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 ラスカーがテレンティアと1番近くに居たのは、彼が11歳の年である。

 ラスカーは12歳になってすぐ、騎士見習いとして寄宿舎の生活が始まる予定だった。そうなると、卒業までそうそうテレンティアと顔を合わせることもなくなる。今以上に関係が悪化してしまうかも知れないと、周囲は青ざめた。

 未だにラスカーと顔を合わせれば泣き出すテレンティアも、毎日顔を合わせれば慣れるのではないかということで決行された作戦が、ラスカーがフリードマン家へ奉公にでるというものだった。奉公と言っても、テレンティアの話し相手兼小さな護衛として傍にいるだけのことだが。

 この1年間でテレンティアが慣れることがなければ、覚悟を決めて王に婚約破棄を願い出よう。両家の親はそう水面下で取り決めており、2人の行く末をはらはらと見守っていた。

 結果としてこの作戦は功を奏し、テレンティアはこの年の途中から泣き喚いて嫌だとは言わなくなった。決して好意的ではないものの、ラスカーのことを婚約者と称し、ぎこちなく隣に立つようになったのだ。これには両家の親とも両手を上げて喜んだ。


 変化があったのはテレンティアだけではない。ラスカーの側にも変化は訪れた。

 テレンティアのことを、泣いてばかりいるよく分からない少女ではなく、自分が生涯を賭けて守るべき少女と認識するようになったのである。





 将来が有望と口々に言われる可愛らしい顔で睨まれるのが、苦手だ。

 ただ外見が愛らしいだけで、泣きわめいてばかりの駄々っ子のような少女が、苦手だ。

 ありとあらゆるものに囲まれて当然の様に佇む姿が、苦手だ。


 幼いラスカーはテレンティアのことをそう思っていたし、事実そうに違いないと殆ど確信していた。それが大きな間違いであると、ともに過ごす日々が教えてくれたのだ。

 毎日毎日、家庭教師が入れ代わり立ち代わり訪れるフリードマン家。どんな授業にも、テレンティアは泣き言1つ言わず、手を抜くこともなかった。

 5つ年上のラスカーがテレンティアよりも高度な学習をしていると気づいた時には、追いつこうと目を真っ赤にして夜遅くまで勉強していた。

 毎日届けられる多種多様な贈り物に関していえば、テレンティアはいつも笑顔で受け取っていたが、ラスカーと2人になると瞬く間に真顔に戻った。おそらくラスカーなどいないものと考えているからなのだろうが、増えすぎた衣服や装飾品を前に小さく息をつく姿は、およそ幼い少女に似つかわしくない様子だった。笑顔で受け取らねば贈り主に対して失礼にあたり、あたかも自らが欲しかったものであるかのように振る舞うという処世術が、彼女の身に染み付いていたのだ。

 これらのことを本人は気づかれていないと思っていたようだが、ラスカーは当然気づいていた。

 テレンティアへの賞賛は、生まれもった幸運ゆえに与えられるものではない。幼い頃から彼女が血の滲むような努力をした上に成り立っていたのだと、数年越しに気づいたのだった。






「―――やめてくださる?」


 ある時、人から隠れて静かに泣くテレンティアを初めて見た。

 泣いている姿自体は見慣れている。流石に顔を合わせる度に泣かれることはなくなったが、ラスカーとの婚約の話になると今でも彼女は嫌だと泣き喚くので。

 ただ、この時見かけたテレンティアは見慣れた泣き姿ではなかった。泣き顔など何度も見ているというのに、慌てて涙を拭って、見られたくないものを見られたとでも言いたげに忌々しそうに視線を逸らす。その様子に驚いて思わず声をかけ、差し伸べたラスカーの手を、テレンティアは見事にはたき落としたのだった。


