第五十話 もうひとつの人魚姫
文化祭当日――。
学園中が、いつにも増して熱気を帯びていた。
色鮮やかなモールや手作りの装飾が廊下を彩り、各クラスの模擬店からは香ばしい匂いと、楽しげな笑い声が響き渡っている。
日常から切り離された、特別なお祭り騒ぎの一日。
そして、今年の生徒会が満を持して放つ企画は――
演劇『人魚姫』。
特設ステージの前には、開演を待ちわびる多くの観客が人だかりを作っていた。
注目の配役は――
人魚姫……ソノ。
王子……玲。
隣の国の姫……サクラ。
魔女……絢。
人魚姫の姉たち……律、豪。
ナレーション……凌。
「……本当に、この配役で大丈夫なんですか? 私が人魚姫でいいんでしょうか?」
舞台袖の暗がりの中で、ソノは落ち着かない様子で自身の衣装の裾をつまんだ。
「大丈夫だって! この配役は、全校生徒の投票で決まったんだから。自信持って!」
玲は、まぶしいほどの笑顔をソノへ向ける。
「みんなで練習してきたし、それにソノちゃんの人魚姫、めちゃくちゃ似合ってるよ。」
「そ、そうですか……?」
照れくさそうにはにかむソノ。
だが、その胸中は複雑だった。
(本来の『恋エグ』のシナリオなら、こんな文化祭イベントなんて用意されていなかったのに……。)
チラリと、熱気に満ちたステージに視線を走らせる。
(でも……この世界に神がいるのなら、今回もきっと――)
「……バッドエンドには、なりませんよね。」
誰に聞こえることもなく、か細く呟いた。
パチン、と会場の照明が一斉に落ちる。
喧騒が嘘のように引き、静寂が広がる客席。
そして――。
静まり返った空間に、凌の落ち着いた低音が響き渡った。
『――昔々、海の底に一人の人魚姫がいました。』
観客席から、感嘆を交じえた小さなどよめきが漏れる。
もともと冷静沈着な凌の声は、響きの良いアリーナのような講堂の舞台に、驚くほど映えていた。
(凌くん、やっぱり声いいなぁ……)
思わず舞台袖から聞き入る玲。
しかし、その直後――。
『なお、この物語には、多少のアドリブが含まれます。』
凌は、あくまで平然としたトーンで言い放った。
客席からクスクスと笑い声が起きる。
(!? 今、さらっと重大なこと言いました!? 嫌な予感しかしないんですけど!!)
ソノは両手で頭を抱え、天を仰いだ。
『ある日、人魚姫ソノは、海で溺れている王子を助けました。』
ナレーションに合わせ、舞台中央の青い照明が海の底を演出する。
その光の中、横たわる王子姿の玲の傍らに、人魚姫姿のソノがそっと寄り添った。
『しかし、人魚姫は自分の姿を人間に見られるわけにはいきません。後ろ髪を引かれつつ、物陰から王子を見守ることにしました。』
そこへ――。
華やかなお姫様ドレスをまとったサクラが、舞台の端から駆け込んできた。
「大変っ! 王子様が倒れてる!」
サクラは息を切らせながら、目を閉じたまま横たわる玲の元へと急ぎ寄った。
「大丈夫ですか……っ?」
「……うっ。」
芝居らしく、玲がゆっくりとまぶたを持ち上げる。
「あなたは……隣の国の姫。」
「はい。」
「あなたが、私を助けてくれたのですね。」
『こうして王子と姫は、次第に親しくなっていきました。』
舞台の隅から、ソノは切なげな瞳で二人を見つめる。
「……。」
『悲しくなった人魚姫は、思い詰めて海底の魔女へ相談することにしました。』
ふわりと舞台の空気が一変する。
妖しくも美しい紫色の照明に包まれ、絢が優雅な足取りで姿を現した。
「僕に何の用ですか、人魚姫。」
「私は……人間の足が欲しいんです。」
「人間の足……。」
絢は意味深な間を置き、妖艶に微笑んだ。
「それだけで、本当にいいのですか?」
「え……?」
――台本にないセリフ。
ソノの表情が、舞台上で完全に凍りついた。
(来たっ……! 魔王・絢の容赦ないアドリブ!!)
