が必要だと書いてあったはずだ。リリーエリカは子ども達が綺麗に色分けしながら塗っていた、タンパク質、脂質、糖質、ビタミン、ミネラルの5つの栄養素がイラストで描かれた円形の表を思い浮かべた。


 あの表を思い出せば、ハルジオンに摂らせなければいけない栄養やら食べ物が何なのかを知るのは容易いはずだ。そこまで考えたリリーエリカは我に返り、自分自身の思考に笑いがこみ上げてきた。


「フフッ。”芸は身を助く”と言うけれど、まさか転生後に、こんな記憶が役に立つなんて思わなかった。あ〜あ。勉強は何のためにするのかとか、こんなことが将来何の役に立つのかとか、ボヤいていた子ども達に今、会えたならなぁ。人生は死んでからだって何が起きるかわからないから、勉強は何のためにするのかと悩むよりも、何でも色々覚えたり経験しておいた方が、得はあっても損はないみたいよって、教えてあげられたのになぁ」


 リリーエリカは前世のことを思い出すと悲しい思い出によって胸が締め付けられるように苦しくなることが多々あったが、それでもアントラーやハルジオンを助けることが出来たのは、前世の記憶を思い出したおかげだったので、前世で自分にその知識を授けてくれた人々に心の中で深く感謝をし、会った覚えはなかったが自分の記憶を神様の国とやらに取り置いてくれたらしい神様にも感謝した。


 前世でリリーエリカの夫は戦争に行ったまま帰ってこず、舅も亡くなってからずっと一人きりで荒物屋を営んで生きてきたリリーエリカは70代半ばで初めて病院に入院するまでは死ぬまで店を一人でやっていくつもりだったのだ。でも……病院に入院したことがきっかけとなって、リリーエリカは考えを変えてしまった。


 入院したのは転倒による怪我のせいだった。リリーエリカはいつものように店の前の掃除をしている時に、たまたま足を滑られて転倒してしまったのだ。若かったのなら擦り傷とか打ち身とかで済んだだろう。しかし老いにより筋力が落ちたのか、それとも骨密度が低くなっていたのか、リリーエリカは骨折してしまったのだ。


 不幸中の幸いだったのは、転倒したのが家の中ではなかったことだった。店の前で動けなくなっているのを商店街の仲間が見つけてくれたことで、リリーエリカは救急車に乗ることが出来たし、病院で左足が骨折していることが判明し、そのまま入院して治療を受けることが出来たのだ。もしも転倒したのが家の中だったら、家人が誰もいないから助けてもらえなかっただろう。


 リリーエリカは家の中でまたこんなことが起きたら、今度は誰にも助けてもらえないだろうことに危機感を募らせた。いつまでも若いつもりでいたが、転倒しただけで骨折する体になっていたことで、嫌でも老いというものを強く意識せざるを得なくなってしまった。それに何よりも一番ショックだったことは、骨折した自分では、今まで普通に出来ていた自分の身の回りのことを何一つまともに出来なくなり、他人の手を借りなければ生きていけないと思い知らされたことだった。


 リリーエリカは頭ではわかっているつもりだった。自分だって戦後に病に伏した義父の世話を店を切り盛りしながら義父が亡くなるまで一人で世話をしていたのだから、知らないはずはなかった。だけど頭では理解できても実際に自分では思うように動けないことや、着替えや排泄、入浴等で他人に世話される身になると、それがどうしても苦痛に感じられて仕方がなかったのだ。


 動けないことが不自由で息が詰まるような閉塞感を感じたり、他人の手を借りる行為が自分のプライドが傷つけられるような行為のように感じられたり、他人の手を煩わせることが物凄く申し訳がないような気持ちになったり、自分の身の回りの世話を自分で出来なくなったことが駄目な人間になってしまったように思えて喪失感に苛まれたり、そして何よりも排泄や入浴等のプライベートなことを他人に見られたり知られるのがとてつもなく恥ずかしくて堪らなかった。


 だからリリーエリカは病院で出される食事の飲み食いの量を減らせば、排泄介助の回数を減らせるだろう、汗をかかなければ着替えや入浴の回数も減らせるだろう……と安易に考えて実行に移そうとしたのだが、何故かリリーエリカの愚かな考えは直ぐに、自分の子どもや孫のような歳の若い医師や看護師や作業療法士や介護士達に見破られ、お願いだから食事も水分も摂ってくれと説き伏せられてしまった。


