名前
ゲヒュールは名前を持たない。
というより、名前という文化そのものが人間にしか存在しない。
だが、ゲヒュールの中にも名前を与えられる個体がいる。
何故か?
凶悪すぎるからだ。
狡猾であり、強く、長きにわたって歴史上に君臨する個体。そんな存在に、人間は畏怖を込めて名前を与える。
フェレライとベギーデ。
この二匹がその筆頭だ。
あの二匹は別格である。
目撃情報がほとんど存在しないフェレライとは対照的に、ベギーデは数多くの目撃情報が残されている。
ベギーデは、出会った人間全員を殺すわけではない。
何故か?
殺さなかったという事実を作るためだ。
そうすることで、人間に「自分は殺されないかもしれない」と思わせる。
愛想を振りまき、自分にとって貴方は特別だ、貴方しかいないと思わせる。
そうして、殺すのだ。
ベギーデは極めて高い生物的スペックと愛嬌、そして一つの能力を持つ。
それは、自身が引き起こした現象に、対象の認識を集中させる能力だ。
ベギーデが見てほしいと思い、可愛らしい仕草をすれば目が離せなくなる。
ベギーデが発する甘い言葉には、耳を傾けずにはいられなくなる。
もちろん、制約もある。
効果時間が長くなるほど、対象は抗いやすくなるのだ。
だが、逆に言えば一瞬であれば、その効果を十二分に発揮できる。
鈴の音に意識を向けさせる一瞬なら、視覚情報への認識すら奪えるのだ。
そんなベギーデは今――。
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「よーしよーし、いい子だよー」
ベギーデは、見るも無惨な肉片と化した男の頭を撫でていた。
まだ死体ではない。
ベギーデが能力によって男の意識を自分に向け続けているため、男は気絶することすらできないのだ。
「こちょこちょこちょ!」
ベギーデは男の脇をくすぐる。
本来なら、もはやくすぐったいと感じる余裕などないはずだった。
しかし、くすぐるという現象に認識を集中させられた男の身体は、ピクピクと反応する。
そのたびに激痛が走った。
「あ、目隠ししてあげるといいんだよねー」
ベギーデは男に覆いかぶさり、その目をじっと見つめる。
男の視界が暗くなった。
ポトリ。
何かが落ちる音がした。
男の眼球が落ちた音だった。
「さーて、くすぐっちゃうぞー」
ベギーデは男の脇に手を置く。
男の恐怖は、次第に麻痺していった。
もう諦めよう。
そう思った。
「大好き」
ベギーデが男の耳元で囁く。
「知ってるよ。いつも頑張ってること」
「誰も褒めてくれなかったかもしれないけど、貴方がいないと周りの人が困っちゃうんじゃないかな」
「縁の下の力持ちって、損な役回りだよね」
「それを分かってて頑張る貴方は、やっぱり優しいよ」
ベギーデの言葉に、男の心が温かくなる。
普段から認められたいと思っていた気持ちが湧き上がり、満たされていく。
その直後、男の身体が跳ねた。
激痛とともに。
ベギーデがくすぐりを再開したのだ。
指を失った足が、ビクビクと震える。
激痛の中、ベギーデの先ほどの言葉が頭から離れない。
ベギーデを恨む気持ちになれなかった。
そんな優しい男は、日が昇る頃には動かなくなっていた。