「……大丈夫ですか」

「何も変わりありませんわ。手を差し出すのはおやめください」


 叩かれた手が行き場を無くして立ち尽くすラスカーをひと睨みし、テレンティアは何事も無かったかのように立ち上がった。どうしていいのか分からないラスカーなどお構いなしに、彼女は半ば独りごちるようにしてぽつりとこう言ったのだ。


「わたくしは、すべてが欲しいわけではありません。いつか本当に欲しいものを見つけたとき、自分の手で掴みとりたいだけです。そのための努力など苦ではありませんわ」


 誰に対してでもない、彼女の独白に近いその想いを、ラスカーは初めて耳にした。

 テレンティアはくるりと体の向きを変え、今度はラスカーに対して口を開いた。


「もちろん、あなたの手助けなど必要ございませんの」



 ―――ああ、この少女は将来、何者からも跪かれるような女性になるだろう。



 こちらを睨みつける真っ赤な瞳を見つめてそう確信した時、ラスカーの背に衝撃が走った。

 テレンティアがただ愛らしいだけの人ではないと、愛でられるだけの人でないと、知ってしまった。

 それからずっと、小さな手で懸命に頑張る姿を見ていた。背筋を伸ばし、堪える姿を見ていた。


 彼女の歩みを支えたい。

 テレンティアを、全てのものから守る騎士になりたい。


 初めは、婚約者としては少しずれた、忠誠心のようなものだった。けれどラスカーはこの時から、テレンティアのことが愛しくて仕方が無くなってしまったのだ。


「それならば、私はその背に立ちましょう。貴女が常に高みを目指すことのできるように。後の憂いは取り除きましょう。ですからどうか、私だけには、あなたのどんな背でも見つめ続けることをお許しください」


 片膝をつき、頭を垂れ、胸に拳を当てる。騎士が忠誠を誓う体制。ラスカーは思わず、以前どこかで見かけただけのうろ覚えの動作を取った。

 そんなラスカーの頭上から、消え入るような声音で許しの言葉が降ってきたのは、暫くの沈黙の後だった。





******






 雲一つない晴天。

 絶好の遠出日和。

 そこかしこから、婚約者たちの楽しげな声が聞こえる―――というのに、ラスカーとテレンティアは終始無言で突っ立っていた。

 横目に盗み見るテレンティアは、今日も一分の隙もなく完璧だ。艶やかな黄金の髪が眩しく、肌は日の光さえ通してしまうのではないかというほど白い。纏うのは淡い緑のドレスで、花畑の妖精か女神か、といった出で立ちであった。婚約者連れの男しか居ないにもかかわらず、相変わらず周囲の視線を集めている。隣に立つラスカーと目が合うとどんな男も慌てて目をそらすのだが。

 素晴らしい出で立ちのテレンティアは、扇で口元を隠して穏やかな微笑みを浮かべている―――かのようにみえるが、実際はその隠された口元が歪んでいることをラスカーは知っている。今日も今日とて早くも不機嫌そうだ。

 かといって、いつものように黙ったままというわけにも行かない。集団デートとはいうものの、やはり各々が自分の婚約者と楽しんでいるし、付き添いの侍女や侍従は遠巻きに眺めているだけである。夜会のようにひっきりなしに挨拶を受けるようなこともない。つまりはラスカーとテレンティアは、ほぼ2人きりなのだ。会話をしないことにはどうしようもない。

 ラスカーは勇気を振り絞り、テレンティアを見た。


「良い天気ですね」

「ええ」


 天気の話題、終了。

 それ以上会話が続くこともなかった。テレンティアが大きくため息をつき、ラスカーはまたしても落ち込む。顔には出ていないが。


 目の前には、光を受けて輝く大きな湖。他の参加者がそれぞれ湖の辺りの木陰に腰を下ろし始めたのを見て、ラスカーもそれに倣うことにした。

 人のまばらな辺りに狙いをつけ、テレンティアを伴って移動した。ハンカチを広げ、その上にテレンティアを導く。テレンティアが一瞬行動を止めたので、何かまた間違えたのかと思ったが、聞こえてきたのは罵倒ではなかった。


