第2話 高校生トビラの日常
本の中に、誰でも入れるわけではないと気付いたのは、小学校高学年の頃だったか。能力を使えるようになって、しばらく経ってからのことだった。
俺が、何がきっかけでそんな能力に目覚めたのかは、よく覚えていない。それまでの俺は、一人で本を読むのが好きなだけの、ごく普通の子どもだったはずなのだが。
本の中に入る――正確には、読んだことのあるマンガや小説をベースにして、『本の中の世界』を作り出すことができる。そして好きな場面に好きな自分になって、入り込める。
しかしこれが、全く役に立たない特技なのだ。本の中の物を持ち出せるわけでもない。俺の感覚からすれば、眠っている間に好きな夢を見られる能力と大差ない。
「よー赤野、おはよう」「おう、おはよう」
教室に入ると、数人の男子から続けて声を掛けられた。
この春から文系のクラスになって、約二ヶ月。男子は十名程度、残りは全部女子という配分だ。男子は半ば必然的に男同士で集まって、いつも教室の隅に固まっている。
もし俺の能力の存在をクラスの男子が知ったら、『理想のハーレムが実現できる!』とか言って大騒ぎしそうだとは思う。だけどそういうのは中学時代に一通り試して、とっくに飽きた。
なんでもできるっていうのは逆に、達成感が薄まるものだ。というか、どんどん自分が自分でなくなるような後ろめたさがあって、意外と精神的に疲れる。
俺はやっぱり、本の中でも現実と同じように、モブキャラとして静かに暮らすのが一番性に合っている。
そう悟ってからというもの、本の中に入るのは現実での疲れを癒やすための、ちょっとした息抜きだと割り切るようになった。
俺みたいな平凡な奴がこんな能力を持っていることは、できれば一生、秘密にしておきたい。
俺はただ、普通に過ごしたいだけなんだ。
誰にも迷惑をかけず、空気のように扱われるモブとして、普通に生きて、普通に人生を終えたいだけ――
「あああああっ……! アルドル様あっ……!!」
突然、教室中に黄色い声が響き渡った。
声の主は、教壇の辺りに集まった三人組の一人、山吹史織だ。
「アルドル様っ……どうして、どうしてあたしを置いていってしまったの……。うっ! うぐ!」
「泣かないで史織ちゃん……!」
「そうだぞ史織。アルドルは今も生きている。お主の胸の中で、永遠に……」
「うっ……うわあああん!」
「袖子ちゃん! それ、フォローになってないよぉ~!」
「すまん。拙者は人を元気づけるのは不得手だ。虐げるのは得意なのだが……」
クラス中の視線が三人に注がれているが、誰もがあえて何も見えていないかのように不自然に振る舞っているのがわかる。触らぬ神に祟りなし、というやつだ。
あの三人組はいつも一緒にいて、常に教室で一番目立っている。恥ずかしげもなく大きな声でマンガやアニメについて騒ぐ、クラスの異端児だ。
「あーあ……アイツら今日もうるせえなぁ」
「黙ってりゃ可愛いのに、もったいねーよな」
などと、俺と話していた男子たちがボヤいた。
「またあのアニメの話だろ。確か、ソニアム……なんとか?」
「深夜にやってんだよな? なんだっけ、赤野?」
「……『ソムニアサーガ』、だね」
最近アニメ化されたことをきっかけに、『ソムニアサーガ』はいわゆるオタクでなくとも名前を聞いたことがある程度には、世間に認知されている。
「そっか、赤野は詳しいなー」
「お前もあのアニメ、好きなの?」
「いや、まあ……。ちょっと知ってる程度かな……?」
小説もマンガも全巻集めて、アニメも毎週欠かさず見ている。控えめに言って、大好きだ。
――そう。よりにもよってあの三人組が一番好きなのは、俺と同じ作品なのだ。
「アルドル様ぁ……。あたし、アルドル様と結婚するぅ……っ」
山吹史織は、アルドルの名前を連呼しながらガチ泣きしている。これも見慣れた光景だ。どうやら彼女はアルドルに本気で恋をしているらしい。
校則をまるっきり無視した派手な金髪のハーフツイン。顔は――確かに、可愛いと思う。
だが絶対に付き合いたいとは思わない。彼女は生身の男に興味がなさそうだからだ。
「落ち着け史織。お主たちはすでに結婚している。というかもうすぐ結婚記念日だろう?」
「ううう……。そ、そうだけどさぁ……っ」
無表情で山吹を励ます黒髪ロングのメガネ女子は、烏羽袖子。こいつも美人なのに変人で、一人称が何故か拙者。典型的なドS気質らしく、ソムニアサーガの登場人物たちを――特に気の強い悪役たちを凌辱する妄想をよく大声で語っている。
「史織ちゃ~ん! わたしも結婚一周年のお祝いのイラスト描くから、元気出してよ~!」
そしてデカい三つ編みを二つぶらさげてるのが、白梅和花だ。
性格は極めて穏やかで、独特な間延びした喋り方をする。三人の中で、彼女だけは男子に対して見下した態度など取らない。むしろ誰に対しても別け隔てなく笑顔を向ける。
まるで天使のような子だ。かつては俺も、そう思っていた。
「ありがとう、二人とも……。和花、ちゃんとお返しするからね……」
「は、はわ~! お返し描いてくれるの~? じゃ、じゃあね~……。わたしがヴァニタス様にきつく縛られて~、〇〇を✕✕されちゃって○○に✕✕を△△したような――」
いともたやすく言い放たれた放送禁止用語の数々に、教室の空気が凍った。
「和花よ……。お前は少し、恥じらいを知れ」
「今のはさすがに、公共の場で言うことじゃないと思うな……」
「なんでなんでぇ~!? 史織ちゃんや袖子ちゃんと、何が違うっていうの~!?」
「拙者や史織のは、可憐な少女の妄想の範疇だ。お主だけは、完全なエロ同人だ」
「エロ同人……!? ヒドいよ袖子ちゃ~ん! 人間なんてみんな異常だよ~!? ……ああでも今ちょっとビクッて来ちゃったから、もっと罵ってほしいかも~……!!」
「和花は本当にドMだな。ほれ、人間のクズ。豚の真似をしてみろ」
「ブヒッ! ブヒブヒ~ッ!」
「ちょっと和花! 男子も見てるんだから、教室でアヘ顔はダメだよ……!」
このようなやり取りを聞いて、俺の傍にいた男子は小声で囁き合っていた。
「……あの三人の中だと、間違いなく白梅が一番ヤバいよな」
「だよな……。可愛いし胸デカいのに、もったいねぇ」
「あの中で、誰かと付き合わなきゃいけないとしたら……?」
「いや、それは全員無理だろ……」
俺も概ね、同じようなことを思った。山吹史織も烏羽袖子もヤバいのは間違いないが、後の二人すら引いてしまうような発言を平気でする白梅和花は、違う方向性でだいぶヤバい。
……まあでも、俺も本来の自分を包み隠さず振る舞ったら、ヤバい奴だと思われるんだろう。ソムニアサーガオタクというだけで、あいつらと同じ枠に入れられそうだ。
それは重々理解しているつもりだが――あんな奴らと同じだと思われるのは、やっぱりごめんだ。