 不思議なことに彼らはリリーエリカが彼らに伝えてはいない、入院生活での閉塞感や他人の手を借りることへの申し訳無さや傷心や羞恥心等といった諸々の感情を感じていることを彼らは既に知っているようだった。それらを知った上で彼らは医師と看護師と作業療法士と介護士が力を合わせて、リリーエリカの苦痛が出来る限り最小限に抑えられるように誠心誠意を尽くすから、自分の体を自分で痛めつけるようなことは考えないで安心して身を委ねてほしいと親身になってくれて、リリーエリカが完治して退院する日まで寄り添い、陰日向無く支え続けてくれたのだ。


 当時は医師達がどうやってリリーエリカの企みを見抜いたのかとか、何故彼らにはリリーエリカが感じている諸々の感情が手に取るように理解できたのかが、リリーエリカにはわからなかった。それがわかったのはリリーエリカが退院して暫く経ってからだった。遠くに住む友人に老人ホームのことで相談しようと電話をしたときに、老人ホームに入ろうと思ったきっかけを尋ねられて、その話をした際に友人が教えてくれたのだ。


 その友人の孫が看護師と作業療法士の資格を得ようと大学に通っていて、そこで沢山の勉強をしているのだが、患者の気持ちを本当の意味で理解するために、学生達は実習に行ったり、特殊な訓練を受けたりもしているのだと孫から教えられた友人は、その訓練の内容を孫から掻い摘んで聞いた時に、そんなことまでするのかと心底驚いた訓練の話があったと話した。それはせん妄という症状を理解するための訓練の話だった。


 その訓練は看護師を目指す学生がせん妄になった患者の心身に起きていることを擬似的に自らの身で体験するというもので、その方法は真っ暗な部屋で体を拘束されて何時間か放置されるというものだった。拘束されている間や拘束が解かれた後に起きる自らの体や心の変化が、せん妄になった患者の心身に起きている症状だと自らの身体で経験すれば、それがどれだけ辛いものかを頭ではなく体で理解することが出来るから、看護師になった時にせん妄の患者の心に寄り添った細やかな看護が出来るようになるのだと友人の孫は説明してくれたらしい。


 それと同じように作業療法士や介護士は入浴や排泄を他人に委ねなければならない人のストレスを本当の意味で理解する訓練も受けるらしく、学生同士で髪を洗って入浴介助される経験を積んだり、学校によっては自らの身におしめを当てる経験も学生に積ませる所もあるらしいから、そう言った様々な勉強を頑張ってくれた人々に世話をされるのだと思ったら病院や老人ホームに安心して入れるでしょうと言って、友人は老人ホームに入ることを決意したリリーエリカを勇気づけてくれた。


 リリーエリカは友人と話しながら、自分が入院した病院の医師と看護師と作業療法士と介護士達が直ぐにリリーエリカの企みを見抜けたり、リリーエリカの辛い気持ちに彼らが寄り添ってくれたのは、彼らが患者のことを身を持って理解しようと努力して、様々な勉強や訓練や実習を努力して重ねてきてくれたからだと知り、感動と感謝で胸が熱くなった。


 その経験があったからこそリリーエリカは、自分を支えてくれた彼らのように自分も誰かの役に立ちたいと思うようになり、老人ホームに入ってからでもボランティアが出来ないだろうかと考えるようになった。そして放課後教室の手伝いが出来る老人ホームを見つけたリリーエリカは子どもに多い怪我や病気や応急処置の方法等の勉強を始めたのだ。


 そして店を畳んで老人ホームに入ったリリーエリカは、老人ホームの入居者や放課後教室の子ども達の内、初めて骨折して入院した時の自分と似たような感情を抱いている者を察知することが出来るようになり、勉強していたことが功を奏し、子どもの脱水症を見分けられるようになっていた。




 ……そう、リリーエリカは前世の記憶を思い出したことで子どもの脱水症を見分けただけでなく、自分と目が合った金色の髪の子どもが顔を赤らめたことで、骨折入院した時のリリーエリカと同じような羞恥の感情を子どもも感じていることを察知して、子どもには羞恥を感じられるだけの知性や自我があり、そして子どもが過去には自分のことは自分で出来る子、つまり排泄も誰かの世話を受けなくても自分で出来ていた子だと無意識に見抜いたからこそ助けようと体が勝手に動いたのだが、そのことにリリーエリカ自身は自覚がなかったから気がつくことはなかった。


 それはあの場にいた大人や子ども達も同じで、たった一人を除いては誰も金色の髪の子どもに知性や羞恥の感情があり、自分の身の回りのことは自分で出来る子だったとは誰も気づいていなかった。気がついていたのは、それを巧妙に隠していた本人のみ……つまりリリーエリカが転じる前の人生でシオン=フォンタスとなっていたハルジオンのみだったのだ。

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