「あ、ありがとうございます」


 驚いてテレンティアを見つめると彼女はさっと顔を逸らした。肩が小刻みに震えている。

 何も言わないラスカーの視線に耐えかね、テレンティアが声を上げた。


「見ないでくださいませ!」

「……申し訳ない。しかし今、」

「わ、わたくしがお礼も言えない女だと思っていたのですか?」

「いや、決してそんなことはないですが」


 誰かにお礼を言っているのはいつも聞いている。ラスカーがお礼を言われたことが片手で足りるほどしか無いだけだ。いや、もしかしたら公の場で形式上述べられたことを除けば初めてかもしれない。


「……この会にも、一緒に参加していただき、ありがとうございます」


 まさかここで、追加でお礼を言われるとは。

 内心更に驚くラスカーから、テレンティアはぷいと顔を逸らした。


「わたくしが参加したいと我儘を言ったのです。お礼を述べるのは当然です」


 なんと、今日のことはマルセルがお膳立てしたのだと思っていたが、違うのか。テレンティア自らが参加したいと思ったのか。ラスカーは更に驚いた。

 テレンティアは膨れ面を扇で隠し、黙り込む。ラスカーも黙り込む。暫しの沈黙の後、先に口を開いたのはラスカーであった。


「申し訳ありません」


 自然と口をついて出た謝罪の言葉に、テレンティアがラスカーを見た。


「何が申し訳ないのですか?」

「此処にいるのが私で。折角テレンティア嬢が望んだ会に赴いているというのに、私はマルセルのように気の利いた会話も出来なければ、笑顔1つ作れませんから」


 例えば不審者がやってきたなら、何に替えてもテレンティアを守り抜けるだろう。そこにおいては誰にも引けをとらないと思っているが、何かが起こるわけでもないこうした場で、ラスカーが誰よりも無力なのは自分自身が1番理解している。


「わたくし、マルセル様の方が良いだなんて言ったことがございまして?」


 テレンティアは大きなため息をつき、ぱたんと扇を閉じた。その瞳は怒りに燃えている。


「ねえ、ラスカー様? わたくし、一度でもそんなことを口にしまして?」

「…………いや」


 思い返すが、そんなことはない。そう見えるというだけだ。そうに違いないと思っているが、はっきりと聞いたことなどなかった。

 改めてそう考え、何とも身の置き場のない気持ちになる。これではまるでただの醜い嫉妬だ。それも被害妄想混じりの。


「人に伝えられても笑い飛ばしておりまして、まさかとは思っていたのですけれど」


 ラスカーの内心など知らず、テレンティアはじろり、とこちらを睨みつけた。


「ラスカー様、貴方、わたくしとマルセル様を何と思っていらっしゃるの?」


 ―――とうとう言われてしまった。

 ラスカーは今この時も、表情の変わらない己を幸運に思った。感情が顔に出ていたら、険しく歪んでいただろうから。


「……好き合っているのでしょう」


 テレンティアから視線を逸らして告げたこの一言は、ラスカーの中ではとても重たいものであった。とうとう言ってしまったと、はたしてテレンティアからはどんな返事が返ってくるのかと、覚悟を決めて次の言葉を待つ。