「あなたは、王子が欲しいのでしょう?」
「そ、それは……」
「ならば、足を得るだけでは足りないのでは?」
観客は息を呑み、ステージ上の不穏な駆け引きに静かに聞き入っている。
「僕なら、自分が不利になる相手の土俵では戦いません。」
絢は冷徹な、しかし楽しげな笑みを浮かべた。
「――王子を、人魚にしてしまえばいい。」
「「え……?」」
会場のあちこちから、素っ頓狂などよめきが上がる。
「そ、そんなことできるんですか!?」
「僕は、海底最強の魔女ですから。」
絢は微動だにせず、堂々と胸を張る。
「お安い御用です。」
「……。」
絶句するソノは、わらにもすがる思いで舞台袖の玲へ視線を送る。
(神……! どうしたらいいんですか、この状況!?)
すると玲は、客席からは見えない角度で、にっこりと親指を立ててみせた。
(大丈夫! そのまま続けて!)
(神! 対応が雑すぎませんか!?)
舞台上では、劇が続いている。
「ただし、条件があります。」
「やっぱり……代償は声ですか?」
「いいえ。」
「え?」
「そんなもの、いりません。」
「そんなもの……って……」
絢は一歩、ソノへと歩み寄り、冷たく美しい笑みを落とした。
「代わりに――王子の所有権を、僕がいただきます。」
ざわっ、と会場が大きく波立った。
「ええええええ――っ!?」
(何その理不尽な条件っ!?)
ソノは心の中で卒倒する。
(絢……これ絶対楽しんでるな……。)
玲は舞台袖で苦笑いをしていた。
『恐ろしい魔女と、理不尽な契約を交わした人魚姫は、王子のいる船へと向かいました。』
「そこにいるのは誰だ!?」
王子の玲が、ソノと対峙する。
「……私は人魚姫。あなたを海で助けたのは、本当は、私なの……っ」
「え……?」
その瞬間、舞台の空気が張り詰める。
サクラが、芝居を超えた真摯な涙を瞳に浮かべた。
「ごめんなさい……!」
「姫?」
「王子様を助けたのは、私ではありません。あなたが助け出してくれたと勘違いして……私、本当のことが、言い出せなくて……っ」
サクラは切なく微笑み、背筋を伸ばした。
「私は身を引きます。さようなら。」
くるりと背を向け、走り出すサクラ。
しかし――。
「待って!」
玲は迷うことなく、サクラの手首を力強く掴み取った。
「助けてくれたから、君を好きになったわけじゃない。その後、二人で過ごした時間は……全部、本物だろ?」
玲のまっすぐな瞳が、サクラを射抜く。
「王子様……。」
二人は互いの想いを確かめ合うように、力強く抱きしめ合った。
「「「きゃああああーーっ!!」」」
「最高!! 会長と副会長コンビ最高すぎる!!」
割れんばかりの歓声と拍手が、講堂の天井を揺らした。
「……えーっと。この場合、私はどうすれば……。」
途方に暮れるソノの背後から、リズミカルな足音が響く。
「おーい!! 人魚姫ーーっ!!」
「戻ってこーい。」
「姉さん達!?」
派手な人魚衣装をまとった豪と律が、ドタバタと勢いよく乱入してきた。
「男なんて、海を見渡せば他にもいくらでもいるぞーーっ!!」
「魔女との理不尽な契約も、クーリングオフで解除してきたから〜。」
「えっ、そんな現代的な制度あるんですか!?」
「いいから、一緒に帰るぞ!」
「……はいっ!」
『こうして――王子と姫は結ばれ。人魚姫は……。』
「よし! もっとカッコいい王子様、海に落ちてないかな~?」
『今日も元気に、大海原へ繰り出すのでした――おしまい。』
鳴りやまない、盛大な拍手と歓声が会場を優しく包み込む。
途中、魔女のアドリブ暴走に肝を冷やしたものの、どうにか無事に幕は下りたのだった。
ひんやりとした舞台袖に戻り、ソノは息を整えながら隣の玲を見上げる。
「……本来の人魚姫の物語って、最後は泡になって消えるはずじゃなかったですか?」
「うん、そうだね。」
玲は、全力を出し切った心地よい高揚感で、少しだけ頬を朱に染めていた。
そんな彼の姿を見て、ソノはふっと柔らかく笑う。
「この世界は……神がいるから、どんな物語もハッピーエンドに書き換わっちゃうみたいですね。」
玲は一瞬、驚いたように目を丸くした。
けれど、すぐにいつもの、とびきり優しくて温かい笑みを浮かべる。
「悲しい結末より、みんなで笑って終わる方が好きだから。」
秋の、熱気とざわめきに満ちた文化祭。
決められた運命の結末は――
こうしてまた一つ、彼らの手によって鮮やかに書き換えられたのだった。




