第五十九話 夢の終わりと、帰る場所――
「あれ……私、バスにいたはずじゃ……?」
ゆっくりと瞼を開く。
視界に飛び込んできたのは、修学旅行帰りのバスの天井でも、白く豪華な高い天井でもなかった。
見慣れた木目の天井、少し黄ばんだ壁紙、六畳一間の狭いワンルームマンション――。
「……え?」
状況が理解できず、ゆっくり身体を起こそうとする。
その瞬間、首筋に鈍い痛みが走った。
「いたた……。」
どうやら机に突っ伏したまま、眠ってしまっていたらしい。
目の前ではパソコンの液晶が青白く光り続けている。
画面に映っているのは、自分が企画・制作を担当した乙女ゲーム『恋するエグゼクティブ』――
見慣れたタイトルロゴだった。
「……そっか。またパソコンの前で寝落ちしちゃってたんだ……。」
立ち上がり、洗面台へ向かう。
鏡に映っていたのは、アメジストの瞳を持つ美しい少年ではない。
寝癖だらけの髪を適当にゴムで束ね、首元の伸びきったTシャツに、くたくたの短パンを履いた、ごく普通の二十代の女性。
見慣れた、自分自身だった。
「……ふふっ。」
思わず笑いが漏れる。
「なにこの格好……。」
少しだけ笑ったあと、私は鏡の中の自分をぼんやり見つめて小さく呟いた。
「そっか……。私……夢を見てたんだ。」
長く、長く、幸せな夢を――。
乙女ゲーム『恋するエグゼクティブ』の世界へ転生して。
最強で冷徹な生徒会長・如月玲として生きて。
サクラや律、絢、豪、ソノちゃん、凌くん、烈、冴先輩たちと出会って。
体育祭や文化祭で笑って。
奈良や京都へ修学旅行へ行って。
みんなから、胸が苦しくなるほど真っ直ぐな想いを伝えられて――。
ポロポロポロ――。
気付けば、涙が頬を伝っていた。
「そっかぁ……。」
声が震える。
「あれは……全部、夢だったんだぁ……。」
あの愛おしかった日々も、大好きなみんなも、最後に伝えようと決めた想いも――全部、夢。
止まらない涙を袖で拭いながら、私は重たい足取りで狭いキッチンへ向かった。
どんなに悲しくても、お腹は空くらしい。
電気ケトルのスイッチを入れ、棚からいつものカップ麺を取り出してフィルムを剥がす。
「でも、本当にリアルな夢だったなぁ……。」
お湯を注ぎながら、小さく笑った。
昼過ぎ――。
身支度を済ませた私は玄関へ向かう。
パソコンはつけっぱなし。
「まぁ、帰ってきてからまた作業するし。このままでいっか。」
電源を切ることなく部屋を後にした。
静まり返ったワンルーム。
誰もいなくなった部屋で、パソコンの画面だけが静かに点滅する。
『▶ バグデータ消去進行率 75%』
『▶ 対象コード:REI-KISARAGI』
『▶ 消去まで 残り24時間』
誰にも見られることなく、その数字だけが静かに進み続けていた。
照りつける夏の日差し。
駅前へ向かう人混み。
信号待ちをする会社員や学生たち。
「……現実だ。」
思わず苦笑する。
「昨日まで、あんな夢を見てたなんてなぁ。」
横断歩道を渡りながら、ふと制服姿の高校生たちが目に入る。
楽しそうに笑い合う姿に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
(みんなも、あんな風に笑ってたな……。)
すぐに首を横へ振る。
「もう、引きずっちゃダメ。」
私は小さく自分へ言い聞かせ、そのまま会社へ向かった。
夕方――。
企画会議を終え、会社を出る。
「お疲れさまでしたー!」
同僚たちへ手を振り、いつもの帰り道を歩く。
コンビニで夕食と飲み物を買い、見慣れたアパートの階段を上る。
「ただいま〜。」
誰もいない部屋へ、いつものように声をかける。
返事はない。
それでも習慣になっている挨拶を終えると、そのままベッドへ勢いよく倒れ込んだ。
「はぁ〜……。」
大きく息を吐く。
「今日の企画会議も白熱したなぁ。」
『恋するエグゼクティブ』のヒットを受け、続編制作が正式に決定した。
当然、第一作の企画・制作を担当した私がプロジェクトリーダーに任命され、今日が第一回の企画会議だった。
「もう、何なのあの新人ちゃん!」
枕へ顔を埋めながら叫ぶ。
「第二弾はサスペンス要素を入れて、バッドエンドを増やしましょうって……! 私の可愛い子どもたちに、そんな胸糞エンド作るなってーの!」
当然、私は全力で反対した。
けれど議論は平行線のまま、結論は次回へ持ち越し。
「それに続編だから、冴と烈は卒業してるし……新キャラも考えないと……。」
そこまで呟いた瞬間だった。
「あれ……?」
身体がぴたりと止まる。
「新キャラ……?」
鼓動が速くなる。
「……バッドエンド?」
頭の奥で、誰かの笑顔が浮かぶ。
(ソノちゃんと凌くん……。私……知ってる。二人のことも……バッドエンドの内容も……。)
胸の奥がざわつく。
「……本当に……あれは、ただの夢だったの?」
その瞬間――。
ピーーーーーーーッ!!
部屋中にけたたましいアラームが鳴り響いた。
「な、何っ!?」
反射的にパソコンへ駆け寄る。
画面は赤黒く明滅し、無数のエラーウィンドウが開いていた。
『▶ バグデータ消去進行率 89%』
『▶ 対象コード:REI-KISARAGI』
『▶ 消去まで 残り10時間』
「……え。」
その文字を見た瞬間。
頭を内側から引き裂かれるような激痛が襲う。
「うっ……!」
視界がぐらりと揺れた。
(『バグデータ消去』……『対象コード……REI-KISARAGI』……。玲が……消される……?)