 しかし、最初に聞こえてきたのはテレンティアの声ではなく、めきりという何かが軋む音だった。視線を戻すと、音の発生源はすぐに知れた。テレンティアの持つ扇である。

 青筋が立つほど扇を握りしめる手から徐々に視線を動かし、テレンティアの顔までやってくると、彼女は見たこともないほど恐ろしい形相をしていた。


「今、なんておっしゃったのかしら? わたくしは耳がおかしくなってしまったみたいね」


 有無を言わさぬひと睨みである。

 どうやらまずいことを口走ったらしいと、ラスカーは息を呑んだ。

 テレンティアはしばらくラスカーを睨みつけたあと、非常に重たいため息をつき、次いで視線を逸らした。


「……わたくしは、マルセル様を好いてなどおりません」


 ぽつりと呟かれた言葉に、ラスカーは目を見開いた。とはいっても常人には分からないほど極僅かにだが。


「まさかラスカー様が勘違いをされているとは、信じたくなかったのですけれど」


 呆れのこもった一言に居心地が悪くなる。


「し、しかし、それならばテレンティア嬢の欲しいものとは一体何なのです」

「欲しいもの?」

「以前おっしゃっていたでしょう。1番欲しいものを手に入れるために努力をしているのだと」


 ラスカーはずっと、それがマルセルなのだと思っていた。

 幼いときの話ゆえ、もしかしてラスカーしか覚えていないのかと思ったが、テレンティアもすぐに思い至ったようだ。


「わたくし、1番欲しいものは生まれる前から手にしていたことに気づいたのです。手にしている実感はないのですけれど」

「それがマルセルでは」

「まだ本気でそんなことをおっしゃっていますの? 生まれる前からあんな意地の悪い男を手にしていたなら、わたくし迷わずその手を払いのけますわよ。ましてや婚約者なんて願い下げですわ」


 あなたに対しては嫌なものは嫌だと言う主義なのです、とテレンティアはつんと胸を反らす。その様子はありありと思い浮かんだ。なにせ実際にそうだった。

 テレンティアが生まれる前から手にしていたもの。ラスカーにはさっぱり分からなかったが、どうやら本当にマルセルではないらしい。

 きゅっと眉根を寄せたいつもの不機嫌な表情で、テレンティアは言葉を続けた。


「と、とにかく! わたくしの婚約者は、あなたしかいないのです」


 最初から決められており、選択の余地などなかったからだろう。


「最初から決められていたからなどというくだらない理由ではありません!」


 そう口に出したわけでもないのに、ラスカーの考えることなどお見通しなのか、テレンティアは顔を真っ赤にして声を荒げた。

 その言葉を聞いて、ラスカーの胸にふつふつと温かいものがこみ上げてくる。


 最初から決められていたから、嫌々関係が続いているのだと思っていた。分別のつく大人になったから、幼い頃の様に嫌だと口に出さなくなっただけで。

 けれど少なくとも、彼女の中で折り合いはついているらしい。好ましくはないものの、嫌で堪らないほどではないくらいに。


「わたくしの婚約者は…………あなただけです」


 重ねて続けられた言葉で、更に胸が熱くなった。

 ラスカーは外に表す術を知らないだけで、この感情が何かは知っている。


「そうですか」

「そっ、そうです! 何か文句でもありまして!?」

「あるわけがないですよ」


 ふっと、生まれて初めての柔らかい気持ちになった。この身に纏うすべてのものが柔らかくなったかのようにも思えた。



「私は、この上なく幸福な男なのだと思っただけです」



 ラスカーがそう告げた途端、テレンティアが目を見開いてわなわなと震え始めた。


「わ、わ、笑っ…………」


 テレンティアは顔を真っ赤にさせたまま、口をぱくぱくと開け閉めした。何か言いたくて、でも言葉にならない様子だ。

 ラスカーが首を傾げて次の言葉を待っていると、とうとう彼女は目を回して卒倒した。


「テレンティア嬢!?」


 ラスカーは慌ててその体を支え、横たえる。離れて見守っていた侍女が悲鳴を上げて駆け寄ってきた。

 慌てて脈を取ると随分と早く、額に手をやると酷い熱。これは重病だ。

 だというのに、目の前のテレンティアは至極幸せそうに目を回している。時折、「わ……わら……」とよく分からないことを呟きつつ、それでも幸せそうだ。


「…………藁?」


 藁が欲しいのだろうか。

 元気になったら山ほど贈ろうと思いつつ、なぜテレンティアは藁が欲しいのかと、ラスカーはまたしても首を傾げた。


お読みいただきありがとうございました。

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