始まりの魚
博士とシンシアは、神具『トライデント』を持って、オーストラリアのブリズベンまで帰ってきた。
空港の荷物検査で一悶着あったが、研究用の資料ということでなんとか切り抜けた。
海外では『博士号』の価値が高く、教授に対する評価も高い。
博士号を有する教授というだけで、信用が大きく跳ね上がる。
もちろん、神具『トライデント』を何かの犯罪に利用する訳では無い。そのため、特に規制される訳でもない。一般人が使っても、武器では無い。無論、正当な持ち主である海神ポセイドンが使えば話は別であるが。
研究機関パーズは予定通り、10日間のオーストラリア停泊後に、北アメリカに向けて出航した。
博士とシンシアとレイアの3人は、大城戸研究室の実験室にいる。
「よし、パパ、ママ。見ていてよ」
海水を入れたガラスビーカーの前で、シンシアがトライデントを構える。
4歳の幼女とは思えない真剣な顔つきである。
青色の潤んだ目が、ガラスビーカーを映し出す。シンシアは、静かに息を整える。実験室は、恒温槽の出す小さな稼働音が、ウゥゥゥ、と微かに聞こえるほど、静かだ。
シンシアは、トライデントを握り、集中している。
海神ポセイドンであった時は、いろいろな生物を作り出した。最初の一匹を作ったのは、何億年も前のことである。最近の生物は、数千年前に作ったきりだ。
シンシアは、両手にさらに力を加え、トライデントを握る。
博士とレイアは、シンシアの姿を、じっと見つめていた。
ポコッ、ポコポコッ
ビーカーの中の海水から、小さな泡がぽつぽつと生じた。
ボコ、ボコボコッ
泡の数は次第に増え、泡を立てる。空気を含んだ海水の泡は白く色を変えた。
ゆっくりと白い泡はまとまり、徐々に魚の形を形成していく。均一な淡白だった泡に、薄い水色と銀色の輝きが現れる。
ボコボコッ
シュワーー
泡がなくなった時、ガラスビーカーの中にいたのは、小さな魚だった。
見た目は『鯵』の稚魚である。それが5匹、ビーカーの中を泳いでいた。
「ふぅ、何匹できた?」
シンシアは大きく息を吐いた。
そして、構えていたトライデントを降ろす。
「5匹いるね」
博士はビーカーに近づき、それらを横から眺める。
「Oh my god, it’s fantastic. You could produce a fish. (すごいねぇ、本当に魚が作れちゃうのね)」
レイアも、博士の少し後ろからビーカーを眺め、驚きの声をあげた。
博士は、この『アジ』に、『アジム(Adim)』という名前をつけた。
大城戸研究室で生まれた最初の魚類である。
人工合成の方法では、脊椎を持った動物を合成するのは、当分先のことだと、博士は考えていた。脊椎と中枢神経系を持つ動物はそれだけ胚発生が複雑になるからだ。人工合成したゲノムDNAを入れ替えただけで作れる単純なものでもない。
それ故に、海神ポセイドンの力で、水産の脊椎動物を手に入れられたことは大きい。人類にとっても、大城戸研究室にとっても。
大城戸研究室の大きな水槽には、ベニクラゲとエビ、そして、チューリップとヒヤシンスで賑わっている。エビクラゲは、ほぼ透明であり、目を凝らさないとどこにいるかはわからないが、水槽内のどこかにはいる。また、すみっこの方の緑のガラス瓶にはシロイヌナズナが活けられている。
忘れてはならないが、ポスドクの久保信一が作製したウニは、まだ、ガラスビーカーの中で飼育されており、この大水槽には入れられていない。
この大きな水槽に魚を入れることが、博士の目標の一つではあった。
しかし、万全を期して、『アジム』は、当分の間、ガラスビーカーで分けて飼うことにした。数を増やすまでは慎重に扱わないといけない。
「あー、疲れた。頑張ったら、疲れちゃった。パパ、おやつにしようよ」
シンシアは、海神ポセイドンの表情から、幼女シンシアの表情に戻る。青い目に、丸みを帯びた笑みが戻る。
「いいよ、じゃあ、おやつタイムにしようか」
博士は、そのガラスビーカーを恒温槽にしまった。恒温槽の中には、ベニクラゲ、エビクラゲの入ったガラスビーカーもある。恒温槽の中も賑やかになってきた。
博士はそれらを見て、満足そうに笑みを浮かべた。
研究室の居室で、シンシアとレイアと博士は、テーブルを囲んでいた。
シンシアの前の皿の上には、チョコパイがのっている。
シンシアの大好物だ。
コップの中にはアップルジュースが並々と注がれている。今日の実験の立役者である海神ポセイドンへのせめてもの敬意である。
さーべるちゃんは、シンシアの椅子の後ろで骨ガムに、かぶりついている。尻尾を、ブンブン振り回しながら、骨ガムに夢中だ。さーべるちゃんにも、幸せのおすそ分けである。
「すごいね、そのトライデント」
博士は淹れたての熱いコーヒーを、チビチビとすすりながら言う。
博士の視線の先には、ガラスの扉越しに、教授室に置いてあるトライデントが見える。多くの専門書が並ぶ本棚の横に、その本棚と同じくらいの高さのトライデントが、寄りかけられていた。漁師が使う銛のようである。教授室にはそぐわないものである。
「うん、そう。まぁ、このトライデントは、力を増幅してくれるだけだから、すごいのは、一応、わたしなんだけどね」
シンシアは、てへっ、と小さくベロをだす。
そして、チョコパイに顔を向き直し、大きく口を開ける。
「でも、神殿はボロボロになっていて、砂が堆積していたんでしょ? 爆弾か何かにふきとばされたのかなぁ? でも、それだったら、シンシアも気がつくよね? 神殿全部と海神ポセイドンを一気に吹き飛ばす、何か大きな爆発が起こったとか?」
博士は、軽く、首をかしげる。
「でもどうやって?」
と、シンシアは言う。
チョコパイをモグモグと口に含みながら喋る。
神殿も海神ポセイドンも巨大である。ちょっとやそっとの爆弾ではやられないはずだ。しかも、海の底である。火薬の類は使えない。
「そうだよね。あんなところで爆弾が爆発するとも考えられないしね。謎は深まるばかりだね。でも、今回は、そのトライデントが手に入ったし、神殿の状態もわかったし、あそこまで行った意味はある。と、ポジティブに考えようよ」
博士は自分のチョコパイを半分に割り、そっとシンシアの皿に乗せた。
シンシアは、自分のチョコパイにかぶりつきながらも、皿の上に追加された半分のチョコパイに大きく目を開く。
「そうだね」
と、シンシアは頷く。もちろん、シンシアの目線は、チョコパイに注がれていた。
研究機関パーズは、北東に向かって順調に進行していた。
もう少しで、南半球から赤道をまたいで、北半球に戻る。
6月のある日のことであった。