膝から力が抜け、その場へ倒れ込む。
意識が急速に遠のいていく。
薄れていく視界の中、最後に浮かんだのは、一人の少年だった。
アメジストの瞳で笑う、あの時、全てを自分に託してくれた――如月玲。
「……ごめん。」
涙が零れる。
「……約束……守れそうに、ない……。」
その言葉を最後に、私の意識は静かに闇へと沈んでいった。
目を開いているのか、閉じているのかさえ分からないほどの闇。
音も、光もない世界で――ただ一つだけ、誰かの声が響いた。
『みんなを、幸せにするんじゃなかったのか?』
静かで、凛とした低い声。
『俺のことも……幸せにしてくれるんじゃなかったか?』
「……玲?」
聞き間違えるはずがない。
如月玲の声だった。
『その手にあるものは、何だ?』
「手……?」
暗闇の中、私は恐る恐る右手を動かす。
指先に触れたのは、小さく柔らかな感触。
布に包まれた長方形。
短い紐が一本、指先へ触れている。
「……お守り。」
その瞬間、全てを思い出した。
修学旅行の帰りのバス。
私が六つの中からたった一つだけ選び、最後まで握り締めていた――お守り。
――バチッ。
身体を電流が駆け抜けるような衝撃。
閉ざされていた視界が、一気に開いた。
そこは、さっきまでいたワンルーム。
荒い息を吐きながら身体を起こす。
鉛のように重い身体を何とか壁へ預け、机の上のパソコン画面を見る。
そこには、無情な数字が映し出されていた。
『▶ バグデータ消去進行率 99%』
『▶ 対象コード:REI-KISARAGI』
『▶ 消去まで 残り10分』
「……っ!」
時間がない。
私は、胸元のお守りを両手で強く握り締めた。
「私、まだ消えたくないっ……!」
涙が溢れる。
「まだ、伝えたいことがあるっ……!」
胸が締め付けられる。
「また、みんなと笑いたいっっ……!!」
熱くなったお守りを胸へ押し当てる。
ドクン、ドクン――鼓動が、うねりを上げて激しく鳴り響く。
その時だった――。
部屋中へ、切迫した声が響く。
「玲! どこっ!?」
「玲……僕の声が聞こえますか!?」
「如月! 帰ってこい!!」
「玲会長!! 今、助けますから!!」
「会長!! 約束しただろ!? 無事に帰ってこいって!!」
「神!! 起きてください!!」
聞き慣れた、大好きな声。
涙が止まらない。
「みんな……!」
次の瞬間。
まばゆい閃光が部屋中を包み込んだ。
恐る恐る目を開く。
白い光の中に、六つの人影が浮かび上がっていた。
「そんな……。」
夢じゃない。本当に、迎えに来てくれた。
その時、パソコン画面では表示が静かに切り替わった。
『▶ 認証成功』
『▶ バグデータ隔離空間 解放』
私はその表示に気付くことさえできず、膝をついたまま、ただ目の前の仲間たちを見つめていた。
律が一歩近づき、私の前へしゃがみ込む。
「玲、ここにいたんだね。」
優しく笑う。
「隔離空間では、姿なんて関係ない。」
そっと手を差し伸べた。
「俺たちは、ちゃんと玲だって分かるから。」
豪が隣へ来て笑う。
「ああ。如月は、案外泣き虫だからな。」
肩を竦める。
「そんな顔するのは、お前しかいねぇ。」
絢は安心させるように微笑んだ。
「玲、怖い思いをしましたね。」
そっと肩へ触れる。
「もう、大丈夫です。」
「玲会長……!」
サクラは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、飛び付く勢いで近付いてくる。
「本当に……本当に良かったです……!」
凌も照れ臭そうに鼻をこすった。
「会長。」
ぶっきらぼうに手を差し出す。
「帰ろうぜ。」
最後にソノが一歩前へ出る。
「神。」
真っ直ぐ私を見つめる。
「ここは、現実世界ではありません。」
静かに告げた。
「世界の修正プログラムが、神を『バグ』として隔離した仮想空間です。」
私は息を呑む。
「だから神は、本来の姿に戻されていたんです。」
ソノは優しく微笑んだ。
「神が私たちと過ごした時間は、夢なんかじゃありません。」
その言葉を聞いた瞬間。
――パキッ。
部屋の壁へ一本の亀裂が走る。
天井、窓、床、パソコン――世界そのものが、ガラス細工のように次々とひび割れていく。
「隔離空間の維持が限界です!」
ソノが、部屋の扉を勢いよく開く。
その先には、もうワンルームの廊下はなかった。
どこまでも続く白い光だけが広がっている。
「急ぎましょう!」
みんなが次々と光へ飛び込んでいく。
(さぁ、帰ろう! みんなとの場所へ。)
私は涙を拭き、光の中へ飛び込んだ。
その瞬間――。
眩い粒子が私の全身を包み込む。
二十代の女性だった姿が、音もなく光へ溶けていく。
隔離空間が作り出した『偽りの姿』が、一枚ずつ剥がれ落ちていくようだった。
長い黒髪が短く整い、身体は引き締まり、気高い気品を纏っていく。
アメジスト色の瞳が光を宿す。
そこに姿を現したのは――
乙女ゲーム『恋するエグゼクティブ』最強にして冷徹なる生徒会長――如月玲。
世界の修正プログラムが作り上げた偽りの現実は、音を立てて崩れ去った。
如月玲は、再び仲間たちの待つ世界へ帰った――。




