日本へ
パーズは、日本に向けて出航した。
アメリカを出港した研究機関パーズは、3週間ほどで日本に到着する予定だ。
研究室の教授として働く大城戸博士には、日本に戻る前にやることがたくさんある。
この3週間ほどの間にやるべきことは山盛りだ。
博士は、来年度の研究費のための申請書を書いていた。
研究機関パーズには教授としての権限がある。そして潤沢な研究費もある。
実験を進めるにあたっては、何も不便はない。
しかし、博士は発言力がないことに不満があった。研究費の額は、発言力に比例するため、研究費の獲得が発言力の獲得に繋がる。
博士は、パーズの航路を南極の近くに変更できなかったことを根に持っているのだ。
予算申請は、一般的に、国に申請書を提出する。
海洋生物が消失してからというもの、それに関する研究のために、世界中の国々で膨大な研究費が投じられた。
日本でも、巨額の研究資金がその研究に投じられた。
一方で、その研究資金を国から貰うためには、研究者の仲間同士で競い合わなければならない。そのための手段が、申請書だ。
申請書の評価には、研究論文が重要だ。
現在査読中のベニクラゲの論文は、世界初のクラゲの人工合成を達成した研究である。それなりに大きな論文になる。
ポスドクの久保信一が達成したウニの人工合成の研究も、論文は投稿した。これも大きな論文になるであろう。大城戸レイアのシロイヌナズナの論文も、もうすぐ完成予定だ。
博士は教授室で、パソコンに向かい、申請書を必死に書いていた。
来年度以降の巨額の研究費を狙っている。
マグカップいっぱいに淹れられたブラックコーヒーは、口をつけられることなく、湯気を失っていた。キーボードを打つ、カタカタという音だけが、静かな教授室にこだましている。
居住部屋では、シンシアとさーべるちゃんが遊んでいた。
シンシアの笑い声とさーべるちゃんの「バウ」という鳴き声が、居住部屋に響きわたる。シンシア用の小さな子ども部屋で、シンシアはさーべるちゃんとボール遊びをしていた。
隣の部屋では、レイアとアムルが、ソファーに座っている。
扉は開けっぱなしにしてあり。賑やかな声が、そこかしこでこだまする。アムルも、時折聞こえるシンシアの声に反応し、目線をキョロキョロと動かしていた。アムルの定位置はレイアの腕の中だ。ゆらゆらと揺られている。
緑色のゴムボールが、レイアの足元に転がって来た。
「あ、ママぁ、それ取って。プリーズ、プリーズ」
シンシアが、隣の部屋から、テケテケと、レイアの元に走ってくる。
「いいよー。はい」
レイアは、片言の日本語で返事をする。足元の緑色のゴムボールを拾い上げ、シンシアの方に向けて、転がした。
「ありがと、ママ。サンクス」
転がって来たボールを、シンシアはしゃがんで拾う。手のひらより少し大きなボールを、シンシアは、ぎゅっ、と掴む。
「ほら、さーべるちゃん。いくよっ。それ!」
シンシアの後ろをついて来たさーべるちゃんに振り返り、さーべるちゃんの頭越しに、ボールを力一杯投げた。ボールは隣の部屋の中に転がってゆく。
そして、シンシアとさーべるちゃんは、そのボールを追いかけた。
レイアは、シンシアの後ろ姿を見て、笑みを浮かべる。
「I’m so happy Cynthia grew healthy and fine. Amurru, please, please grow fine like your elder sister. (元気に育ってくれてよかったわ。ね、アムルちゃんもお姉ちゃんのように元気に育ってね)」
レイアは、アムルに話しかける。
アムルの口元が少し動いたと、レイアは感じた。
ソファーの横の小さなテーブルの上には、4人で撮った記念写真が飾られていた。
大城戸博士とレイア、レイアの腕に抱かれるアムル。そして、博士の前で、さーべるちゃんに抱きつくシンシアの4人だ。
サンディエゴから見える太平洋を背景にして撮られた写真だ。青い空と青い海が4人の表情を明るくしていた。




